33
与人の語る。
私は小嶺によって、「押し込められた」、いや実際は「匿われた」宿の一番座に独り座して、ざわつく思いに耐え、息を潜めていた。
ずいぶん時間が過ぎて、誰かが中庭を歩いてくる気配があった。小さな足音は、やがて濡れ縁の前で止まったが、中を伺おうともしない。ただ庭にうずくまる様子である。
「誰だ」
「思左さま、マフサです」
マフサはまだ産後の養生をしている身のはずだ。私はあわてて障子を開け放った。
「赤子がジラーに連れ去られました」
顔は伏せたままだ。私は裸足で降りて行き、マフサの顔を覗き込んだ。殴られたあとがあり、唇が切れて血が流れ、まさに必死の形相であった。
「赤ん坊が、ジラーに連れて行かれました。与人主だけに返す。与人の命とひきかえに。でないと海に投げてやると……」
赤子を連れ去った。
私の命と引き換えに子を返す。あまりの衝撃で、目の前が真っ白になった。つまりジラーはとうとう私を殺すことにしたのだ。ああ、何故こんなことになったのだろう。
取り乱し、言葉を発することも出来ぬ。マフサが不安そうに見上げている。
「大丈夫だ、マフサ。お前の子は、私が」
わが母ウターだったら、どうしだだろう。わが守り姉だったら。逃げ出しただろうか、否。ああ、ウサー姉! 15の小娘が玉の命を捨てたのに、男の私が、臆病であっていいものか。
「お前の赤子を取り戻すぞ」
マフサの目から涙が溢れた。
「ありがとうございます。思左様。私の子だけではないのです、目差主が、ジラーの生き邪魔に。あのままでは、死にます……黙っていて、ごめんなさい……」言い終わらぬうちに、彼女は昏倒していた。
「マフサ! 教えてくれ、ジラーは何処へ行った!」
マフサの体を揺り動かして叫んだ。マフサはもはや正気もなかったのに、叫びに答えて、かすかに声を発した。
「崖…………うやんま墓、ウターさまの埋められている岬の……」
ざわざわしたものが、すっと収まる。耳の中で不思議な歌が聞こえた、と思った。あれは誰が歌っているのか。
島にあれば島を富ませ、村にあれば村を富ませてくれ、わが
子よ。
どこに居ても何をしても、私はお前を守っている。
私はマフサの痩せた体を、ゆっくりとその場に下ろした。
小嶺のかく語る。
ジラーは姿を消したが、「崖から子を落す」と言ったのである。それは、大きな手がかりだった。
この島で崖といえば、ひとつしかない。島の
西の岬である。うやんま墓のある岬だ。その先は、切り立った崖となって、海へと落ち込んでいる。崖の下は、潮の流れが複雑で、大人でも落ちれば危険である……。
そこしかない。私はわが宿に走り、棒を取った。与人の宿には、寄らなかった。
誰かを呼ぶなどとは思わなかった。
(この世から消し去ってやる)
ジラーの息の根を止める。既に私は、役人ではなかった。裁きを受けさせる、ということは、頭からすっぽり抜け落ちていた。胸のうちには、女敵でも討ちに行くような、激しい殺意があった。
人など殺したこともないものを。
果たしてジラーはそこに居た。うやんま墓の真ん中、下大豆の茂みに立ち、赤子の入った籠を抱えて、蔑む目で私を見つめた。
「与那城を呼べ、と言ったはずだ」
「与人は、御気分が優れぬ。ここにはいらっしゃらない」
「では、赤子は死ぬな。かわいそうに」
赤子が弱々しく泣き始めた。何故かは知らぬが、その声を聞いても、何の哀れも催さない。
「構わぬ。とっとと投げ込むがいい」
ジラーが薄い眉を上げた。
「これは、目差らしくもない、心無いお言葉ですな」
「百姓の赤子の命など、わしは一向に構わぬ。どっちにしろ、貴様はここで死ぬのだ!」
そういうと、ジラーとの間合いを詰めていった。この男の体を、どこから突き破ってやるか。笑い出したいほどに隙だらけだ。
ジラーは、ゆっくりと微笑んだ。
「随分とよく効いたようだな」
「何だと?」
「ビジュルを使った、特別な呪いさ。あんたは病んで、狂って、のた打ち回って死ぬんだ」
全身の体毛が逆立つのを覚えた。
「わしを呪っただと」
なぜ、私を呪うのだ。
「熱が出ただろう、具合が悪くなっただろう? 今も体が重いはずだ。呪いが効いてる証拠さ」
「何をバカなことを言っている」
「お前の足。腐ったぞ」
がくんと足の力が抜けた。ジラーは笑った。
「かわいそうに、お前はもう歩けない」
男は、こぶしをぐっと握って見せた。
「心の蔵も痛いだろう?」
胸に激痛が走った。息もできず、胸を掴み、棍棒を杖にしてやっと立っていた。のた打ち回るほどに胸が痛い。これは妖術だ。本当に痛いのではない!
「痛いだろう?」
ジラーが近づいてくる。
「寄るな!」
「腕が、腐った」
「ああ!」
わが身から、腐臭がする。棒を握っていられない。足元に落ちた棒を、拾い上げることも出来ない。私は無様に、その場でへたり込んでしまったのである。体に力が入らない。
「貴様、わしになにをしたっ」
恐怖で、目がかすむ。ジラーが笑いながら刃物を持って近づいてくる、私は、役立たずだ!
「やめろ、ジラー! 小嶺に手を出すな!」
叫び声がした。与人がすごい勢いで走ってくるのが見えた。
「いけません、そやつの言うことを聞いてはいけませんっ」
そう叫んだが、与人は私に一瞥もしない。ただ、ジラーを見据えるのみである。
「赤子を放してくれ。小嶺に手を出すな、お前が殺したいのは、私のはずだ」
ジラーは、ぼんやりと与人を見ている。与人は「斬れ。殺したいのだろう!」というと、一気に肌脱ぎになった。ジラーは、しかし、持っていた包丁を捨ててしまった。ジラーの目が、狂おしい喜びで光っている。
「里之子、わしと一緒に
後生に行こう。ここから一緒に行こう。ずっと待っていたのだ」
与人はしばらくジラーを見ていたが、やがて「わかった」と答え、自分からジラーの手を取った。泣く赤子を、下大豆の茂みに置き去りにして、ふたりが崖へと歩いていく。
「いけません、与人!」
私の叫びに、一瞬振り返ったそのとき、与人が悲鳴を上げた。背中が視界から消えた。残っているのはジラーだけである。
「ジラー、貴様!」
私は叫びながら、這って近づいていった。
「ここだ……助けてくれ」
土の中から、与人の弱い声がした。ジラーの足元に深い穴が開き、与人はそこに落ちていた。小さな頭と、土に汚れた白い肩が見えた。与人は穴に落ちて、ジラーに向かって手を差し伸べていたのである。
「足を挫いてしまった。痛くて力が入らないのだ」
ジラーは、穴を見下ろした。与人は震える声で、「は、墓穴を踏み抜いたようだ。骨を踏んでいる」とささやいた。
「ジラー。私と死にたいのなら引き上げてくれ。ここは、嫌だ」
ジラーは首を振った。何かこの世ならぬものを見つめているように、空ろな目である。
「ウターの手が、あんたの足を掴んでいる」
「ここが母の墓なのか?」
「わしを、睨んでいる」
ジラーは恐怖に怯えていた。
「やめろウター、そんな目で見るな」
穴から出られない与人を置き去りに、よろめく足取りで、岬の突端へと歩いていく。ついには、崖から身を投じたのである。
2008/3/24
波類間ユンタ34
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