| 波類間ユンタ |
その夜、何か具合が悪く、飯の後で横になっていた。風もなく寝苦しい夜だった。
夜半ごろに、笛の音が聞こえた。誰が吹いているかは直ぐに分かった。この島に来てから、音曲の類を聞くのは初めてだったとなれば、吹いている人物は一人しか居ない。
夜に笛を吹くのは良くない。私は立ち上がり、酒を持って家を出た。
与人は、はたして庭に居た。庭でしゃがみこむようにして、一人で笛を吹いておられた。私に気づき、笛をおろす。
「与人どの。夜に笛を吹くのはよくありませんよ。良くないものを呼ぶと申します」
与人は黙って顔を伏せた。足元に焚き火の跡があった。
「何を燃やしておられたのですか?」
与人は少しためらい、こういった。
「文を。人から貰ったのやら、出し損ねていたものやら」
たった一人で手紙を燃やすとはどういうことなのか。まるでこの世に未練をなくしたようで、感心しない。
私は与人と並んで座り、杯に少し酒を注ぎ、与人に渡した。
与人はそれを一息に飲み干し、唐突に言った。
「おまえは夫ある織女に言い寄り、ハジチの手を撫でさすったそうだな。さらには抱き上げて、坂道を走ったと聞いた」
私は言葉を失った。与人はさらに情け容赦なく断罪をなさるのである。
「その前には、ジラーの雇い人の小娘にも言い寄ったと聞いている。女であれば誰でもいいのか、ふしだらなことだ」
「違います! 言い寄ってなぞおりません! 小娘には、水浴びを見られて驚かれましたが、それだけのこと」
だいたい、水浴びをして身を冷やさねばならなかったのは、与人主のせいではないか。
恨み言を飲み込んで、「小娘も、織女も、御主のものであります」とだけ言った。
厳しい目で私を見ていたが、やがて与人は低く笑った。
「からかってすまない。しかし首里の男が島で女漁りなど、珍しくもないだろうに。私とて、そういう所業の結果、世に生まれたのだから、人が何をしようが本当は非難する身ではない。ただ、お前が堅物なのには驚いた」
からかうような声である。
「堅物というのではないのです。どんなに儚い縁でも、結ぶほどの気力も、勇気もないのです」
「失うのが怖いか」
与那城殿の声はどこか湿りを帯びて、包み込むように優しかった。私よりずっと若いのに不思議であった。
「やっとの思いで、浮世を歩いているのだな。私と同じだ」
この人に話してみたい。この人なら、私が弱虫であることを知っても、笑うまい。
静かな夜であった。群れ星は私たちを真上から見下ろし、遠くから波の音が響いていた。
「織り小屋を見回りに行ったときに、ちょうど機織り女が倒れて騒ぎになっておりました」
与那城殿は「うむ、そうらしいな」と優しく促した。
「マブイを落としたようで、一向に目を開けません。身ごもっている女で、産み月も近いのでしょう。たいそう腹が膨らんでおり……それを見ていると、目の前が真っ暗になって、ああ、このまま死ぬのだと。赤子も、一緒に死んでしまうのかと思い、」
私は杯を握り締めた。
「拙者の妻は、身ごもっているときに、急な病にて死にました。それを思い出し、つい取り乱しました」
否、思い出す、という次元のことではない。いつも考えている。考えずには居られぬ、面影が目の前にちらつき、苦しくてたまらぬ。私はいつか顔を手で覆っていたらしい。
だが目を覆っても、面影は追ってくるのである。
「首里を追われ、この島にやってきたものの。立ち直るどころか、このありさまにて。わしは、女々しい男です。どうか笑うてくだされ」
与人は、笑わなかった。
「おまえの心には、今も女房が住んでいるのだな。私など、死んだら直ぐに忘れ去られるだろう。お前の女房がうらやましいな」
おまえの女房がうらやましい。与人はそう繰り返した。
「思ってくれる方はいるでしょうに。あなたが知らぬだけです」
「そういう奇特な人は、みんな、私を置いて、先に儚くなってしまうのだ」
そういうと与人は、無防備に体を預けてくる。息がかかるほど顔が近くなる。そうして冷たい手を、私の左の胸にあてて、こう囁かれた。
「もし私が死んだら、私もここに住まわせてくれるか?」
そういって指に力を込める。かすかに痛みが走った。
「与人主は拙者より若いのです。拙者よりは、長く生きられましょう」
私は掠れ声で答えた。すると与人は、さらに手に力を込めた。胸の肉を掴んで、引き剥がして、その下の心を求めようというのか。
「人は儚い。お前なら知っているだろう?」
切れ長の目が、底無しの泉のように暗く光っていた。
「私は七つから家がない、親もない。この世の何処にも行き場がない。おまえの心は広そうだ。小さな隙間くらいあるだろう?」
冷たい手の平から、魂が吸い取られていくようだった。
「与人主が家なしなら、拙者は乞食以下でしょう」
与人はそれには答えを下さらない。仕返しのように、手を腹まで撫で下ろそうとなさった。慮外なことだ!
私は反射的にその手を掴んだ。指が長い。そして、ひんやりと冷たい。着物に覆われた胸も、このように白く、なめらかで、冷たいのだろうか。
「居場所がないどころか、与人は既にこの胸に住んでおられる。御安心を」
そう言ってしまってから、慌てて言いつくろった。
「大切な上役ですから」
与那城殿は小さく笑い、歌を吟じられた。
「男生まれても恋知らぬものや、玉の杯の底も見らぬ。お前のことだ。本当につまらない」
家に帰り着いてわが胸を見おろす。
胸の表面、黒い毛の繁る間に、かすかに与人の指のあとがついていた。
わたしはそっとその後に手を合わせてみた。武芸の稽古で痛めつけられるのとは違う痛み。妙に甘い、慕わしい痛みであった。
波類間ユンタ9
若者小説
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2007/5/6