聖パトリックの夜                    

 海へ向かって風が吹きはじめる午後、ギネスのビール工場から香ばしい匂いが流れてくる。 アパートの窓から見える、リフィの黒い水面を、かもめが低く飛んでいく。
 いつもは必死で仕事をしている時間だ。

 私は、その日、休日出勤した代休をとった。
 貧乏シチューを、火を小さくして煮こむ。 具は、たまねぎと人参、ソーセージ、豚肉とイモ。 ピーマンも入れることにする。 あ、残っていたブロッコリも入れよう。
 それが一段落して、オウエンの残していった、古いパソコンの電源を入れる。 そして届いているメールに目を通す。

 キアラン神父が会合の帰りにうちに寄ったときは、もう四時を回っていた。
 からすのように黒いコートを玄関先で脱いで、外へ向かって数回はたく。
 その日、お茶を出しただけであとは神父様の相手もせずに、メールの返事を打ちこんでいたのだが、それがいけなかったのだろうか。
 キアランは機嫌を損ねた。 当然だろう。

 メールの相手はイギリスに出稼ぎに出た、元ボーイフレンドの、オウエンだ。
 「今までありがとう、新天地でがんばるよ」って振られたんだが、ずるずるとメール交換は続けている。
 そして、愚痴をきき励ましてやる。 励まされたいのは私なんだけど。
 私は顔で笑って心で泣いて、という悲劇の主人公モードに入っていた。

 キアランはお茶をすすりながら、勝手にしゃべる。
「ここに来る時に、オコンネル橋を通りすぎたんだが、橋の土台にあざらしがいてさ……」 
「うん?」
「ひなたぼっこしてた。ありゃ、メスだな。小さいから」
「うん……」
「人だかりがして、大変だった。もう春だなあ」
「うん」
 上の空もいいとこだったろう。
 するとキアランは、長い手をひょいと伸ばし、勝手にマウスを動かし始めた。
「ちょっと、何するんだよ」
 それには答えず、ヤツは私の打ちかけのメールを保存し、さっさと終了させてしまった。
「あ〜〜。 まだ送信してなかったのに」
「ええい、未練がましい。 うじうじと。 いい加減にあきらめろ! 落ち込むばっかりだぞ」
 神に仕える身のくせに。 態度がでかい。 図体もでかければ、説教で鍛えた声も大きい。
 私はぐちぐちと抗議した。
「ふ、振られたんだから、とっくにあきらめてるって。 でも、連絡とるくらいいいだろ」
「それがだめなんだって。 別のことを考えろ。何か夢中になれるような……」
「……別にないよ」
「じゃあ、これでどうだっ!!!」

 グローブみたいな手で、音を立てて、マウスパッドの上に箱を叩きつける。
 私はことばを失った。
 それは、「極薄、普通サイズ」と銘打った、いわゆる「ゴム製品」だった。
 ああ、びっくりした。
 どっと疲れが出るのをこらえつつ、意図するところを尋ねてやる。
「ほほう……コンドームですか。箱ごと。 で、これで、わたくしにどうしろとおっしゃる?」
「おい、いい年して使い方もしらないのか? だったら教えてやろう!!」
「冗談はさておいて、どうしてそんなもの持ってるの?」
「全部使い切るくらい、やろう!! 気分も晴れるぞ!」
「ぼくの質問に答えなさいって、もう」

 キアランは、いい年してこういう、おばかでえっちな冗談がお好きなのだった。 かわいそうに、やはり欲求不満がたまるから、軽口を聞いてうっぷんを晴らすのだ。
 もちろん冗談だが、ときおり「やろう」などという。
 こっちが「よし、どっからでも来い!」なんていったら、どうする気なんだろう。

「わかった。 どっかの不届きものが教会に忘れていったんだな!」
 キアランはそれには答えず、こういうのだ。
「ケイタ、もうすぐ3月17日だよ。アイルランド中がぼくたち二人を祝ってくれる日だ!」
「はいはい、聖キアラン様。 で、祝日と、この箱と、どういう関係があるんですか?」
 3月17日は聖パトリックの日、同時に聖キアランの日でもある。



 ここでちょっと、私たちの紹介をさせてほしい。
 日系アイルランド人の私、ケイタ・プレストン28歳、一応男性、職業は金型設計、は洗礼名も持っている。
 パトリック、がその名だ。
 アイルランドにキリスト教をもたらした、偉大なる守護聖人の名をいただいたのだ。
 でも、いろいろあって、今は日本名のケイタを使っている。敬太、だ。太きを敬う。 母は何を考えてこの名を選んだものか。 はからずも、私にぴったりだ。

 キアラン・ピアースとは、中学から高校まで一緒だった。
 なぜ、この赤毛の大男が、似合わない司祭という仕事を選んだのか私は知らない。
 昔から気が強く、ケンカが強く、日本からきた私はずいぶんかばってもらった。私をめがけて石を投げる悪ガキを追いかけては、どつきまわしてくれたものだ。
 自分ではハンサムだと言っているが、むしろ、親しみやすい顔、というべきだろう。
 受け口で馬面で、灰色のタレ目が愛敬たっぷりだ。 昔は八重歯だったが、大学卒業後、いつのまにか治っていた。どうやら歯科医をしている同級生を脅して、ただ同然で治させたらしい。
 赤毛の巻き毛は、収まりが悪くコイルみたいに立ちあがっている。 額は広くて賢そうだが、言い換えていうと、前髪が後退しているように見える。
 
 私は毎週、「コッパーヘッド」という伝統あるパブで、仲間と演奏させてもらっている。
 そのパブには、キアランが遊び仲間、じゃない、同僚の司祭、を連れてやってくる。
 酔うとキアランは私たちのセッションに、スプーンズで参加してくれるのが、すごく困る。
 力が強いから、かちゃかちゃと、やたら騒々しいのだ。 興がのると歌もうたうが、こぶしのつけ方がうまくて、さびのある声で、これはいける。教会ではどうかと思う声だが。



「で、そのコンドーム、どこで買ったんだよ」
「わざわざホリヘッドまで行って来た。 まだあるんだよ、ケイタ君」
 対岸のウェールズまで行ったのか。 まあ、フェリーで1時間ちょっとだけど。
 あきれた私の目の前で、キアランはショッピングバッグを開いて見せた。
 カラフルな箱が、ざっくざく。
 すごい! こんなにたくさん見たのは始めてだ!
 こういうものをダブリンで手に入れるのは、容易ではない。 国民のほとんどがカトリックで、ローマ教会は産児調節を禁じているからだ。
「売るほどあるじゃないか、おい!!」
「これをだな、ケイタ。 おれは、聖パトリックの夜に、フェニックス公園で配る」
「配るって………………うそだろ?」
「お祭りの日はむらむらするだろ、効果的だからな」
 言い出したら後へは退かない男だと知っていたが、本気らしいのだ。
 私は驚きのあまり、しどろもどろになった。
「こ、効果的って……公園で配るのか。 で、誰に?」
「売春婦とか、そのへんで野外セックスしようとしてるカップルとかにさ」
「お使い下さいってか……う〜〜ん……どうして?」
「エイズ予防に決まってるじゃないか!! 鈍いやつだなあ!」

 珍しく、キアランは真剣だった。 だから私も真面目に忠告した。
「キアラン、でもな、あんたは不良司祭とはいえ、聖職についている身だろう。 カトリックの教義では……」
「不良、はよけいだな」
「とにかく、ばれてクビになってもいいの?」
 するとキアランはにやりと笑って見せた。
「覚悟の上さ」
「どうしてそんなことをしたいんだ?」
「おれの知り合いがエイズで死にそうなんだ」
「……そうか。それはまた……気の毒に」
 それで敵討ちか。 まるでドン・キホーテだが、気がすむようにさせるしかないだろう。

 私はしばらく考えて、こう言った。
「わかった。 ぼくが行こう。 ぼくがそこへ行って配ってくるよ」
「……お前にそこまでさせるわけにはいかない」
 うそばっかり。 最初からひっぱりこむつもりだったんだ。
「何しおらしいこと言ってるんだよ。 叙任受けるのに何年かかったと思う? 安心しな、きっちりばらまいてやるよ」
 キアランには借りがある。
 最初の友達になってくれた。 何度となく仲間の暴力から私をかばってくれた。
 その恩はまだ、返せていない。
「ぼくがやるよ。 あんたは見ていればいい。 振られて、くさくさしてたところだからな!!」
 それで、私は夜のフェニックス公園で、コンドームを配る、という怪しいまねをすることになった。
 キアランの気がすむまで、とことんやるつもりで。
 誰がエイズで死にそうなのか、すごくききたかったけれど、変なところで私は遠慮した。


 とはいえ、剥き出しで渡すのもいやらしいので、私たちは考えたすえ、3枚組みで、小さな袋に入れて渡すことにした。 「エイズ予防のためには、最初から最後まで装着してください」との但し書きつきだ。 
 70組つくって、それを紙袋に入れて、心静かにその日を待つ。
 決行は、聖パトリックの夜、3月17日午後8時だ。



 3月17日朝。 その日は快晴だった。

 夜、アパートで落ち合って、私たちは車でフェニックス公園へ向かった。
 はっきり言って、この辺はちょいと治安が悪い。
 大の男でも、夜ひとりで歩くのはお勧めできない。 私は金持ってそうな日本人だから(貧乏だけど)行動には気をつけていて、ふだんこういうところには足を踏み入れない。
 たまたま友達と歩いていて、自転車の若いのにコーラのビンをぶつけられて以来、なんとなく足が向かない場所だ。

 公園の中ほどで車を止めると、キアランはこういった。
「一声かけといたから、集まってるかもしれない」
「?? 一声?」
「おれのなじみのおねえちゃんたちさ」
「夜のお姉さんたち、ってこと?……なじみ、って、まさか」
「教会へおれの説教を聞きに来てくれる、いい子たちさ」
「なんだ。 びっくりした」
「ちょっとは妬いた?」
「なんであんたに妬かなきゃならないの?」
「行くぜ」
 何だか、殴り込みをかけるみたいでわくわくする。
 でもあくまでも冷静に、あっさりと、知的に行かなくちゃ、あやしいと思われる。
 いや、あやしいんだけど、実際。 これでセーフ・セックスしてくださいね、ってコンドーム渡すんだからな。 考えただけで冷や汗が出てくる。
 柳が生えているコーナーに、私たちは着いた。街路灯の下で、けっこう待っている。
 街の女たちだ……。
 キアランを街路のかげに残して、私は彼女たちに近づいた。
「こんばんは。 エイズ予防のためお使いください」
 私はすごく緊張して用意したものを渡していく。
「ありがと、坊や」
 全然坊やじゃないんだが、彼女らより背が低いんだから、そう言われてもしかたがない。
 怪しむこともなく、それを受け取る女たち。
「仲間に渡すから」
 といって、余分にほしがる人もいる。 私はそのことばを信用して、余分に渡した。
 その調子で、そこで半分以上渡してしまった。

 ここからが問題だ。 野外セックスをしようとしているカップルとやらに、どうやって渡すのか?
 もしもし、お取り込み中失礼ですが、これをお使い下さいって? 殴り殺されかねないぞ。
 キアランのところに戻ると、ありがとう、ケイタ。とねぎらわれた。
「なあ、キアラン。 あと、どうしよう?」
「これで今日はおわり。 帰ろう」
「……あの、今日は? ということは……」
「そう、継続こそ力なり、だよ」
「もしかして、またやるの?」
 赤毛の司祭は人懐こい笑いを浮かべた。
「今度はもっと集まると思うよ!!」



「今日はおごる」とキアランが言うので、私はほいほいついていった。
 メリオン・スクエアに近いバーで、なんとハープ演奏があった。 すごい。
 私たちはカクテルをおかわりして、したたかに酔っ払って家路に着いた。
 トリニティ大学の正門前を通りすぎようとしたときだ。
「ケイタ」
 キアランが、私の顔を覗きこんだ。
「今日は本当にすまなかったな。 はずかしいことさせて」
「何で? これくらい、何でもないよ」
「何でもない?」
「そうさ。 あんたに受けた恩に比べたら。 まだ全然返せてないよ!」
「……恩、か」
 ふと、キアランが奇妙な表情を浮かべた。
「キアラン、あんたがかばってくれなかったら、ぼくはまともに中学も出られなかったよ」
「何年もまえの話じゃないか?」
「でも、昨日みたいに覚えてるよ。いまぼくがこうして、元気に歩いてるのもキアランのおかげだ。すごく感謝してるんだ」
「ケイタ……そんな寂しいこというなよ。 感謝とか、恩とか、……それだけかい?」
「う?」
「……それだけ? ケイタ」
 キアランは、やたら真剣な顔をして、私を見下ろしていた。
 息が白い。 どうしたんだろう、今日は何だか勝手が違う。
「……おれは何度も告白したのに、お前は全然きいていない」
「こ、こくはく。何の?」
「愛の告白に決まってるじゃないか!」
「き、聞いてないぞ!! なんだ、いつそんなもん!」
「やろうって、何回もいったぞお?」
 何回なんてもんじゃない。 息するついでに言っていた、あれが?
「や……あ、あれが愛の告白か?」
「そうだ」
「一般常識じゃちがうぞっ!!」
 飲みなれないカクテルなんか飲んで、頭に来たのだろうか。 キアランはいったいどうしたというのか。 もしや、脳に大酒の報いが来たのか!!
 グローブみたいな、血管の浮いた手でキアランは私の肩をつかんだ。 
 たのむ。 正気に返ってくれ。
「それなのにパット、お前はあの青臭い若はげ男にうつつを抜かしやがって」
「パット、って呼ぶな。ぼくはケイタだ」
「じゃ、ケイタ。 案の定お前はふられた。 ふられて二ヶ月だ。 聖キアランの名にかけて、今こそおれは言うぞ! 耳の穴かっぽじって聞いてくれ! おれは、おれは!」
「な、なんだっ」
「ケイタ、お前とやりたい!」
 またそれかよ!! 私はすぐさま怒鳴り返した。
「いいお友達でいましょう!」
「それが答えかっ!!」
「うん」
「何でなんだ」
「あんたが大好きだから。 そうなったら、いつか別れるから!」
「悲観論者」
 キアランは怒ったようにつぶやいた。 足元に赤い工事用の三角標識が並んでいたのを、蹴り上げようとして彼はやめた。
 ひょいとキアランは、三角標識を拾い上げて私を見た。
 何かよからぬことを思いついたときの微笑みを浮かべている。
 そして、オレンジ色の街路灯に、黒々とそびえている銅像を指差して言った。
「賭けをしよう。 あの銅像の腕にこれを抱かせることができたら、いうことを聞け」
「いうこと聞けって、なんだよ、それ。ひどい」
「途中でコレをおれが落としたら、もう何も言わない。 オトモダチでいましょう」
「何なんだよお」
「よし、約束だ! 男に二言はないぞ!」
「や、約束してないって」
「見てろ!!」

 キアランはしっかりと標識を片手に抱いた。 それから靴を脱いで、銅像の土台に飛び乗った。
 酔っ払いのご乱行だ、これじゃあ。 あきれてみている私の前で、やつはするすると登っていく。

 そういえばこいつは木登りが得意だった。 図体はでかくなったが、身は軽いのだ。
 感心している場合ではない! もう銅像の手に、工事用コーンを抱かせようとしている。

 それにしても、なんてばかやろうなんだ、私たちは。 聖パトリックの夜に、さして変わり映えしない私の貧弱なカラダを賭けて、いい歳したこいつは何をやってるんだ。 そしていつのまにか応援している私も正気ではない。

「やったぜ!!」
 ゴールズワージーの銅像に赤い標識を持たせて、キアランが叫ぶ。
 やったぜ、じゃないよ。 
「降りてこい! 危ないじゃないか!!」
「パット、大好きだよ!!」
「わかったから!!」
 するすると身軽に降りてきて、土台の上から黒いコートを翻してキアランが飛び降りてくる。
 赤い円錐を抱えさせられて、間抜けに見える銅像を見上げる。
 それから、私のほうを見てガッツポーズを取る。 どうだ、とでもいいたそうな得意そうな顔だった。
 思えばまだ純だった、聖パトリックの夜のことでした。

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