君の瞳に 1 10/31/01
その日、ぼくは、ちょっとした風邪で横になっていた。のどが痛くて、布団の中にいても寒くてしかたがない。熱もあったのだが、とにかく冬かと思うくらい寒い日だった。
ぼくはごそごそ起き出して、火鉢に練炭を仕込み、それで暖をとろうとした。
そのとき、家主さんが呼びに来た。電話だよ…。
ふらふらと降りていって、電話に出ると、高志さんだった。
「どうした? かっちゃん、連休には来るって言ってたのにさ。来ないのか?」
高志さんは、電話での声はちょっとぶっきらぼうだ。
ぼくは、風邪で寝込んでる。高志さんにうつすといけないから、今日は行かない、とかなんとかいって、電話を切り、部屋に戻った。
一日寝てれば、これくらいの風邪なんか治ってしまうだろう。
そう思った……それから、また布団に入った。
ふと目覚ましが鳴って、ぼくはそれを止めようとして、立ち上がろうとした。それが、立ち上がったとたんに力が抜けて、ひざをついてしまった。
それだけじゃない、頭が痛くてたまらない。吐き気がした。ぼくはもう一度立ち上がろうとして、周りの景色が反転して、目の前に畳が迫るのを見た。
冷たい畳の上に、ぼくは激しく嘔吐していた。嘔吐したものの中に顔を突っ込んだまま、動けない。
しまった、と思った。
なんだかわからないが、しまった…そう思った。
ぼくは知らないうちに、風邪どころか、なにかひどい病気になっていて、それで死ぬかもしれないんだ。
ひとりぽっちで。
……死んじゃうのかな……。
ふいに遠くで、どん、という音がした。
冷たい空気がながれこんできた。
振動、それから誰かが飛び込んでくるのがわかった。そいつが走り回って、窓を開ける音がした。
ぼろいアパートの床がすごくゆれて、それから…どれくらい時間がたっただろうか。 誰かが僕の顔をつかんで、乱暴に揺り動かした。
ぼくは、その声で誰かわかったけれど、眼を開けることができない。
今、救急車呼んでるから。家主さんが。高志はこういった。
「大丈夫だからな、かっちゃん。」
ぼくは、また吐きそうになって、口を手で押さえた。
高志さんはむりやり横に向かせて、ぼくはそのまま吐いてしまった…高志さんのひざを汚したかもしれない。
気が付いたら、病院みたいな建物の廊下を、ストレッチャーに乗せられて走っていた。ぼくは高志さんに見つけられてから、病院に着くまでの記憶がない。
とにかく寒かった。 寒くて、ぼくはがたがた震えっぱなしだった。
白い壁の部屋に連れて行かれ、そこからは高志さんは入ってはこれなかった。
ぼくは冷たいベッドの上に寝かされて、それからいろんな注射をされた。その間、ぼくの口には何かマスクみたいなものが当てられていて、そこから空気が出てくるんだ。
どれくらいそうしていたか。だんだん気分はましになってきた。
ぼくのそばに来た医者は、気分はどうですか、と聞いた。頭痛いです、とぼくは答えた。
それから医者は、
「お名前は。なんていうの?」と聞いた。
見上げると、医者はちゃんと書類を持ってる。カルテというのか。
ぼくは回らない舌でなんとか答えた。おおのです。
聞こえなかったのか、先生はまた言った。お名前を言ってください。
おおの、かつのり、です。
「お歳は。いくつ?」
「32歳。」
「お仕事は? どちらにお勤めですか」
「役所につとめてます…」
先生はうなづいて、さらにつまらない質問を続けた。カルテに書いてるはずだろうに。
「大野さん、ご家族は?何人?」
「家族は、いません。…ひとりです。」
「私の指は、何本ありますか?」
先生は、両手をぱっと広げて見せた。
ぼくはからかわれているのかなと思い始めていた。それと同時に、だんだん頭もはっきりしてきた。
「全部で、10本です」
「2たす3は?」
「…5、です」
先生は、「よろしい。これから病室に移りますから、ゆっくり休んで」と言った。
それからぼくは、病室らしいところに運ばれた。大きな病室だった。看護婦が白いカーテンを引いてくれた。
「なにかあったら、このスイッチを押してね。」
若い看護婦は、そういって、ベッドの頭側に吊った、変な形の丸いものを指差した。
「ここ、このボタンを押すと、看護婦が来ますからね。」
その次に目が覚めたとき、知らない白いカーテンに囲まれているのに、ぼくは狼狽した。
しばらく考えて、やっと思い出した。ぼくは急な病気で倒れたんだ。 頭はまだ少し痛かったが、よっぽどましにはなっていた。
そして次に、ぼくは一番会いたい人を見ることができた。
君の瞳に、2へ続き。
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