Only You    14                     2004/07/11


 長い、長い一日だった。仕事が終わったときは8時を過ぎていた。

 女性用の更衣室はカーペットが敷いてあり、シャンプーのできるドレッサーまでついているそうだ。
 覗いたことはないので、どの程度快適なのかは知らないが、男の更衣室よりはましだろう。男用の更衣室なんて、物置もいいとこ、床は半分かた剥がれ落ち、コンクリの床がむき出しになっている。休憩用のソファなんて、テカテカした赤いカバーが裂けてしまって、それをガムテープでつくろってあるのだ。暗くて汚くて、蛍光灯はちかちかしてるし、おまけにオヤジ臭くて……大昔の刑事ドラマに出てくる取調室のようだ。
 おれはいろいろあって、というか平良といろいろしすぎて、疲れていた。
 だから、いつもは座らないソファに、がっくりと腰を下ろしてしまったのだが、ひどいもんだった。尻に思わぬ一撃を食らって、思わず「痛いっ」と叫んでしまった。
 クッションがとっくにヘタレきって、スプリングがむき出しのところに座ってしまったのだった。
 
「どうかしたんですか、今の声」
 続いて入ってきた桜間が、笑いながら言った。
「このソファ、硬すぎると思わないか?」
「そうですか? ぼくはほとんど使わないけど、ぼろぼろですよね、それ」
 桜間は、ロッカーを開け何かごそごそしているとおもうと、ポカリスエットの缶を二つ手に近づいてきた。ふと、さわやかな柑橘系の香りを感じた。
「飲みます? ケースで買わされたんで、せいぜい飲まなきゃと思うけど、一人で飲んでたら太ってしかたない。助けてくださいよ」
「じゃあ、もらおうかな」
 桜間は、何を思ったか、おれのためにプルタブをあげてから手渡してきた。

 その手を見て、いつかの暑い夜を思い出した。新町川のほとりで、平良は「落ち着いて」といって、その青い缶を差し出してきた。日に焼けた、ごつい手だった。その手から、震える手で受け取って飲んだ。味なんかわからなかった。
 自分の性癖を平良に知られた、おれの人生はもう終わりだと思った。
 一生懸命話しかけてくる平良の顔は、ひどく優しげだったし、付け入る隙はありそうだった。助かるためには、こっち側に引きずり込むしかないと思った。そうして、目論見どおり、引きずり込んでしまった。
 でも、今思うとそれだけじゃない。こいつならおれを受け止めてくれるかもしれないと、どこかで思っていた。


 廊下を何人かの靴音が通り過ぎていった。着替えをおえた女の子たちだろう、すりガラスの窓からこちらを覗き込む影が見えた。逆だったらセクハラなのだが、女なら許されるらしい。
 それを見やりながら、桜間がふと言い出した。
「坂東さんは、宅建持ってるんでしたっけ」
「ああ、一応……次長が受けろってうるさくて」
「ぼくもなんです。来年受けようかと思ってるんだけど。時間はあるから、ゆっくり用意したらいいんですが。宅建の参考書って何がいいんですか?」
「参考書、ねえ。いろいろあると思うけど。過去問とかいっぱいやったなあ……むずかったよ」
「それ、今も持ってます?」
「捨てた覚えはないから、きっとあると思う」
 桜井は思いがけなく人懐こい笑顔を浮かべた。
「よかったら貸していただけませんか?」
「書き込みしてるけど、気にしなかったらあげるよ」
「助かります」
「けど法律もけっこう変わるから、確認しといたほうがいい」
「わからないところあったら教えてくださいよ」
「いいけど、おれに教えることなんてあるのかな。桜間君なら軽く一発で合格だろ?」
 桜間は、とんでもない、と首を振った。髪が揺れて、控えめにコロンが香った。桜間は、仕事も、見かけも話し方も、そつというものがないし、あくどい個性もない。
 平良はあきらかに桜間を嫌っていたが、このそつのなさが鼻につくのだろう。
 ある意味、平良は無骨で、そつだらけの男なので。

「誰か待ってるんですか? 平良さん?」
 桜間は立ち上がったものの、帰ろうとはしなかった。
「いや、別に待ってるわけじゃないけど」
「今覗いたけど、得意先係、緊急会議らしいですよ。殺伐としたかんじで」
「目標、厳しいのかな」
「平良さんも誘って、3人でどうかなと思ったんだけど、今夜は無理っぽいですね」
 一瞬、体が固まった。
「3人で?」
「いい店を知ってるんです。うまいし、気も使わないし」
「あ、そう、いいね。なんて店?」
 おれは必死に平静を装った。どうかしていた。3Pをしませんかなんて、職場でもちかけるバカがいるはずがないのだ。
 桜間は灰色っぽい目でおれの目を覗き込み、「何か、焦ってませんか……先輩」と言って、口元だけで笑った。突然、この男の唇が、ひどく薄いということに気づいた。
 そのとき、得意先係の会議が終わったらしい、がたがたという音が聞こえてきた。おれはできれば走って逃げ出したかったのだが、強いてゆっくりと立ち上がった。
「そんなにいいんなら、今度誘ってくれよ」
「ええ、ぜひ」
 桜間は爽やかに答えた。さっき一瞬見せた剣呑さは、もうどこにもなかった。
 手のひらには冷たい汗をかいていた。少しだがおれにもわかったような気がしていた。なぜ、平良が桜間を嫌っていたのかを……。

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