Only You 17 2004/12/26
壮行会の後二次会まで行った。気がつくと、もう平良はいなかった。
電話もなく、こちらから電話をかける勇気もなく週末が終わり、月曜日には新しい職場へ向かった。くすんだ灰色の、いかめしい建物が、よどんだ川面に影を落としていた。
資金証券部はその本店の3階にあった。7時半過ぎだったが、もう4、5人出勤しており、それぞれのモニターを睨んでいた。
みな目の下に隈があり、とげとげしい表情を浮かべている。
朝から不機嫌そうな彼らに、野郎の笑顔が効くとは思わないが、いつもの営業用にっこりを浮かべて「坂東直己と申します、よろしくお願いいたします、と」名を名乗った。ためらったが、前の支店の名詞を配って回った。
示された机にかばんを置き、端末を立ち上げるが、まだ何もすることはない。
「朝一番に来て机を拭けよ」なんて言われるだけだった。ここでは一番新入りだからそうなるのだろう。
仕事を引き継いでくれるひとは、まだ来ていないという。しばらくおとなしく先輩たちの会話を聞いているしかなかった。
そして始業ぎりぎりの時間になって、大柄な若い男が、息を切らせて駆け込んできた。
フットボーラーか何かのような、頑丈そうな若者だった。髪は真っ黒で、スポーツ選手か何かのように短く刈り込んでいた。
「ええと、坂東君、この山下が仕事を引継ぎをする。山下、云っとくがでたらめ教えるんじゃないぞ。それともうひとつ、こいつは、お前のパシリじゃないんだからな」
「もちろんですよ。坂東さん、証券アナリスト持ってるんでしたっけ」
山下と呼ばれた男は、人懐こくおれに笑いかけた。やっと人間らしい顔に出会えて、おれはほっとしていた。
「二次試験は落ちたんですけどね」
「まあそのうち受かりますよ。けど、資格より大事なのは、経験と体力。それと嗅覚が大事、かな? お金の匂いがするってやつ?」
するとすかさず上司から突込みが入った。
「お〜お〜、バクチと一緒にするなよ。野生の本能に頼ってんのはお前だけだろ」
山下は笑いながら、ちょっとこれ読んでいてくださいと、分厚いマニュアルをおれに手渡した。その後は、真剣な目つきでモニターを睨んでいる。
窓には白いスクリーンが掛かっていた。
支店は、今頃は開店前で、あわただしい時間だろう。女の子たちは猛烈に端末を叩き、渉外係は重いかばんを持って飛び出していくころだ。シャッターが開いて、一番の客が入ってくる。うつむいて仕事をしていても、かすかな自動ドアの音でわかる。いらっしゃいませ、と叫ぶ。もう体の一部になりかけていた。
平良はもう、原付に乗って、今頃どこを走っているんだろうか?
「坂東さんって、逆切れした客に襲われたんですよね」
モニターを見ながら、ふいに山下が言った。襲われたというのは微妙な表現だ。
「襲われたというか、刺さされるとこでした。代わりに後輩が刺されてしまったけど」
「知ってますよ、平良でしょう。おれたち、同期なんですよ。おれは浪人してるから、ひとつ上なんだけど。ったく運のないやつ」
山下はやっとモニターから顔を上げて、真剣な調子で言った。
「あいつ、元気にしてますか? ったく、刺されたり交通事故にあったり、ろくな目にあってないでしょう。なんか憑いてるんじゃないか、ご祈祷でもしてもらえって、言ったんですけどね」
おれは、あいまいに笑うしかなかった。何かついてるとしたら、それはおれだった。おれが離れたら、平良は幸せになれるのかもしれなかった。
その週の金曜日、山下に「独身会」に誘われた。市内店舗の独身者が適当に集まって、飲むという会だ。
「そういえば坂東さんには会った事なかったな。けっこう盛り上がって楽しいんですよ、飛び入りでもいいっていうから、行きましょう。どうせ食い物はたいしたものは出ないんだけど」
それから山下は、いたずらっぽく笑って付け加えた。
「けっこうかわいい女の子も多いんだ、これが。ぶっちゃけ、見合いパーティみたいなもんです」
寒い時期で、やはり料理は鍋だった。平良は姿が見えなかった。同期の男にも何人か会って、グチを聞いてやりながら、目で平良を探していたが、途中から顔を見せることはなかった。
「先輩、元気ですか!」
ぽんと肩を叩かれて、いきなり焼酎を勧められた相手は、桜間だった。
「坂東さんが来てるなんてわかってたら、ちょっと無理してでももっと早く来るんだった。平良さんはですね、今日は具合が悪いとか言って、さっさと帰ってしまったんで、一人さびしく来たわけです」
桜間は陽気だった。あまり好きな人物ではなかったのに、数日ぶりに会ってみると、ひどく懐かしく思える。桜間は、どうやらウィスキーをロックにして飲んでいるらしかった。
3次会まで付き合い、店の前でメンツと別れて、タクシーでも拾おうと歩き始めた。おれは、かなり酔っていた。
桜間が並んで歩きながら、「方角おんなじだから、送りましょう」と言い出した。
「送るって、桜間くんまさか、車? たしかいつも電車だっただろ」
「そう、今日だけ車で来てたんです。どうせ終電に間に合わないし、ぼくはタクシー嫌いだから」
だけど飲酒運転だろ、と言うと、桜間は、首を振った。
「ずっとウーロン茶をロックで飲んでたんで、酒は一滴も入ってません。酒アレルギーなんで飲めないんです」
あまり断るのも失礼かもしれない。遠慮なく好意に甘えることにした。
桜間の車は、鮮やかな赤いルノーだった。おれは羨望をこめて、滑らかな皮のシートを撫でた。きれいだったが、新車の匂いがかなり強烈だった。非常に乗り心地はいい車だったが、桜間の運転は多少癖があり、何度もブレーキを踏むものだから、まもなく軽い車酔いを覚え、ネクタイを緩めた。
「桜間君、窓開けるの、どうやるんだ?」
桜間は「あ、酔いそう? なんなら少し止まりましょうか」
「大丈夫、そこまでは」
桜間はこちらの答えを待たずに、路肩に車を止めた。そのときふと、何か大事なことを見落としているような気がした。
「坂東さん……仕事どうです? そろそろへたばってます?」
「楽しいよ! やりがいがあるし、みんな親切で」
「そんな楽しそうな顔してませんけどね」
「顔に出てる? じゃあ、気をつけなきゃな」
おれは後輩に向かって、弱音を吐いてしまった。
「正直、息が詰まる。自分が何をしたらいいのかまだわからないから。ほとんど黙って資料読んでるんだ。もう、口が引きつりそうだよ」
「口が? どれ」
桜間は、おれのあごを持上げた。
「どこも変じゃないですよ」
桜間の顔が近づいてきて、白い口元にかすかに生えかけたひげが見え、イヤだなと思った瞬間、口を塞がれていた。桜間が離れていったときに、桜間の唾液が唇に残り、おれはそれを手で拭いた。
嫌悪感しか残らないキス。
「……そう。そういうやつだったわけか、あんた」
「坂東さんもね。はじめからわかってましたよ。ばればれですよ」
この食わせものは、ぬけぬけとそう言って、おれのシートを倒した。
「ね、えっちしましょう」
いきなりそれかい。ずいぶん軽く見られたものだ。おれは新しいシートを指差した。
「おれ、吐くかもよ。あんたのこれ、新車だろ」
「それは困るな。じゃ、ホテルにでも行こうか」
桜間の言い方は、ひどくぞんざいだった。少なくともこちらに同意を求めているのではない。嫌だといえば、車内で暴行されるだけなのだ、しかも、何のプロテクションもなしにだ。あまりぞっとしない。
「好きにすればいいさ」
桜間は「じゃ」と軽く言って、また車を発進させた。よくあるデザインのホテルに入り、桜間について階段を上り、汚らしいソファに座り込んだ。頭の中がぐらぐらして、また軽い吐き気が襲ってくる。何でこんなことになったんだろう?
桜間がおれの前に立ち、肩に手を触れてきた。
「一緒に風呂入ろう、先輩」
おれは作り笑いを浮かべ、首を振って見せた。
「ちょっと気分が悪いんだ。水でも飲めば少しは……。悪いけど、先に入っててくれないか」
桜間はジャケットをベッドに放り投げて、シャワー室に消えた。桜間のシャワーを使う音を聞き、すりガラス越しに裸のシルエットを確認してから、ゆっくりと立ち上がった。
おれは札入れから一万円札を一枚、机に置いた。そして、そのまま階段を駆け下り、靴を抱えてドアを開けた。誰か中で叫ぶのが聞こえたが、おれはかまわず走った。
桜間も卑しいが、こういうことをするおれもまた、卑しい人間だ。
それでも、どうしても嫌だったのだ。
息を切らせて走って、まもなく国道に出るとすぐ、コンビニの灯りが見えた。店の前では、高校生くらいの若いのがたむろしていた。全速力で走って、店に飛び込んだ。
店員がぎょっとした顔をしておれを見た。熱いお茶を買うと、店内で飲んだ。手の震えが止まらなかった。
それから携帯電話で、タクシーを呼んだ。それに乗り込んで、自分の家ではなく、平良のアパートへ直行した。ドアを叩いてみる。はじめは遠慮がちに叩いたが答えがないので、「平良、開けて」と声を上げた。
ぱっと中の明かりがつき、平良がドアを開けた。こわばった顔をしていた。
「ごめん、いきなり来て……」
そういい終わらないうちに、強く手を引っ張られた。おれはつんのめって、平良の胸に飛び込んでいた。勢いがあまって平良はおれを抱いたまま玄関に座り込んでしまった。
「坂東さん」
平良はおれをじっと見つめた。そして手を伸ばしてドアに鍵をかけ、用心深くチェーンロックまでした。片手でおれをしっかり抱え込んだままだった。
「坂東さん。震えてるんですね」
「すっげえ飲んできたんだ。そのせいだ。だけど平良に会いたくて走ってきた!」
おれはげらげら笑いながら、少し癖のある髪をくしゃくしゃにしてやった。
「距離を置くなんて無理だ。へばりついてやるぞ、平良」
「坂東さん、あの、距離を置こうって言ったのはあれは、坂東さんの思ってるような意味じゃないんです」
平良はおれの頭に顔を埋めて、震える声でつぶやいた。
「おれ、ストーカーみたいなやつに脅されてるんです。もうずっとです。ほんとに、まじでやばいんです。何かあったら、今度こそ坂東さんを守れない。きっと先輩も巻き込む」
「ストーカー?!」
平良はぶるっと体を震わせた。ハンターの前でおびえる、草食獣のような目をしていた。
「男? 女? どんなやつ。知ってるやつか? 何、暴力団か何か?」
「男です……普通の……かたぎのやつです」
「そいつは平良につきまとって、何を欲しいんだ、まさか金か?」
平良は苦しげに首を振った。
「何を考えているのかわからないから、怖いんです。いっそ銀行辞めて、沖縄に帰ったらどうかとも思った。でも坂東さんに会えなくなるなんてイヤだ。おれは、どっちへも行けない……」
「警察は?」
「…………いろいろ言いたくない。面白がられるだけだしきっと……」
おれは平良にキスをして、落ち着かせた。
「大丈夫、おれが守ってやるよ」
そういって、平良にキスをしながら言ってやったのだ。
平良に言い寄って振られたやつが、未練たらしく付きまとっているのか。それとも昔の男か何か。どっちにしても同じだ。おまえはもう、おれンだから、そいつには指一本触れさせない。もう平良はおれのだからだ。
おれはそんなことを繰り返した。酔っ払いの繰言だったが、平良はそれをおとなしく聞いていた。
したたか酔っていたけど、おれは平良に体を押し付け、力を込めて押し倒し、手首をきつく掴んだ。
気がついたら、平良の布団の大半を占領し、大の字になって寝ていた。平良は壁際に押しやられ、体を丸めて眠っていた。骨ばった背中の線を手でなぞって、やせたなと思った。
どこかで電話の呼び出し音が鳴っている。携帯電話ではなく、固定電話らしかった。それはすぐに、留守番電話に切り替わった。
「ピーっという発信音がしたら、メッセージを吹き込んでください」
応答メッセージの後で聞こえてきたのは、人間の声というより、ケモノのうなり声だった。
あえぐような声と、湿ったいやらしい音が何回も聞こえた。それは、男が自慰を行っているとしか思えない音とリズムだった。
「またやらせてくれよ、平良」
低い男の声で、たしかにそう聞こえた。それからすぐ、叩きつけるように電話が切れた。
おれはしばらく、暗闇の中で目を見開いていた。
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