Only You 7    2002/2/28

「カバンを…おれのカバンを!」
 すぐに婦警さんがおれのところまでカバンを持ってきてくれて、それを抱えたまま、おれは腰を抜かした状態になってしまった。 その婦警さんがタオルみたいなもので顔を拭いてくれて、そのまま頭を押し付けてくれながら、子供に言い聞かせるようにおれに言った。
「たいした怪我じゃないよ。 若いんだから、こんな怪我すぐ治るからね」
 
 周りに野次馬が集まってるのがわかる。 顔を上げるのが恥ずかしくて、座り込んだままずっとうつむいていた。 
 サイレンを鳴らして救急車がやってくると、カバンを抱えたまま自分で歩いて救急車に乗った。 でも貧血を起こしそうになって、車の中では横になったまま丸くなっていた。
 寒くて体ががたがた震えて、毛布を被せてもらったらしいけど、それでも寒くてたまらなかった。

 それでも、病院に着くころには血が染み出る感覚は消えていた。 そのころには血は止まりかけていたんだろう。
 そこで頭の傷を縫ってもらって、それから脳にダメージがないか検査をしてもらった。
 その結果、これだけ派手に出血はしていたのに、脳はまったく無事だったことがわかった。
 
 それから「お腹の中に怪我をしていないかどうか、見ましょう」ということで、腹部のレントゲン写真をとった。 結果は「異常なし」で、採血の結果も「異常なし」ということだった。
「ヘルメットが飛んでしまったのに、これくらいですんだのは、植え込みがクッションになったんでしょうね。アスファルトより土が軟らかいですからね」なんて言った。
 医師はそういうが、そんなこと記憶にない。 おれが見たのは、アスファルトに血が落ちていくとこからだった。
「ぶつかった反動で飛んで、国道沿いの植え込みの中に落ちて、それから歩道に滑り落ちたそうです。 そういう連絡を受けてます」
「そうなんですか?」
「でも実際には、体は車に接触してないんですね。 ぶつかったショックで体だけ飛んでいったというか…器用なぶつかり方をしたもんですね。 以前スタントマンでもやってたとか?」
「とんでもない…」

 医師はそれから、
「普通は目撃者探しに苦労するんですが、警官の前で事故にあわれたんで、あなたは二重にラッキーですよ。 しかし怪我もそうたいしたことはないし…いや、事故にあったというのは災難ですがねえ。 右折の車に正面からぶつかったんなら、普通はもっとすごいことになってますよ」
と言った。
 おしゃべりな医師だった。
 最後には、「まあ今後は、ちゃんとヘルメットの紐しておくんですね。 せっかくヘルメット被っても固定してないんじゃ、全然役に立ってませんよ?」 と叱られてしまった。
 




 念のため一晩だけ病院で様子を見ることになり、看護婦に連れられて病室まで行くと、あいつがいた。
 
 桜間は珍しそうに病室を見回していた。

 こいつの前に、無様な寝巻き姿の自分をさらしたくなかった、看護婦がいなければ回れ右して逃げてやったのに。
 やつはおれを見て、「平良さん、びっくりしましたよ。歩いて大丈夫なんですか」と言った。
「たいした怪我じゃなかったから…」
「よかった、軽症だったんですね。 頭痛くないですか?」
「ああ…ちょっと切っただけですんだんで。」
「それにしても。本当に抱えてますね、カバン。」
 手に貼り付いたようになっているカバンを、おれは桜間に渡した。
「一晩ここにいることになったから、悪いけど処理を頼む。現金も入ってるから」

 ベッドのそばにいすがあったので、とりあえずおれはそこに腰を下ろし、ほんのわずかな荷物、といっても財布と携帯と、血まみれの服くらいなものだったが…それをサイドチェストに収めた。
「横にならなくていいんですか?」
「気分悪くないし」とおれは答えたが、本当はこいつの前では横になりたくないのが理由だった。
 すると桜間は、こんな病室で堂々と携帯電話を出した。

「あ、坂東さん? 桜間です。……平良さんですね。今代わりますから」
 桜間はおれにケイタイを差し出しながら、「坂東さん、待ってたんだね。 一発で出たよ」と笑った。
 
 おれは電話を受け取り、恐る恐る「坂東さん…」と言った。
 一瞬の沈黙があり、「平良なのか?」と坂東さんの声がした。
「はい。 念のためって…今夜だけは病院にとまります…明日の朝退院です」
「…よかった」
「心配かけて本当にすみません。 あの…」
「なんだ?」
 ずいぶんぶっきらぼうな声だった。これは絶対怒ってる。
「桜間くんにおれのカバンもって帰ってもらいます。 今日中に処理しないといけないものもあるんで…みなさんによろしくお伝えください…」
「わかった。 ……無事ならいいんだ。 切るぞ」
 次の瞬間、電話は切れてしまった。
 
 やっぱりすごく怒っていた。 ため息をつき、携帯電話を桜間に返すと、やつは「坂東さん、ずいぶんショック受けてたみたいですよ」と言った。
「そう?」
「そっけないんですね。 坂東さんぼろぼろ泣いてたんですよ。 カウンターの中で腰抜かしたみたいになってね。クールな人だと思ってたんで意外だったなあ」
「…ば、坂東さんはいい人だから…みんなに親切なんだ…」
 しどろもどろになったおれを、桜間が楽しそうに見下ろした。
「思うんだけど。平良さんと坂東さんってさあ、なんかすごく、仲いいですね? うらやましいな」と軽薄な声で言った。
 薄笑いを浮かべていたが、目が笑っていなかった。
 震えが来そうになったが、おれは冷静さを装い、「同僚と仲良くするのは当然だろ」と切り返した。
「ふうん。 そうだよね。 たしかに。 じゃあ、ぼくも混ぜて欲しいですね。その親睦の輪にね」
 いきなり喉首にナイフを突きつけられたような気分だった。
「何気に嫌われてませんか? ぼくとしてはセンパイともっと仲良くしたい」
「……べつに嫌ってなんかいないよ…愛想がないのは性分なんだ」
「気に入らないところあったら言ってくださいよ。 直しますからほんと。平良さんとは仲良くやって行きたいんだよね」
「おれなんかと仲良くしても、何の得にもならないぞ」
 あまりのことに、そう言い返すのがせいっぱいだった。

「でもトシが近いんだし。数少ない独身男同志、仲良くしましょうよ」
「おれは、友達つくりに仕事に来てるわけじゃない。」

 桜間はため息をついて、でかいカバンを持って立ち上がった。
「取り付く島がないですね。じゃあ、勝手に坂東さんと仲良くすることにしようかな?」
 おれはついにやつに吠えた。
「坂東さんには近づくな」
「近づくなったって、隣で仕事してるんですから、近づかないわけにはいかないですよ?」
「下手なまねしやがったらぶっ殺す」
 桜間は目を切れ長の目でおれを見つめ、
「怖いですね先輩。ぼくが何をするって言うんです」
とつぶやいた。少しも怖がっている風ではない。狼の目というのを見たことはないが、きっとこういう目つきをしているにちがいない。
「同僚と親睦を図りたいだけですよ。 それだけですよ?」
「もう…いいから…カバンもって帰ってくれ!」
「じゃあ、お大事に。平良センパイ」

 桜間は、薄い頬に含み笑いを浮かべて、病室から出て行った。 
 おれが隙を見せると、坂東さんにまで危険が及んでしまう。 おれは、強くならなければならないんだ。


 
 大部屋で8人入れる病室は、おれを入れても4人しか入っていなかった。
 食事をすませると本当にすることがなかった。 9時の消灯まで備え付けの小さなテレビを見ていたが、あとは何もすることがない。
 消灯前から大いびきで寝てる患者もいる。 きっとこの調子で夜中もいびきでうるさいんだろう。

「寝ようかな…」
 おれのつぶやきに返事をするように、となりのベッドに寝ていたおっさんが、でかい屁を一発こきやがった…あああ。 わびしいなあ。
 しかも時間差でくっさい匂いまで漂ってきた。 音がしたら匂いはない、というのが相場なのに。 カーテン越しにすげえ匂いが漂ってきて、いや〜なかんじだ。
 すると、そのカーテンから、雑誌が差し出されてきた。

「ごめんよ、兄ちゃん。 おわびにこれあげる」
「へ?」
「ワシ、もう見たけんな。返さんでもエエわ。」
「はあ…」
 それを見たおれは、しばらく石になっていた。 「ハクションカメラ」東京美女パンチラ軍団。 魅惑の制服・コスプレ特集。えっちな人妻エロエロ特集、見せてあげるむちむちお尻。
 うれしくないんだけど、一応喜んで見せたほうがいいのかな。
「ありがとう。」
 一応丁重に礼を述べて、おれはその本を受け取り、そっと枕の下に置いた。 こんなの外に出しておけないけど、もらってすぐ引き出しに突っ込むというのも失礼だ。 
 おれは携帯電話を出して、壊れていないことを確かめた。
 アラームを、毎朝6時にセットしてあるのを解除する。こんなとこでピーピーなったら、周りの人に迷惑だからだ。
 明日退院するときに金を払っていかなければ…。 病院の前のATMがあるから、明日イチバンに下ろしてきておいて、きっと診察があるだろうから、それが終わったら退院だ。 でもたぶん9時以降じゃないと、清算はできないだろう。

 それから、タクシーでアパートに帰ってから出勤だ。 だって血まみれスーツじゃ、バスにも乗れないからな。 10時ごろには出られるかな? 無理だろうか。
 やっぱり遅刻だなあ…。 行ったらみんなに謝らなくてはならない。 大事な日に事故を起こしてしまったんだから。
 それから、坂東さんに謝らなければ。

 坂東さんを泣かせてしまった。 元気づけたいと思ったのに、泣かせてしまうなんて。
 明日はいつもより元気にしていなければ…。
 
 ピカ、と携帯電話が光って、着信を知らせた。 少し置いて軽い振動が伝わってくる。
 ディスプレイを見ると、「坂東直己」と表示がしてあった。 
 おれは飛び起きて、発信キーを押した。一呼吸置いて、坂東さんの小さな声がおれを呼んだ。
「平良?」
「はいっ。平良です」
 おれも小さい声で答えると、坂東さんも小さな声で「元気か」と言った。
「元気ですよ。ぴんぴんしてます」
 坂東さんは少し笑ったみたいだった。
「メシ食ったか?」
「全部平らげましたよ。 あの、家ですか? まだ仕事?」
「いま終わったとこ……。面会の時間終わっちまったな。 もう行っても入れてくれないかな。裏口からでも無理かな?」
「面会なんて。 明日また、あえるんだから…それよか坂東さん遠いんだから、早く帰んなきゃ。 今日中に帰れなくなりますよ。」
「だって、しばらく休むんだろ?」
「明日から出ます! 今日の分取り返さないと」
「まじ? 事故ったのに」
「まじ。 こんな怪我、かすり傷っすよ」
 坂東さんはほっとしたように、「わかった。でも無理はするな。頼むから」と言った。

 坂東さんの名前が着信履歴に残っている。耳の中には坂東さんの声が残っていた。
 小さな携帯電話を胸に抱いて、おれは眠りについた。


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