Only You 8  2002/3/5

 シャッターが閉まってからが仕事、客がいないのだから営業用ニッコリを浮かべる必要もない。  客がいない以上、上司も客の悪口を言い放題だ。
 あの客はがめつい、あの取引先は女を囲っている、云々…うるさい。

 今日は、貸付の女子行員が休んでしまったので、けっこうきつかった。 しかし無駄なサービス残業はしたくないんで、めいっぱいがんばった。
 プチへとへと状態というやつだ。
 午前中に得意先係が持ってきた伝票にあまりに基本的な不備があって、しかもポケベルで連絡がつかないし、こちらもいらいらしてしまった。
 そろそろ早い得意先係が帰ってくるだろう、裏手の通用口が気になる時間だ。

 伊藤という、2年先輩の得意先係が帰ってきたのをつかまえて、融資申込みの書類を返したのだがつい「つっかえす」という感じになってしまう。
「伊藤さん、ここ印鑑かすれすぎ。 金額塗ってる、おまけに住所バッテンで訂正。 何なんですか、こりゃ。 これじゃあ金貸せませんって、書き直してもらってくださいよ」
 ヤニくさい息を吐きながら、伊藤はヤニに汚れた指で書類をつまんで、またつき返してきた。
「ああ〜ん? 弱ったな、ここさ、気難しいんだよ。 印鑑で仕事してないとか言われちまう。適当にやっといてよ」
「じゃ、うちは銀行だから、印鑑で仕事してるって言ってやれば? おれも信念もって仕事してるんです、伊藤さんも同じでしょう」
 思わずとげのある言い方をしてしまう。「何年この仕事してるんだよ」と言いたいのをぐっと腹の中でこらえてはいるが。
 伊藤は、てらてら光った顔をしかめて、腹いせにいやらしいことを言う。
「いらいらしてるな坂東。 溜まってるんじゃないのか」
 一瞬むかっとして、「今のはセクハラだっ」と怒鳴りそうになる。
 かろうじて自分を抑え、おれは「とにかく明日もらってきてくださいよ」と唸った。
 いらいらしてるのは事実だ。
 
 ここんとこ、休日出勤だ、研修だ、通信教育の提出だと、休みの日も休むどころじゃなかったせいで少々テンパってるが、それだけではない。

 近頃、なんとなく、平良が桜間に優しい。 わけもなく尖らなくなったのは、それはそれでけっこうなことだと思う。 けっこうなんだけど…
 今日は独身者だけの飲み会がある。 あと誘ってみようかな。



 気が散ったら能率が悪くなるだけだ。 おれは強いて頭の中から平良の笑顔を追い払い、算盤で二度集計した伝票を、念のため暗算で検算し、間違いがないのを確かめた。 この算盤も、使い始めて10年、すっかり手になじんでいる。
 算盤でついに段を取ったときに先生がくれたもので、播州そろばんの特注品、すでにおれの体の一部となっていて、これに触れるとすうっと落ち着くんだ。

 はじめて平良の前で算盤を入れたとき、腰を抜かさんばかりに驚いていたものだ。 平良はそろばんが下手で、ずっと動きの遅い可算機で、懸命に計算していたからだ。
「坂東さん…伝票見えないです。 動き速すぎて」
 あとで言われたときは笑ってしまった。
「平良もそろばん覚えたらいいのに。 可算機なんか使ってたら手が痛くなるだろ。 そろばんは楽でいいよ」
「おれがそんなことしてたら、日が暮れちまいますよ」
 白い歯を覗かせて、困ったような笑みを浮かべた。 まだ前髪を下ろして、学生めいて…ほっぺには幼さがいっぱい残っていた。 平良はまだ入って間もないころで…。 銀行簿記の通信教育が難しいといって、途方にくれていたころだ。
 思えばあのころからかわいいとは思っていた、確かに。

 ……って何考えてるんだ。 コン、と自分の頭を算盤で殴り、伝票の集計を終える。
 これから融資稟議書も作らないといけないのに。

「どうしました? 坂東さん? 」
 驚いて、桜間が横から声をかけてきた。
「いや、ちょっと…なんでもない。 水でも飲んでくる」
 取り繕っておいて、席を立った。
 給湯室に行き、急須に残った出がらしの茶に湯を足して、飲み込んだ。
「げ、渋すぎ…」

 あわてて水を飲み、口の中の渋い味を消して営業室に戻ると、いつのまにか平良が下りてきていて、何か熱心にファイルを繰っていた。
 見たところ、口座引き落としの控えをつづったファイルらしかった。 客のものを探してでもいるのだろうか。 ちょっと寄り目になっているのが可愛い。
 ほっとして、気持ちが和んだときだった。
「平良」
 平良の後ろから得意先係の塩田次長が近づいて、いきなり平良の両肩をわしづかみにした。
 あ、だめだ。 平良は肩がすごく弱いんだ…。
「ひいっ!」
 虚をつかれた平良は、情けない悲鳴を上げた。そして瞬間、1メートルほども飛び退った。
 スチールの書庫に背をすりつけ、ファイルで胸をかばい、「ゆ、許して…次長。 それだけは」などと口走っている。
 …何なんだ、この女っぽい反応は。おれは頭を抱えこんだ。
 もしや二階でもときどきやられているんだろうか。 おれは平良の身が心配になってきた。まあ次長は変態なだけで、男が好きというわけではないんだろうが。

「い〜や許さん。 この肩凝ってそうなの見ると、おれの指がなるんだよっ」
 肩もみ魔の次長に、さらに執拗に肩をもまれると、平良はへたり込んでしまった。 こんなとこで力が抜けるなんて。 立ち上がって戦え、平良。

「ひ…次長、やめて…あっ」
「こら、力を抜かんか。指が入らないじゃないかっ」
「も、もう許してください」

 平良の悲鳴を聞くと、何か下半身にぐっと来るものがあった。 こんな声はおれが上げさせてやりたいのに。
 このおやじ、上司じゃなければ押しのけて、おれがかわって平良の肩といわず股間といわず、もみ倒してやりたい。 くそ、ここが仕事場でさえなければ。
 しかし今は、超忙しいんだ、こんなとこで盛らないで静かにしてほしいんだが。
 おれは助け舟も出さず、平良の受難は平良に任せ、黙々と仕事を続けた。

「ひいあああっ。 ここ、肩こってそうな人ばっかですよう。 あ、ほら、桜間くんとかもっ。な、桜間、肩こってるだろ?な?な〜?」
 ちら、と次長は桜間を見た。 桜間は笑って、きっぱり首を振った。
「全然凝ってませんよ。 平良さん肩凝ってそうだから、十分ほぐしてあげてください」
「桜間あ。くっそお、覚えてろ〜…ああああっ」
 次長に肩を揉まれながら、悲痛な声を上げるのを、内勤の女たちは見て見ぬふりをしている。  下手に声をかけると自分が肩を揉まれてセクハラされるからだ。
 さんざん部下にスキンシップを強要したあげく、満足した次長は二階へ上がっていった。
 
 隣の桜間がおれをつついて、言った。
「坂東さん…何しに来たんでしょうね、あのおじさん」
「さあ」
 ふと桜間の後ろを見ると、髪を振り乱した形の平良が亡霊のように立っていた。
 大きな手を、がっしりと桜間の肩に置いて、恐ろしい声で言った。
「桜間くん…さっきはありがとう、次長のセクハラからかばってくれて。」
「せ、先輩」
「お礼に君にも肩もんでやろう。気持ちいいぞ〜」
 すると桜間が、別人のような素っ頓狂な声を上げて、身をよじった。
「ああっ! 先輩、やめてくださいっ…。 おれもそこダメなん…わああっ」
「ついでに首もだ! すっげえ凝ってるぞおっ。ほぐしてやろうっ」
「ひい、死ぬ、死ぬっ」

 このじゃれあいを微笑ましく見ながら、ふと、胸の奥がちりっと痛むのを感じていた。
 こうやって平良は、次長とじゃれたり、近頃は桜間とじゃれたりするけど、おれには絶対こういうことはしない。 前よりも先輩、先輩とおれを立て、丁寧に、しかしよそよそしく接してくる。

 なぜなんだろう…。 
 
 そしてその日、独身会で行ったポッポ街の「ありの道」で、桜間と平良が白熱した腕相撲の3本勝負をするのを、遠くから見る羽目になった…。


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