愛妻物語。 00/12/17

 土曜日の夕方、おれと菜普美(3ヶ月、女児)は二人っきりの、濃密な愛の語らいをしていた。
 誰にも入りこめない、おれと赤ちゃんだけの世界だ。
 妻は、いない。

「なふみちゃん〜v ごはんでちゅよ〜〜」
「だあ」
「ママちゃんはお出かけしてまちゅからね。いい子にしてお乳飲みまちょうね〜」
「んごー」
 といってもついに逃げられたわけではない。 今日は女房が十年来のファンであるところの、ビーズ、とかいうバンドのコンサートがあるのだ。
 妻は気合を入れた化粧をして、通販で買ったらしい黒い革のパンツスーツを着て、うれしそうにライブに出かけた。

 ある日、妻が新聞を見ながら、
「B’zが岡山に来るんだって。 行きたいけど無理よねえ」
とため息をついたときに、即座にこう答えたのだ。
「行ってきたらいいよ。 菜普美ちゃんはおれが見てるから大丈夫さ」

 乳臭い赤ん坊とふたりきり、毎日毎日、狭い借り上げ住宅にこもりきりじゃ、妻の気分も塞いでくるだろう。 
 赤ん坊が生まれる前から、「たまご倶楽部」「ひよこ倶楽部」読んでるんで、そのあたりの理解はあるつもりだ。
 
 おれってほんと、いい夫だよな。 がんばっていいお父さんしてるよな。えらい。
 誰もほめてくれないから、自分で自分をほめてあげるのだ。

「菜普美ちゃん、ちゅぱちゅぱしましょうね〜」
「ブー」
 
 娘は、ゴムの乳首をまずそうに舌で押し出し、つん、と横をむいてしまった。
「わがままはいけまちぇんよ。 好き嫌いしたらダメでちゅ」

 どうも毛の生えてこなくて、地肌の透けた頭を撫でてやる。
 寝てばかりいるんで、ぽわぽわの髪がススキのように立っていて、しかも後頭部は多少毛がすりきれている。

 ぽってりしたおちょぼ口も、むちむちのほっぺも、二重あごも、首がないところも、ああ。
 食べてしまいたいほど、かわいいっ!

 ちゅ、とその口にキスをすると、ぺとっとよだれが口についた。
 へへ、菜普美ちゃん。おまえのファーストキスはパパがもらっちゃったもんね。
 絶対、ぜえったい、嫁になんかやらないぞ!

 なんていってる場合じゃない。
「なふちゃん、お乳冷めちゃうとまずいよ……がまんして飲もうね」

 一口吸ってくれたらわかるはずだ。 哺乳ビンの中身は、聡美がしぼって冷凍しておいた母乳なんだから、飲みなれてるものなんだ。

 だけど娘は、どうしてもゴムの乳首が嫌いらしい。 
 べえっと舌で押し出して、じろりとおれをにらみ、「びいっ」と泣き出してしまった。

「あわわ、よちよち」
 おれはあわてて菜普美を抱っこして、部屋の中を歩き回った。
 困った。 ちょっと前までは哺乳ビンからでも飲んでたはずなんだが。 女房は夜中くらいまで帰らないはずだし、それまで泣かせるのはかわいそうだ。

「聡美イ……」
 おれは切なくなって、女房の名を呼んだ。いい夫、いいパパであるのって大変だよ。
 抱っこが効いたのか、菜普美は泣き止んでくれた。 そして、平らなだけのおれの胸に顔を向けて、乳をねだるかのように、口を軽くあけたのだった。

 こ、これって。
 菜普美ちゃん……。

「そうか。 それほどまでにきみは、おっぱい星人だったのか……」
 胸の奥に、つううん、と甘いうずきが走った。 これは一種の本能かもしれない。そう、おれだっておっぱいやりたい。
 妻がいない、今日という日が、試してみる絶好のチャンスだ。 

 おれは、チェックのシャツのボタンを静かに外し、左の胸をはだけさせた。
 そしていたいけな菜普美の口に、おもむろに乳首を突っ込んだのだった……。

「これは何なの?」
 とでもいいたそうな娘の顔だ。 不思議そうにおれを見て、口を軽く開けたまま、吸いつこうともしない。
 おれはもどかしく、乳首をつまんで、口の中で振ってみた。 やはり舐めようともしない。

 そうか。 お乳の匂いがしないからなのだ。 どうして気づかなかったんだろう。
おれは哺乳ビンの乳首から指に乳をとり、乳首に塗りたくった。そして再び、ベイビーの口にソレを突っ込んだのだった。

「ちゅぱっ。」

 ああああ! な、菜普美ちゃん……。
 菜普美ちゃんのお口が、おれの小さな乳首を吸ってくれている。 愛しさが泉のように沸いてきて、パパになったという実感が込み上げて来ちゃったりしてして……。

 しかし、菜普美はおれの子だけあって頭がよい。
 すぐにだまされたことに気づいたのだった。
 よくもだましたわねえ、とばかり、歯のない口でおれの乳首に食いついて、ちぎれるほど引っ張ったのだった。 

「あああん、菜普美ちゃん、イタイでちゅうv」
「ギャ〜〜ン!」
「ごめんよ、ごめんよう。 ばかなパパを許してえ」
「アーン、アーン、アーーン」

 火のついたように泣き出して、止まらなかった。 それがまた近所中に聞こえるほどのでかい泣き声で、耳がキーンとなりそうだ。

「泣かないで、ねっ」
「ギャアア、ギャアアア、ウッギャアアア」
 娘はそっくり返って泣く。 ああ、おれって子育て下手かもしれない……。 なんだか泣きたくなってきちゃった。

 ピンポン、パンポン、と玄関のベルが鳴った。
 おれは泣き叫ぶ菜普美を抱っこしたまま、ドアを開けた。
 鴨居に頭をぶつけそうなほど、大柄なおっさんがそこにいた。

「や、川上君」
「し、室長」
「出張帰りでね。 ナマモノなんで、早いほうがいいと思って」
 明太子らしい箱を持ち上げて、そういった。 日本酒らしき箱も持っている。

「どうした? こっちのナマモノをえらく泣かせてるじゃないか。 奥さんは?」
「奥さんは、いや、家内はちょっと出かけてまして……」
「慣れない子守りか。 どれ。貸してごらん」

 室長は、泣き叫ぶ赤ん坊をおれの手から受け取ると、満面に笑顔を浮かべて、
「よしよし。 いい子だ。 泣くんじゃないよ」
とあやしはじめた。 おれから見ると、「怖い」微笑なのだが、菜普美は知らないおじさんにびっくりしたようで、泣くのも忘れて室長の顔を見ている。
 そんな怪しいおやじに気を許しちゃだめだ、娘よ。

「うむ。 腹が空いてるな、この顔は」
「お乳、飲んでくれないんですう。 哺乳ビンがキライで」
「ふうん。 こら。 好きキライはだめだぞ」
 室長は、どっかりと居間に腰を下ろすと(いつのまに上がりこんだのやら)、哺乳ビンを頬に当てて温度を確かめるふうだった。

「少し冷たいかな。 川上さん、ちょっとだけお湯で暖めてきてくれ」
「はいっ」
 ボウルにお湯を張って、その中でビンを振りまわし、乳を暖めた。
「室長、これくらいで……」
「よし、OK」

 室長はそれを受け取ると、
「さ、飲め」
 と問答無用で菜普美の口に突っ込んだ。すると、菜普美のやつ、何たることか。

「ちゅぱ、ちゅぱ。」
 とおとなしく飲み始めたではないか。 山田室長の顔が怖いので、強気の菜普美も気おされたのか。 恐るべし、山田室長。

「要は気合だよ、川上くん」
「は、はあ」
「いやなものでも食わせるには、気迫が必要なのだ。 父たるもの、子にナメられるようではイカン」
「はい……」
「ついでにいうけど、へなへなしてるときみ、奥さんに舐められるよ。 たまにはがつんといかにゃ、がつんと」
「ひえっ、それは……」
 そんな恐ろしいこと、ボクにはできましぇん。

 おれが室長の説教を聞いてるうちに、菜普美はなんと200CCも一気に飲み干して、とろんとした目つきになってきていた。
 室長が肩に菜普美のあごをのせると、驚くほど大きなげっぷをして、そのままがくんと眠ってしまった。

「いい子だ」
 室長は、部屋のすみのベビーベッドに菜普美を寝かせて、にっこりした。
「なんだ、育てやすそうな子じゃないか。 もう首も座ってるし、しっかりしたもんだ」
「…………」
 おれが子育て下手なだけかな。 ちょっとショックだ。
 
 室長はゆっくりとおれに眼を移して、こうおっしゃった。
「ところで、川上くんは、胸元が気になるんだが」
「は……」


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