小説トップ NEXT
乾いてなんかいられない 00/8/1
怒鳴られて、その場を逃げ出してしまったが、どうしてもその公園を離れることができなかった。
坂東さんの、先輩の真っ白な顔が目に焼き付いて離れない。引き返さずにはいられなかった。
吸い寄せられるように、あのトイレに戻ってきたときだ。
男の声が、はげしくあえぐ気配が聞こえてきた。それから壁を叩く音、引っ掻く音、断続的な、悲鳴のような声が聞こえた。
おれはしゃがみこみたくなった。脚ががたがた震えてしまう。
坂東さんは殺されるかもしれない…………おれが今、踏みこまないと。
でもあの人は、邪魔だといった。今行くと、二度と口もきいてもらえないかもしれない。
そう思いながら、どうしても想像せずにはいられなかった。
あの、粗野なおっさんに犯されている、坂東さんの姿、白い下半身をはだけさせられて、あのいやらしいおやじに汚されている坂東さんの姿を……。
トイレを流す音がして、しばらくしてあのおやじが出てきた。
おれを見もせずに足早に立ち去っていく。
おれは待った。待ったけど坂東さんは出てこない。
「坂東さん?」
おれはおそるおそる覗いてみた。いない。
死ぬ思いで、個室のほうをのぞいたら、壁にもたれて、じっとしている先輩が見えた。
「ば、ばんどうさん……大丈夫ですか?」
すると、先輩は無理に笑って見せた。あんな辛そうな笑いは見たことがない。
「何で戻ってきたんだ」
「心配だったんです」
「楽しんだよ。心配ご無用……」
でもあの人の顔は、やっぱり真っ青だった。蛍光灯の具合ではないだろう。
「なかなか出てこないから…おれ、心配で」
「ちょっと休んでたんだ、それだけさ」
坂東さんは、紙みたいに白い顔をゆがませて笑った。
「ちゃんとゴムもつけてたし。あいつ、ちょっと乱暴だったから疲れただけだ」
身の置き所もなかった。想像してしまう。生々しすぎる。
「平良は、なんであんなところにいたんだ?」
坂東さんの声はかすれて低かった。
「おれ、カギ落っことして、捜しに来たんです」
「そう、か。災難だったな。あのおっさん、見境ないから」
「………坂東さん……あの、いつもあんな……」
その瞬間、きつくにらまれた。坂東さんの怖い顔なんて初めてで、おれはすくみあがった。
「お前はもう帰れ。帰ってくれ」
「か、帰りません。カギ捜さないと」
「じゃ、とっとと捜しに行けよ!」
いまにも殴られそうだったので、おれはあわてて逃げ出した。
自転車のカゴを探ると、底に硬いものがあった。
カギだった。
「あ〜あ……」
はじめから落としてなんていなかったんだ。何を考えてこんなところに入れたのか。しかもなぜここを探そうとしなかったんだろう。そのせいで坂東さんに恥を掻かせてしまったんだ。それでも、どうしても帰りがたくて、先輩の後を慕って走った。先輩の足取りは重く、すぐに追いついてしまった。
寂しげな後姿だった。おれは自転車を降りて並んで歩いた。
「ねえ、坂東さん。公園の駐車場なら、あっちですよ」
「別のとこに停めた。早く閉まるから、移動しといたんだ」
「先輩は、あの、いつもあんなことを」
「うるさい」
「あぶないですよ。いつか殺されちゃうかもしれませんよ」
「おれの命だ。ほっとけよ!」
坂東さんは、いつもの冷静さのかけらもなく叫んだ。
言われるとおり、おれが立ち入るべきことではないのだろう。でも、おれは強情に食い下がった。
「ほっとけません」
「よく聞け。おれはいつもああいうところに出入りして、知らない男と、いつも」
坂東さんは軽く咳き込んだ。そしてこう言い直した。
「幻滅しただろ。これがおれだ。軽蔑するなら、したらいい」
「幻滅も軽蔑もしません。ただ、心配なだけです」
坂東さんはようやく立ち止まり、おれをまっすぐに見つめた。
「今日のこと。黙っていてくれるか? 誰にも言わないでいてくれるか?」
これはショックだった。
「坂東さん、おれが言いふらすとでも? それとも強請るとでも? おれが、そんなことすると思ってるんですか?」
先輩は気まずそうに黙り込んだ。
「もうああいうところには行かないって約束してください」
「……なんでお前に約束しなきゃいけないんだよ」
「な、なんでって」
「お前が慰めてくれるってんなら、別だけどな」
いきなりだったから返すことばもなかった。
「できないだろ? じゃ、ほっといてくれ、おれなんか……おれなんか、どうせ公衆便所だ。あんなところでたまったもの吐き出すしか……」
そういいながら、坂東さんは泣きそうな顔になった。
やばい。これじゃ、いじめているみたいだ。
「絶対、ここを動かないでくださいよっ」
おれは公園の自販機コーナーまでダッシュで走っていき、とりあえずお金を放りこんで飲み物を買った。
「し、しまった」
目測を誤って、カロリーメイトなんて押しちゃった。この状況であの白い液体はまずい、一種のブラックユーモアみたいなもんだ。
二本目はちゃんと目的のボタンを押した。
走って行って、坂東さんに冷たいポカリスエットを差し出した。
「飲んでください。落ち着きますよ」
いつのまにか、川岸にまで来ていた。おれたちは水際の階段に腰を下ろして、缶を開けた。
柳の枝が夜の風に優しく揺れていた。夜になると、濃い磯の匂いがする川だった。
新町川の黒い波に、街路灯の光が落ちて、波に壊されていく。坂東さんの小さな顔に、水面からの淡い光が陰を作っていた。
夜も更けてきた。お囃子は途切れて、水が堤防を撫でる音がしている。先輩はじっと川を見詰めている。水面からの光が顔に反射して、長いまつげがいっそう長く、ほほの上に影を落としていた。
「坂東さん、新町川の遊覧船、乗ったことあります?」
「いや、ない……」
「気持ちいいですよ。今はちょっと暑いでしょうけどね」
おれはカロリーメイトのどろっとした液体を、少しずつ咽喉に流し込んだ。
ほんのり甘い味が舌に広がっていった。けしてうまいものではないが、慣れたらそう捨てたものでもない。
先輩は、平気でカロリーメイトを飲むおれを、気味悪そうに見ている。
「平良くん……そんなものよく飲めるな」
「え? 慣れたら平気ですよ、これ。とりあえず腹は膨れます」
「おれはだめだ。とても飲む気にはならないよ。それ、なんだか臭いだろ? 口にいれただけで吐きたくなってしまう。それにあの、どろどろした舌触りがいやなんだ」
おれは坂東さんの、ふっくらした唇を見つめていた。白い顔がひどく無防備で、年上だなんて思えないほどだった。思い切って下品な冗談をかましてみた。
「味は、ザーメンよりはずっとましですよ」
先輩は一瞬ぽかんとして、それから仕方なさそうに笑ってくれた。
「ばかだな。そんなもの飲んだこともないくせに」
ようやく笑ってくれた先輩の顔を見て、胸が熱くなった。
だからおれは思い切って、胸に仕舞っていたことを言ってみた。こんなことでもなければ、絶対口にしそうもなかったことだ。
「坂東さんのなら、おれは飲みたいです。毎日でも、朝昼晩でも。誰にも触らせたくない。おれは、そう思ってます」
END
NEXT
小説トップへ戻る
トップページへ戻る