セミ、ヒグラシ 08/15/01
長い夏休み、幼稚園児の息子は毎日退屈もせず、水遊び三昧の毎日だ。
朝のうちはベランダで、祖母にせがんで大きなビニールプールに水を張ってもらい、同じ敷地内に住む従兄弟たちと大暴れをする。
昼飯を食べた後はゆっくり昼寝をし、夕方は近所の友達や、従兄弟たちと遊ぶ。 古い家だが庭は広く、木も多いのでいろんな虫が寄ってくる。 遊びのねたにはことかかない。 庭の外には田んぼやハスの畑が広がっているが、用水路もあり危ないので、子供だけで出て行くことは許していない。
それはようやく一日だけとれた、お盆休みの日だった。
昼寝から覚めると、息子は急いで外で遊ぼうとする。
私は息子にせがまれて、虫取り網を持って外へ出た。
「パパ、あそこっ。 セミ取って、セミ」
息子が、庭の松の木を指差して叫ぶ。 目を凝らしてようやく、甲高く鳴く小さなセミを見つける。
ヒグラシだった。 そう詳しくない私も、あの声はわかる。
透き通るような声でカナカナカナと鳴く、あれだ。
実は私は、飛ぶ虫が怖い。 セミとか、トンボとか、バッタとか、カブトムシとか……そういった子供に人気のある虫が、怖いのだ。
「やだねったら、やだね」
私は小声で歌ったのだが、息子ににらまれて、仕方なく網を伸ばした。
「あ、取れたっ」
息子が叫んだ。
セミは、元気に鳴いていたわりにはとろかった。 網を被せられると、鳴くのを止め、そのうちに自分から網の中に入ってきてしまった。 そのあとも、網の中でじっとしているのは、少し弱っているんだろうか。
「し、しまった」
しまった、というのは、本当は、できれば私は取りたくないんであった。 だって取ったら最後、これを虫かごに入れなきゃいけないんだもん。
虫かごに入れるためには、網の中でセミを捕まえなきゃいけないんだから。
「と、取っちゃったよ……」
「パパ、すごいすごい。かごに入れて、カゴ」
この作業が苦手なんだ。
前にクマゼミを捕まえたときは、地獄のような大声で鳴かれたっけ。私が卒倒しそうになったくらいだ。 夕方逃がそうとしたら、羽が折れていてかわいそうな思いをしたんだっけ。
おそるおそる、網の中のヒグラシに手を伸ばす。 ヒグラシはようやく異変に気づいたのか、猛烈にばたついた。 瞬間、ざわっと鳥肌が立ってしまう。
だめだ。やっぱり気色悪い。
こんなことやってて、心不全でも起こしたらどうしよう。
さて、苦労の末、かごに入れたセミは、そのあとは声も立てず、網に取り付いてじっとしている。 アブラゼミと違い、色が薄くて、小さめだ。 羽も透き通って、体の色はわりと薄い茶色をしている。
「これねえ、ヒグラシだよ。この辺じゃ珍しいよね、裕くん」
「うん。これ飼って、パパ」
「かわいそうだから、夕方になったら逃がしてやろうよ」
「ええ〜」
「セミも外で鳴いてたほうが楽しいんだよ。かごの中じゃ鳴かないよ、きっと」
「これ、オス? メス?」
「鳴いてただろ? だからオスだよ」
「ふうん」
以前、私の母がアブラゼミを捕まえて、そいつに糸をくくりつけ、割り箸の先にもう一方を結んで、息子に持たせるということをした(母は山育ちなのだ)。 帰宅すると息子はクッションにセミを止まらせて上機嫌だった。 こんな面白いおもちゃはどこにもないだろう。
今回も息子は、「糸つけて結んでよ」とねだったが、断固却下した。
夕食の間も、息子は食卓の真ん中にセミを置いて、うれしそうに眺めながら、腹いっぱい焼きそばを食った。 よく食えると思うが……。 ムシが嫌いな私の息子にしては、本当にムシが好きだ。
好きなら自分で捕まえて、かごにいれるようなら世話はないんだ。 虫が好きだが、触るのはまだ、少し怖いのだろう。
ごちそうさまのあと、息子を促して、セミをにがしてやることにした。 外に出て、虫かごの小窓を開けると、おとなしくカゴにしがみついていたセミは、すぐさま外に這い出した。
出口にたどり着いて、すぐにぱっと飛び立っていく。
「バイバイ、セミ!」
「セミ、喜んで飛んでいったねえ、裕輔くん」
「うん」
「じゃ、寝ようか。 セミもこれからご飯食べて寝るのかなあ」
息子が寝た後は、持ち帰っていた見積書を仕上げた。
明日の朝までに取引先にファックスしておきたいが、うちにはファックスという便利なものがない。
自転車で3分の、近所のコンビニに走ることにした。
コンビニは、客もまばらだった。
ファックスを送信して、ついでにビールとつまみをカゴに放り込んでいると、茶髪の若者が近寄ってきた。
腹が見えそうな短いシャツを着て、ひざ小僧のむき出しになったパンツを着た、まだ子供みたいな若者だ。
私の顔を覗き込んで、にこっと笑い、片手を挙げた。
「おひさ〜」
知らない顔だ。 浅黒い男前だが、仕事関係ではこんな若いやつはいない。
つられて私もにこっとして、「こんばんは」と返すと、買い物を続けようとした。
酔っ払いの人違いだ、逃げようと思ったわけなんだが、兄ちゃんは長い脚をひょいと伸ばし、通り過ぎようとする私を捕まえた。
「んだよ。 冷たいじゃん。 あんなに優しくしてくれたのによう」
そいつの声は、よく通る、きれいな声で、声量もあった。 その声でまともにそういうことをいうので、店の客が振り向いて、あわてて顔をそらしたことだった。
見ろよ、レジの店員がちらちらこっちを見てる。 ハッテンしてると思ってるぞありゃあ。
「お、お人違いじゃないでしょうか」
「あんただってばおっさん。 ガキのおれを掘っただろ?」
「はあ?」
それは突然降ってわいた災難だった。 いわれたことの意味を理解するまでに、5秒くらい要しただろうか。
「びっくりしたぜ、あんときゃあ。あんたのおっきな手につかまったときはさあ…」
「え? ええ?」
「あんたに会いたくて、おれさあ。 おっさんよお。あんたのこと忘れられなくて、あれから俺……なんかさあ、こう……むらむらするっつうか!」
「し、し、失礼な……きみはなにをいったい……」
「のど渇いた。 アレ、うまいか?」
兄ちゃんは、陳列ケースのリンゴジュースを指差した。それからいかにもほしそうに、指をくわえてみせた。
何で私が、こんな語彙の少ない、いかれた坊やに奢らなきゃいけないのか。
「ねえ、あれ、飲みたいなあ」
私は勢いに押されて、若者の差し出したリンゴジュースをカゴに放り込み、レジを済ませてからジュースをやつに与えた。
店を出て、すばやく自転車にとび乗ろうとしたら、ああ、運が悪い。
パンクしてやがった。 乗って走って逃げようと思ったのに。 仕方なく押して歩き始めると、あとから先ほどのイカレポンチ野郎が付いてくる。 うまそうにジュースを吸いながらだ。
そのうち、立ちしょんべんをする音が聞こえてきた。 はしたないやつだ。 私はかまわずどんどん歩き、しばらくすると若者は走って追いついてきた。
途中、神社へと続く道にさしかかった。 若いのはまだ付いて来る。 私は振り向いて、にらんでやった。
「どこまで付いて来るんだ」
「おっさんのおうちまで。離れたくないもん」
「誰かと間違えてるんだろうが、あんまりしつこいとケーサツに突き出してやるぞ」
「ここでおれのこと、掘ったんだよ、おっさん…2年前だったかな。おれはまだガキで」
「悪いけど、君とは初対面だ」
若者はふいに、泣きそうな顔になり、神社のほうを指差して言った。
「あの森で会ったじゃないか。 覚えてないのかよ? おれは覚えてるのに……」
私は思わず若者を見直した。 よく見ると、つるんとした浅黒い顔に、幼さが残る。せいぜい十九か、二十歳といったところか。
神社で遊んでいて、けしからん中年男に何かされたのだろうか。 そういう事件のうわさはないが。にしても男子学生を強姦するとは、容易なわざではない。 援助交際でも持ちかけられたか?
「あのな。 その、私は君の知ってる人に似てるかもしれないけど、本当に、くどいけど本当に人違いなんだよ」
「おれのことをさ」
「ん?」
「おっさん、おれのこと、掘り出しただろ。 あんたのガキが飼うって言ったのに、かわいそうだからってまた埋め戻してくれただろ」
「ほ、掘り出す…」
掘る、と、掘り出す、とではかなり違う日本語だぞ。
「そう、あっちの森の中でさ。かわいそうとかいって、おれのこと土の中に戻して、そおっと土かけてくれただろ」
「なにをいってるんだ、きみ」
「セミの子供を、掘り出さなかったかい? 神社の森の、木の根元でさ」
あのつらかった夏が、さっとよみがえって来る。
妻が急な病気でなくなった年で、息子はかなり赤ちゃん返りして、言葉すらおぼつかなくなった。
私は一月近く、仕事を休ませてもらい、小さな息子の手を引いて、神社の森に毎日遊びに行った。
そのあいだに息子はゆっくり、なくした言葉を取り戻していった。
息子のため、というが、半分は自分のためだった。 あまり突然に妻が亡くなったので、私もなかば失語症のようになり、夜も眠れず、正直仕事どころではなかったので。
それでも子供と二人、森で遊ぶと気が晴れた。
セミの幼虫を見つけたのは、そんな一日だった。 持って帰る、と息子は言ったが、飼うのは無理だ。 みすみす死なせるのはかわいそうな気がして、よく言い含めて、そっと土に戻してやったことがあった。
「おれ、あのときのセミでっす」
「あ、そ…う」
「でもって今日、あんたに捕まったし。 逃がしてくれてありがとお〜。 これってやっぱ運命ってやつ?」
頭がくらくらしてきたが、今日はお盆だし、こういう不思議なこともあるのかあな。 あのときの白いイモムシが、こんな立派なオスの個体になって(?)戻ってきたのか。
鶴が恩返ししたら反物をくれたんだっけ。
セミの恩返しは、何をくれるんだろうか…。
若者は、ハンドルを握る私の手に、自分の手を置いた。
手は暖かかった。 瞬間、私は現実に戻った。
私はからかわれているんだ。 自分はセミだ、と若者は言ったが、あれはうそで、実はこれはれっきとした人間なのだ。 少し頭のねじの緩んだ、暇をもてあました学生か。
そんなところだろうか。
刺激しないように適当に話をあわせておいて、隙を見て逃げるか。
「あんたに会いたい一心で、一生懸命食って、大きくなってさあ。無事にさなぎになって、こんな立派なオスになったんだよ。おっさん」
「……そ、そうだね。よかったねえ」
「びっくりさせてごめんな」
「……いいんだよ……」
「さあ、交尾しよう」
交尾? 今、交尾といったか?
交尾しよう、つまり、セックスしようと持ちかけられているんだ、と気づいたときには、やつは私にそっと寄り添っていた。
茶髪のオス(?)はフリーズ状態の私にぴったりと寄り添い、自転車のハンドルをつかみ、歌うようにささやいた。
「あの森が俺たちを呼んでるぜ。さあ、行ってつながろう」
「だから、おれはそ〜ゆ〜のはちょっと…男はちょっとっ」
「大丈夫。 怖くないから。 痛くないから。 絶対気持ちいいから。 俺を信じなさ〜い」
「よせってば!! もうお遊びは終わりだっ。家へ帰れ、不良息子っ」
すると若者は悲しそうに私を見た。
「おっさん……まさか、いやなのか?」
よろこんで受け入れるとでも思っていたのか。 なんという、ムシのよさ。
「いやだ、はっきりいうが、おれはそういう趣味はない。 相手がほしければ町へ行ってナンパでもしろ」
若者は悲しそうに首を振る。
「メスはほしくない。 おれのタネを残せなくてもかまわない。あんただけがほしい。 やらせてもらえないと、おれはきっと成仏できない」
「じょ、成仏」
「おれは、サナギ脱いで今日でもう2日になる。 どうがんばってもあと4日くらいの命だ。 落ちて転がって、死ぬ前に、どうしてもあんたと交尾したいんだ。 だめか?」
若者はまた私の手を握った。 やはり暖かく、汗ばんでいる。
頭のねじのゆるんだ、ムシおたくだ。 しかしその目はきらきら輝いていて、無邪気にすら見える、少なくとも悪い人間には見えなかった。
言ってる内容はバカみたいだが、きれいな声だ。 世の中には、人を支配してしまう声質の人間がいるというが、この若者の声はまさにそれだ。
優れた歌手の声のような、名優の声のような……。
こいつを殴りたおす気分にならないのは、この声のせいだ。
「あんたに会いたくておれは育った。 あんたがほしい。 今夜あんたと重なり合いたい」
若者は優しい声でささやき続ける。 それこそ、メスを前にしてオスが歌うようにだ。
語彙がきわめて貧弱だが、すばらしい声だった。 女だったらきっと逆らえない。
私は、どういう不思議が作用したのか、足を前へ運べなくなっていた。 やつは私に体を押し付けてきて、自転車のハンドルを持ったままの私を抱きすくめ、しなやかな脚を私の脚に絡ませる。
ハーフパンツの布ごしに、私のチノパンの布越しに、やつがにっちもさっちもいかないほど、興奮しているのがわかった。
ああ、こいつは、本気で私とセックスする気なんだ。
やつの指が、私のチノパンの前をかすめる。 その瞬間、覚えのある疼きが私を襲った。
やつが私のポロシャツのボタンをひとつ外し、首筋に舌を絡め、幼いヒゲのある頬を、私の頬に押し付けてくる。 そして今度はもっと大胆に、私のチノパンの前を上下にこすり始めた。
つつしみもたしなみもなく、路上で前戯をはじめようというのか。
路上でキスをしたり、愛撫しあったり、公園でセックスしたり、そういう獣じみたことは、どこか別の世界のことだと思っていたのに、突然私の上に降りかかってくるとは。
自称セミの若者は、今度は私のジッパーをゆっくりおろし、トランクス越しに私を撫でた。そして、私のトランクスのボタンを外しにかかる。
「たのむ、やめてくれ…」
「だめ」
やつは私にキスをする。 少し歯が出加減なのか、軽く唇に歯が当たり、舌先が私の歯に触れてくる。
そのとき、私は本当に、落ちてしまったのだ。
後ろ向きに倒れそうな感覚に襲われて、私は自転車のハンドルを放してしまった。
若者はすばやく自転車をささえ、その場に自転車を立てた。 そして座り込んでいる私の腕をつかみ、促した。
「歩ける?」
私はふらふらと立ち上がり、知らない若者に肩を抱かれて、神社の森へと入っていった。
セミ、ヒグラシ 続き
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