高志 (タカシ) 其の壱  平成十三年五月二日

 あの人が薄暗い役所に来たとき、ぼくは夢ではないかとこの目を疑った。

 「タカシ」だった。
 しばらく言葉もなく、色白く面高な顔を見つめていた。
 5秒くらいか、いやもっと長かったかもしれない。
 一度見たら忘れられない顔だ、間違えようがない。
 きちんとしたスーツを着て、きれいに髪を整えていても、あのころの面影ははっきり残っている。 でも相変わらず細身で、腰高の体つきをしている……。 ぼくより少し年上のはずなのに、よほど若く見える。

 朝鮮は寒く、ぼくらは飢えた。
 日本は遠かった。
 あの人は引き揚げ船の甲板から、小さな刀を海に投げた……。

そしてそれが放物線を描いて水中に没するのを、ぼくとあの人だけが見ていた。
「お願いできますか」
 あの人はそう言って婚姻届を出した。文字通りぼくは、固まった。
「すみません、妹がちょっと具合が悪くて、義弟も新婚早々、長期出張で。 私が妹夫婦の代理で手続きをしたいんですが、いいですか? 一応、証人にもなってますんで……」
 ぼくは慌てて婚姻届を見直した。確かに証人の欄に「川村高志」と書いてある。
「代理で手続きですね? それは全然問題がないです。書類は揃っていますので。ではこれで手続きしておきます」
 あの人はほっとしたように笑みを浮かべた。
「よかった。ではよろしくお願いします」
 高志は軽く会釈をして出て行く。 沼地から飛び立つ白鳥のように。
 でも大丈夫、ぼくにはこの書類がある、この人の住所と名前を書いてある、この紙切れ、婚姻届ってものがある。
 それが、20年ぶりに、川村高志とあった日だった。



 その日から、高志のアパートの周りをうろつく日々が始まった。 役所は5時には終わってしまう。5時半には役所を出て、そのまま高志の住む駅まで電車で行き、駅前の飯屋で食事をとる。
 そして9時くらいまで、味噌汁の匂いのする道をうろうろする。 立ち止まって待つ勇気もなく、ぼくは歩きつづける。 駅と高志のアパートの、片道5分の砂利道を、何度も往復する。どこかの窓からプロレス中継の叫び声が流れてくる。一家団欒の時間というのに、ぼくは野良犬のように歩き回る。
 あれから仕事の合間に調べあげて、高志がかなり名のとおった会社に勤めていることを知った。
 悩ましい春の夕暮れに、来るとも来ないともわからない男を待って、ぼくはいったいなにをしてるんだろうと思うこともある。
 手段は稚拙でも、ほしいものははっきりしていた。

 高志のアパートは、いつも明かりが消えていた。
 公務員だからこの時間に帰れるんであって、忙しい商社に勤めてるんなら、とても9時前には帰れないのかもしれない。

 待ち伏せをはじめてから、半月たったころだった。
 薄い色のスーツを着た高志が歩いてきて、ぼくに気づかず、そのまま通り過ぎた。 かすかな香水のにおいが、ぼくを誘った、ような気がした。
 ぼくはきびすを返し、気づかれないように高志の後を追った。 前方を歩く高志は、やがて屋台の前で立ち止まり、いすに腰をかけた。

 ぼくはよほどためらって、結局同じ屋台の、少し離れたところに座り、熱燗を頼んだ。
 わけもなく手が震えそうになるのを押さえて、ひとり酒を飲もうとしたときだ。
「やけどしないように気を付けてな。 ここの燗は熱すぎるんだよ」
 ふと高志が顔を上げ、ぼくを見た。 いきなり心拍数が10は上がったと思う。
「あれ、お兄さん、酒だけ飲んでるのかい?」
「え…あ……」
「そんなの胃に悪いよ。 おでん食べるかい?」
 高志は答えも待たずに、ぼくの前にはんぺんや卵の乗った皿を差し出した。
「すみませ……」
「いいさ。 食べなよ。 熱いから気をつけて。おやじさん、おなじもん、も一皿おくれ」

 おやじは黙って、また高志の前におなじようなおでんの皿を差し出した。
 あの美貌の高志が、ネクタイを肩にかついておでんを食っている。 うまそうに。
 唇にスジ肉の脂がついて、それを時折、薄赤い舌で舐めるのを見ると、ぼくは目がくらみそうになってしまう。 ぼくの視線に気づいたんだろうか、高志はふと顔を上げた。

「おれの顔になんかついてるかい?」
「い、いえ」
 高志はぼくのお猪口に、自分の酒を注いだ。
「今日はお祝いなんだ、いっしょにお祝いしてくれるかい」
「何かいいことあったんですか?」
 ふと高志はうつむいた。
「おれは卒業するんだ」
「え? なんか学校に行ってたんですか?」
 高志は呆れてぼくを見た。
「学校じゃなくて……いや、おれの言い方が変だったな、すまんな。 妹が結婚したんで、とうとう、親代わりを卒業ってわけさ。相手の男もいいやつだしな、もう心配いらないや」
「それはおめでとうございます」
「めでたいよな。 そうだ、めでたいんだよな……肩の荷下ろして、せいせいするってもんさ」

 彼は、ちょっと泣き上戸かもしれない。 涙は見せてはいないが、声が少し湿っていた。
 ぼくは黙って高志のお猪口に酒を注いだ。
「ほかにご兄弟は……」
「弟は去年就職した。 今は京都にいる」
「奥さんは?  結婚してるんでしょ?」
「おれ? 花の独身さ。 相手がいねえよ」
「独身ですか。 もてまくって、いっぱい女の子泣かせてるんじゃないですか? 高志さん」
「そんな余裕あるかい、おれは……」
 言いかけて、彼は絶句した。
 いきなり名前を呼ばれたことに驚いたか。

「引き揚げてから必死に働いてきたんでしょうね」
「…………」
「親もなくて苦労したんですよね……弟と妹と三人、力を合わせてね」
「…………あんた」
「収容所で苦しかったことが励みになるから、とことん頑張れるんですよね」
「…………あんた、誰なんだ」
 高志の声がかすかに震えていた。

「子供がよく死にましたよね。 かわいそうに。 朝になったら冷たくなってた。 餓死したんだか、凍死したんだか。 でも食べさせてても死ぬんですよね、おれの妹は消化不良おこして死にました、6歳でした……それ考えると、親なしのあんたたちが、1人も欠けずに帰れたのはすごいよね」
「答えろよ、あんた誰だ……」

 ぼくは、高志の耳元でささやいた。
「あなたが朝鮮でしてたことを、ぼくは知ってます、川村さん。 あなたが船から刀を捨てたことも知ってます、高志さん」
 
 高志の白いまぶたに、一気に朱が駆け上った。
 しばらくぼくを見据えて、やがて高志は低い声で言った。
「ちかくにおれのアパートがある。 詳しく話を聞こうじゃないか、君の面白い作り話をさ」
 そのようすは、追い詰められた獲物というよりは、新しい獲物を見つけた肉食動物のようだった。

 そして高志は、二人分の飲み代を払い、立ちあがった。
 ぼくは、ふと、生きて再び朝日は拝めないかもしれないと思いながら、高志のあとをついていった。

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