高志 (タカシ) 其の弐 平成十三年五月一四日
高志の部屋は、あまりものがなかった。
最低限のものしかないといっていいが、奇妙に畳の上に青い部分が目立つ。
もとはもっと家具があったのだろうか。
粗末な桐のたんす、その上にいかにも古めかしい、布張りのラジオが、重々しく座っている。
ちゃぶ台の上には、青い小さな蝿帳がある。 朝食の残りの上に伏せておいたのだろうか。小さな仏壇の前には大輪の黄色い菊が供えられていた。
毎朝、仏様に供えているのだろう、茶碗の上に白い飯が、こんもりと盛り上がっている。
仏壇の中には、高志の母親の位牌が収められているんだろうか。
「そこに座りなよ」
高志に言われてちゃぶ台の前に座る。
かつてはここで弟や妹と飯を食っていたのだろう。
高志は無造作にスーツを脱ぎ、それをハンガーにかけた。
近寄ると、ふわりと涼しげな匂いがした。 男の香水にもこういう、柔らかいものがあるんだろうか。
まるでどこかに、本当の花を隠し持っているような、淡い香りだ。
日本のものではないだろう。 ……まさか女ものの香水ではないだろうな。 彼はそういうタイプではない。
「……ラジオでもつけるか。 静か過ぎていけねえや」
高志はつぶやいて、たんすの上の、旧式のラジオを付けた。
高給を取っているはずなのに、暮らし振りはずいぶん質素なようだ。テレビもない部屋に住んで、古めかしいラジオを大切に使っている……。
ぼくの気持ちを読んだように、高志はつぶやいた。
「妹には十分なことをしてやりたかったけどな、テレビまでは回らなくて、使ってたのを持たせてやったんだ。 このラジオなんて10年くらい使ってるかな」
ラジオからは古いジャズが流れている。
突然、強烈にタバコが吸いたくなったが、どうやら高志は吸わないらしく、灰皿もない。
「ところで、あんたの名前を聞いていなかったな」
「大野克紀、です……今年、32になります」
「おれより二つ下かい。……で? おれが何をしたって?」
「それはあなたが一番よくご存知のはずだ」
ぼくは、悪党らしい微笑を浮かべた。
ぼくたちが収容所にいたころ、配給の食糧はないに等しくて、売り食いでもしなければ飢えるしかなかった。
なけなしの着物や反物を町に持って行き、通りすがりの韓国人を捕まえては「買って」とせがむのだ。
高志とぼくは、毎日のように着物を売りに出かけて行った。
ぼくらはまだ子供で、とくにぼくは歳のわりに小柄で、幼く見えた。
いかにもあわれそうに見えるので、たまには買ってくれる人もいる。 韓国人の彼らにとっては、そのままでは着られないものばかりだ。 仕立て直して着るのだろうが……。
また着物を買ってはくれなくても、ぼくのポケットに食べ物を忍ばせてくれる人もいた。
たいていは、チマチョゴリを着たおばさんだ。
言ってみれば、ほとんど物乞いに近いことをしていたのだ。
ところで高志は色が白かった。 色が白い、といわれても彼は喜ばなかったが。
肌だけでなくて、目の色も髪の色も少し薄いほうだった。
うつむくと彫刻刀で細工したような、切れ長な目をしていて、頬は滑らかで、アゴの線も細い。
穏やかな表情さえしていればまるで、あの有名な百済渡りの観音像のようだった。
頬に細い指を添えて、物思いにふけっている、女顔の、加えて悩ましい腰つきで有名な、あの観音像だ。
あんなふうに、ただ微笑んで座っていられたらよかったのだが、高志はそうもいかなかった。
ある日、高志の反物を、不釣合いな高値で買ってくれた男がいた。
中年の、いくつくらいだったか、あの時代にちゃんとしたスーツを着て、恰幅がよかったから金持ちだったのだろう。
高志はしばらくその男と話をしていた、韓国の言葉だからぼくにはわからない。
よく言葉を覚えたと思うが、こっそり父親が教えていたんだろう。
高志はうつむいて男の言葉を聞いていたが、やがてぼくのほうにやってきて、
「ちょっと出かけてくる。 遅くなると思うから一人で帰ってて」
と言った。
ぼくは黙って、うなずいただけだったと思う。
「知らない人についてくの? やめたほうがいいよ、高志さん」
それくらい言えばよかったのに、年上の高志には口答えはできなかった。
細い背中に、男がなれなれしく手を廻すのが、ものすごく不快だった。
友人がそいつに連れられていくのをみて、わけもわからず胸が苦しかったのを覚えている。
(ぼくの)高志が、知らないやつに連れて行かれてしまう……。
高志はその男とどこかに行って、それっきり何時間も戻らなかった。
ぼくはというと着物も売れず、日が傾いてきたので、一人で収容所に戻った。
そこらじゅうからニンニクの匂いのする路地を、ぼくは一人で帰ってきた。
しばらくして高志が帰ってくると、ぼくを物陰に呼んで、ぼくに金平糖の包みをくれた。
あの男が、みやげにでも渡したのだろうか。
ぼくは礼も言わずそれを受け取り、一瞬捨ててしまおうかと思ったが、思いなおして妹に与えた。
妹は喜んで一粒だけ食べて、ぼくと両親の口の中にひとつずつ入れて、残りは紙に包んで、大事にブリキの箱にしまいこんだ。
それが数ヶ月して、瀕死の妹の口に、最後に含ませる食べ物になるのだが、それは思い出すのも辛いエピソードだ。
ところで同じ収容所に住んでも、食事は家ごとに別々に練炭で作って、食べていた。
いつも雑炊ばかりだった、高志のほうもそうだった。
ぼくらは次の日も市場に出かけ、ぼくは反物を売り、高志は体を売りに行った。 例の中年男が迎えに来るのだ。 よほど気に入られたらしい。
ぼくは、その日、こっそり後をつけた。
二人が小さなつれこみ宿に入るのを見て、中で行われることを妄想した。 そういう知識もないのだが、しかし確実に幼いなりに欲情はする。
家の納戸に、何冊かエロ本があった。 多分父が買ったのだろうが、かなり露骨なものだったので、それを見て、男と女がどんなふうに「する」かはなんとなく知っていた。
しかし男同士が、ほんとうに「する」のだろうか。 服は脱がせるのだろうか。 だいいち、どうやって「する」のだろうか。
わからなかったが、わからないからよけいに妄想をかきたてられてしまう。
そうして、ふつふつと涌きあがる妄想に、ぼくの幼い持ち物は微妙な状態になってしまうのだった。
戦争に負ける前は、ぼくも国民学校に通っていた。
昼休みには友達と裏山に登り、頂上に横一列に並んで、一物の大きさを競い合った。しまいにはみんなでいっせいに自慰をして、だれが一番遠くまで飛ばせるか、という遊びをした。 早熟と言うよりバカで、野蛮だった。
でも友達にむらむらした、という経験はなかった。
皆同じ、埃っぽい、日向くさいガキだったんだから。
高志は、本当に特別だった。 高志が屋上でとばしっこするのなんて、全く想像できない。
避難するときにはじめてあったのだが、あったときはお互い丸刈りにしていた。
そういう髪形をしていてさえ、高志はキレイだった。 ぼくのような子供でもそう思うんだから、目ざとい好き者が目をつけるのも、無理はなかったのだ。
ぼくは貝のように黙っていたから、高志のことは、大人たちのあいだで何のうわさにもならなかった。
それとも大人たちは知っていただろうか。 知っていてもどうもできないから、黙っていたのだろうか。 せめてもの思いやりと言うヤツか。
助けてもくれない大人に、何か言われたとしても、高志は体を売ることをやめなかっただろう。
半年ほどそうやって過ごし、そのあいだにぼくの妹は、重症の消化不良で亡くなった。高志の妹は、もっと小さかったのに、死なずに冬を越した。
春になり、ようやく帰国できることになって。
最後に二人で売りに出たとき、高志はなかなか帰らなかった。 いつもより、長い。
ぼくは心配になり、例の小さな家まで行ってみた。
夕暮れが迫るころ、高志はようやく出てきた。
激しい労働だったらしい、力使い果たして、高志は家から出てきた。
本当に憔悴していた……ぼくの前ではけして見せない顔だった。 惨めに疲れ果てているのに、恐ろしく色っぽい顔だった。
木の影に隠れているぼくに気づかず、そのまま行きすぎて、死人の足取りでふらふらと歩いていく。
そのまま、川原のところまで来た。
高志はごつごつした石に腰を下ろして、何かを取り出して、じっと見ている。 きらっと光ったので、母親の形見の刀かもしれないと思った。 橋の上から、ぼくにのぞかれているのも気づかない。
万が一、その刃物を首にでも当てようものなら、ぼくは大声をあげなくてはならない。
でも、やつはそんなやわな男ではなかった。 しばらくしてやつは、手に持っていた刀をカバンの中に仕舞い込んだ。
そして立ちあがり、よほどしっかりした足取りで歩き始めた。 あれは、軍事教練で習った歩き方だったと思う。
収容所に戻ったぼくは、その夜、みだらな夢を見た。
高志の白い体を、あの中年の韓国人紳士がおしつぶし、ゆっくりとうごめいている。 高志は顔をそむけて、もう疲れきっているのに、中年男はいじめるのを止めない。
それを天井から見ていたはずなのに、いつのまにかすぐ近くに高志の顔があった。 ぼくは顔をそむけたままの高志を、存分に犯した。
帰国後も夢に見た。
思い出しては、みだらな遊びにふけるようになった。 女を抱くときも、高志を想像しないではいられなかった。
行為のあいだじゅう、そしてイこうというときも、ずっと高志のことを思っているものだから、しまいには女のほうが気づいて怒り出してしまう。 心がここにないのは、どんな鈍そうな女にもわかるものらしかった。
「古い古い話ですよ。 でも、まさか会社に知られたくないですよね。 弟さんや妹さんにばれるのもいやでしょ?……お兄さんはおまえたちに食わせるために、体まで売ったんだよって……ぶちまけてもいいんですが。 ぼくもそこまで悪人じゃない」
高志は、一口お茶を飲み、こう答えた。
「面白い作り話をするな。 三文小説でも書けばいいのに」
「作り話じゃないですよ、それは高志さんが一番よくご存知だ。 一緒に市場へ行ったでしょ? 克紀ですよ。 カツノリ。 カッちゃんですよ、忘れたんですか?
ねえ、……ほんとにこの顔、見覚えがないですか?」
ぼくは黒ぶちのめがねを外した。
高志はじっとぼくを見つめていたが、ようやく何か思い出したんだろう、脱力したような笑い声を立てた。
「何年たったと思うんだ。 見覚えがあるかって? 顔なんて変わっちまってるさ……眼鏡かけて、そんないかついおっさんになってるんだ、わかるものか」
それから、いくぶん投げやりに言い放った。
「で、いくら欲しい? ……言っとくが、金はないぞ。 妹を嫁に出したばかりだからな」
「………お金は、いりません」
高志が、わずかに体をこわばらせたのがわかった。
これだけでぼくの望みがわかる、さすがだ。
お金はいらない。 欲しいものはひとつ。
「お金のためには、危険は冒しません」
「……じゃあ、なにを……」
「わからないですか? ほんとにわかんないんですか? わかんないふりしてるだけなんですか、どっち?」
「………」
ぼくを見上げて、屈辱に顔をゆがませている高志の腕を、強くつかんだ。
「ほんの少し、おれのすることをがまんしてくれたらいいんです」
この日をどんなに夢見ていたことか。
眉をひそめて、高志は腕を引っ張り返す、渾身の力を込めて腕を引き、肩を掴んだ。
ワイシャツの下の肩は暖かくて、思ったよりも厚みがあった。
高志は顔をそむけて逃げようとする。 柔らかそうな唇に触れたかったが、この状況では無理のようだ。
ぼくは思いきり体重をかけて、高志を引きずり倒し馬乗りになった。 高志が背中で這って逃げようとしている。 ぼくはどこまでも追いすがり、再びすごんだ。
「すぐ済むって言ってるんです、大人しくしてくださいよ……」
意味もないことを口走り、しかも頭に血が上って、脱がせるのが間に合わない。
とうとう高志のワイシャツを、ボタンごと思いきり引き裂いてしまった。 ボタンはどこかへ飛んで行ってしまった。
「あとで絞め殺されてもかまいません!」
その言葉を聞いて、高志は暴れるのをやめた。
「今の言葉、忘れるな」
食いしばった歯のあいだからつぶやいて、高志はようやく体の力を抜いた。
あのとき高志を買った中年男は、ちょうど今のぼくくらいの歳だったか。
もちろん、すぐ終わらせるつもりなんかなかった。 こんなことは、二度とないかもしれないんだから。
ぼくは、本当にお人形みたいに動かなくなった高志の、黒いベルトを外し、ゆっくりと引き抜いた……。
高志、その参
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