野ばら 19 2003/6/29
夢も見ず、死神に食われることもなく、新しい朝がきた。 隣にはクージが眠っていて、襟元から銀色の認識票がこぼれていた。 手にとって見ると、彫り込まれている名前は「クージ」ではなく「マーカス」となっていた。
では、ぼくの新しい恋人はクージではないのか。 それともマーカスというのはミドルネームで、本当はクージ・マーカス・クンツというのが、認識票を彫るときに手違いで、ファーストネームが抜け落ちたのか? 頭の中はいろんな選択肢でいっぱいになったが、目を覚ました本人にあっさり打ち消された。
「マーカスと書いて、クージって読むんだ。 なんでかは知らないけどな」
洗面所の鏡を見ると、頭は包帯でぐるぐる巻きであり、顔も痣だらけで、唇は青黒く腫れあがっていた。 一方的にKOされたボクサーのようだ。 タオルに水をつけ、痛くないように指先で拭いたのだが、こびりついている血がまだタオルにも着いて来る。
このご面相で昨日はクージに迫ったわけだ、しかし鏡を見てから考えるんだった。 クージは逃げ腰だった。 ぼくの体が心配だったのだろうが、それ以上にぼくの顔が恐かったのに違いない。
「誤解したままのほうが幸せだったかもな」
そんな状態でも、白い包帯や、無傷な首から肩にかけて4711のオーデコロンを塗りたくり、オレンジやレモンや、ラベンダーの匂いをぷんぷんさせないと気がすまない。 長年の習慣というのは恐ろしいものだ。
朝食をすませてくつろいでいたときに、ドアを控えめに叩く音があった。
立って行ったクージに「おい、先生が来てくれた。 姉さんも一緒だ」と言われ、疑問を呈する間もなく村の医者と、「姉さん」にはさまれていた。
華やかな中年女性であるぼくの「姉」は、ぼくがじっと見ても平然として、
「びっくりしたわよ、アウチ。でも元気そうで安心したわ」と笑ったのだ。 活動的なパンツスーツを着て、髪は金髪に染めており、知的な広い額をしていた。 ヘイゼルの瞳は生き生きとして、笑いじわも魅力的だった。
医師はさっそくカバンを開け、クージと、ぼくの「姉」が見守る中、治療を開始した。姉だろうから平気だろうと思ったのか、ぼくを半裸に剥いてしまう。
「アウチ、お姉さんにあんまり心配かけるんじゃないぞ。」とぼくをたしなめながら、手際よく傷口を消毒してくれ、「しばらくここに居てやってくれますか? やっぱり身内がいるとアウチ君も心強いでしょうから…」とぼくの「姉」に言い、帰っていった。
枕元に座ったその女性を見て、「失礼ですが、どちらさんですか」と問わずにはいられなかった。 クージは驚いて、あやうく手に持ったコップを落としそうになった。
「大変だ、記憶喪失か? 脳梗塞でも起こしたか。 先生まだ近くにいるかな。 ちょっと呼んでくる!」
「いや、違うんだ。 本当に、ぼくに姉はいない。 弟がいるだけなんだ。 本当に誰なんです、あなたは?」
すると彼女は、「相変わらず退屈な香水つけてるのね、アウチ…ベイビー。」と言って、バッグから黒ぶちの眼鏡を出して、額に髪を下ろして見せた。
ぼくの子供を堕ろした、昔のガールフレンドがそこにいた。
ショックでしばらく声もでなかった。 しばらくしてやっとぼくは、彼女の名を思い出した。
「アンナマリア。」
それからからからの喉で、いいわけをした。
「あんまりきれいになってるものだから……わからなかった。 金髪にしたんだね。似合うよ。」
「あなたと別れる前は地味で暗かったから、わからないのも無理もないわね。」
クージは雰囲気に耐えられぬというように立ち上がり、「積もる話もあるだろうから、おれは失礼する」と逃げていこうとした。
「ここにいてくれ、クージ。 彼女は昔付き合ってた人で…すごく、傷つけてしまった人なんだ。ぼくの罪なんだ。」
アンナマリアは静かに否定した。
「付き合ってたけど、あなたに傷つけられたことはないわよ」
「だって…ぼくの…子供を! あなたはひとりで中絶手術を受けたって…」
「ああ、あれはね。嘘よ。 ああいうと、結婚してくれるか、でなければ後腐れなく別れてくれるかと思ったのよね。」
さらっと言われて、あごが外れるほど驚いた。
「やあねえ、ほんとに妊娠してたんなら手術代プラス慰謝料くらい、出してもらってるわよ。 それより最近、いきなり生理があがりそうで大変なの。 まだ40ちょいで、子供も作ってないのに、これはショックだわよ。 まあダンナは私がいれば子供なんていらないって言ってるけど」
ぼくは頭を抱え込んだ。 懐妊は嘘だった、堕胎手術も。 しかも10才も年上の人を、同年輩だと思って付き合っていたとは、目が節穴もいいところだ。 今まで寝たうちでずっと年上でなかったのは、アンナマリアだけだったのに…。 彼女もまさか10歳も上だったとは。
混乱しているぼくを見かねたか、クージは、
「見ての通り、アウチは具合が悪いんです。話があるなら、日を置いて来てくれませんか」
と少し尖った声で言った。 アンナマリアはそれには答えず、
「ねえアウチ、昔のよしみで取材に応じてくれない? 部下が昨日、村の人に袋叩きにあったんだけど、あれから報道陣はこの村に入れないのね。しかたなく私が来たわけなの。」
それを聞いたクージは、イスを蹴って立ち上がった。
「取材って、あんた、記者か!」
「まあそういうものかしらね。 主にゴシップだけど一応新聞記者…」
「怪我をしたくなかったら、出て行け!」
手には、缶切りとかコルク抜きとか、小さなハサミとか、その他いろいろ便利な機能のついた、愛用のナイフが握られていた。しかし、女性に手荒なことなどできるはずもなく、栓抜きを構えたクージの態度は、まったく迫力というものを欠いていた。
「よさないか、クージ。…アンナマリア、何でも聞いてください。 わかることはいいますから。」
ぷんぷん腹を立てているクージの横で、長時間取材に答えた。
そして、記事にする前に原稿を送ってもらう約束をして、彼女を送り出した。
アンナマリアが出て行った後、クージは気の毒そうにつぶやいた。
「もしかして…お前は遊ばれていたのか?」
ぼくはしみじみ慨嘆した。
「そんな気がしてきた。 ぼくは今まで、いろんなおばさんに転がされてきただけなんだ。 もててたんじゃなくてね。 下手で満足させられないからわりと早く捨てられてきたわけだ、もちろんぼくのほうが。………そういうわけで、なんだか疲れたから、少し横になるよ。」
「おれも思い切り疲れちまった。 手間のかかるやつのおかげで、昨日からいろいろありすぎだ。 今日はぐうたら過ごすことにする。」
ぼくは冗談めかして誘ってみた。しょうこりもなく…。
「じゃあ一緒に寝るか?」
「そうさせてもらう。」
クージははじめにぼくの心の中に入ってきたとき同様、無遠慮にベッドに入ってきて、しかもぼくの上に乗り、軽く体重を預けてきた。
「しばらくこうしてていいか? 何にもしないから…。 お前が元気になるまでは何もしないから。」
「汗臭いのはやだ。」
意地悪なフェイントだったが、「そんなことを言うなら、もっと嗅がせてやろう」と言いながら、自分のわきの下から分泌されるフェロモンとやらを、ぼくの鼻にこすりつける。
「うっ、臭い」
いやがるふりをしながらうっとりして、クージの匂いを愉しんでいた。 自分の体臭は耐えられなくても、クージの匂いは脳髄を痺れさせる芳香だった。少なくともぼくにとってはそうだった。
数日後、彼女アンナマリアは記事を送ってきてくれた。
ゴシップ誌にしては控えめな内容だったが、昔のぼくらの友情(というか交情)に免じてということだろう。 包帯姿も痛々しいぼくと、それをかばうようによりそうクージの写真が添えてあって、「国境を越えた友情」だの「寡黙な若い兵士の(これはクージのことだ)乏しい武器を駆使した、特殊部隊顔負けの活躍」が印象に残る内容で、全体的に美談という印象だったのでほっとした。 ありがたいことに「肛門にボトルを突っ込まれ」事件のことは割愛してくれていた。
だから、アンナマリアには悪意などはなかったと信じている。 取材に応じてしまった、ぼくが悪かったのだ。
その新聞がぼくの国だけではなく、クージの国まで国境を越えて配達されていたことは、そのことが起きるまで知らなかった。 そしてクージの国が、海の向こうにある、最後の植民地を守ろうと汲々としていたことも知らなかった。
ある日クージは、長かった髪をクルーカットにして、ヒゲもすっかり剃り落とし、ぼくのところにやってきた。
しばらぼくを見つめ、「お別れを言いにきた。」と妙に事務的な声で言ったのだった。
野ばら20
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