幕末 BL 夏影

夏草を踏み歩き

夢の跡に思いを馳せて
 

 

 
多摩川は朝陽を受けて、キラキラとまぶしく輝いていた。

市村鉄之助は、自分と連れ立って歩く長身の土方為次郎を見上げて、切なそうに目を細めた。

大好きだった新撰組副長――土方歳三の実兄。やはり、どこか面差しが似ている。

(もう二度と、こうして副長と歩くことはできないけれど……)

鉄之助はこみ上げてきた悲しみを、慌てて頭を振ってやり過ごすと、辛そうに眉を寄せてため息を吐いた。

(副長……)

どんなに名を呼んでも、もう彼はいない。

(……副長)

だが、彼の思いは確かにここ日野に息づいている。

 

深呼吸をすると、少し晴れやかな気持ちになった。

やっと、心が開放された気がした。

『賊徒』未だその汚名を晴らすことはできないけれど……。

 

土方から命じられた最後の任を、今やっと本当の意味で終えることができたような気がした。

鉄之助は、隣から聞こえてくる自分と同じ歩調の足音を聞いて、クスリと柔らかく微笑んだ。

(今まで――本当にお世話になりました)

最後にもう一度だけ心の中で呟き、為次郎の大きな手を見る。

何度この手に頭を撫でられ、慰められただろう。

深い悲しみに沈み、自分で這い上がる事ができない時、何度もすくい上げられた為次郎の温かな掌。

(きっと、副長も……子供の頃は、いつもこうして頭を撫でられていたんだろうな)

そう思うと、一層切なくて――くすぐったくなって、最後は安心して笑みを浮かべることができた。

 

じゃり。

 

為次郎の草履が夏草を踏み潰し、濃い草の匂いが鼻に届いた。

道の脇の椎の林の中では、蝉が狂わんばかりに鳴いている。

 

今、鉄之助は為次郎と並んで、甲州街道に続く道を歩いていた。

元新撰組の者だとばれないよう、歳三が幼い頃着ていたのだという着物を借りて、百姓の倅の変装をして。

鉄之助は、日野の風景を目に焼き付けるようにじいと見つめると、今度はゆっくりと目を伏せて隣を歩く土方為次郎を見た。

上品な絹の着物を纏ったその人は、誰よりも肝が据わっている、歳三が笑ってそう評したように気丈な、それでいて穏やかな人だった。

(土方副長……)

伏せられた長い睫。すと通った鼻筋。

為次郎の中に歳三の面影を見つけ、胸がざわざわと波打つ。

(ダメだ、ダメだ!)

折角覚悟を決めて出てきたのに。未練がましいまねをするなんて!

鉄之助は、思いを吹っ切るように頭を振ると、目を眇めて遠くに見える山を眺めた。

 

今日自分はここを去る。

別れ難くてずるずるとこの地に逗留してしまったが。もう、去らなければならない。

やっと副長を亡くした悲しみにも、向き合うことができるようになった。

(いつまでも落ち込んでいたら、副長に笑われてしまうから……)

これからは前を向いて生きていかなければならない。

 

暑さと爽やかさを含んだ日野の風が、髪を揺らし通り抜けていった。

鉄之助は足を止めると、為次郎に向き直り万感の思いを込めて頭を下げると、気配でそれを察したのだろう。為次郎は厳しい面に慈愛に満ちた笑みを浮かべ、大きく頷いた。

 
xxx
 

市村鉄之助は利発な少年だった。

負けん気が強く純粋で、自分の信じたことは何が何でも貫く強さがあった。

まだ若く剣の腕が未熟でありながらも、土方が市村を小姓に取り立てたのは、彼のその性質をかったからである。

 

鉄之助は、土方歳三の小姓であった。

涼しい目元に小麦色の肌。

少し生意気そうな顔に似合わず、礼儀のしっかりした少年――。

そんな鉄之助が顔を不安に歪め、歳三の従兄である佐藤 彦五郎の家の戸口を叩いたのは、明治二年の七月のことであった。

 

慶応三年、徳川慶喜が大政奉還を行った。

北へ北へと戦地を移した土方らともに、鉄之助は蝦夷地にいたが、最後を悟った土方に諭され、彼の遺品を持って単身武州に来たのである。

彼が新撰組に在籍したのは二年でしかなかったが、時間など関係がないというように、この16歳の少年は歳三に傾倒していた。

 

鉄之助が入隊してから色々あった。

試衛館からの仲間を幾人もなくし、鳥羽伏見の戦いでは薩長連合に敗北し、局長は斬首された。

それでも――

土方は副長であったからだろう。

悲しみも苦しみも全て押し隠し、隊士達の不安を払拭するように力強く剣を振るい続けていた。

その激情に憧れ、彼こそが誠の武士だと、多感な少年はひたむきな想いを向けていたが……。

 

ふとした時に見てしまったのだ。

土方は誰もいないと思っていたかもしれないが。自分は誰よりも近くにいる小姓だったから……。

 

×××××

 

あれは月のない晩のことだった。

新撰組は分裂し、土方は生き残った隊士達と共に仙台にいた。

身を切るような寒さの中――庭を眺めているのか、土方は一人縁側に腕を組んで佇んでいた。

いくら羽織を羽織っているとはいえ、風邪を引いてしまう。そう危惧した鉄之助は上着を手に歳三の下へと歩きかけ、ハッと足を止めた。

 

(副長……)

 

一瞬、泣いているのかと思った。

それほどまでに悲しい風だった。

手の届かない所へ行ってしまった仲間たちを追悼しているのだろうか?

それとも、別れた仲間たちを思っているのか。ひたむきな眼差しで、ただ一心に空を睨みつけている。

その横顔は胸が痛くなるほどの壮絶な美しさと儚さを秘めていて、市村は息を詰めるときゅっと胸元を握り緊めた。

恐らくそれが――憧れが違う形に変化した瞬間だった。

それ以降は、どんなに戦いに明け暮れようとも、土方は一度も憂いを覗かせることなく、市村もあえて触れることもできず、一日一日が慌しく積み重なり、消えていった。

土方が悲しみに沈む姿を見るのは、あれが最初で最後だったから――

幻だったのではないか、自分は夢を見ていたのではないか。

何度、自問自答したかわからない。

 

それからも土方は新たな戦場を求め、北上を続け――

ついに函館で鉄之助は最後の小姓の務めと、遺品を持っての脱出を命じられた。

最後まで共をするつもりだった。

一人だけ戦場を離れるなど、できようもなかった。

しかし! どんなに声をからして懇願しても聞き入れてもらえなかった。

土方の凪いだ瞳に宿る強固な意思を目にしたとき、ついに市村は畳に頭をつけたまま涙をこぼして諦めた。

(自分が生きることが、この人の最後の望みなら……)

それを――叶えよう。

(どれだけそれが辛くても……副長の願いを叶えよう……)

市村は遺品を手に取ると、振り切るように駆け出した。

これ以上ここにいると、みっともなくすがり付いてしまいそうだった。

年下だということを武器に、連れて行ってくれと泣き喚いてしまいそうだった。

だけど、土方はそれを望んではいない。

好きな人の前で、無様な姿をさらしたくは、ない……。

どれほど年下のこの身を恨んだかわからない。

どれほど悔しかったか! それを表す言葉を知らない。

崩れそうになる足を必死の思いで動かし、敵の目を避け南下を続け――

 

三ヵ月後、ようやく武州へ入ることができた。

ボロボロになった体を引きずりながら、突然遺品を持って訪れた自分を、歳三の義兄、佐藤彦五郎は驚きながらも受け入れてくれた。

土方の死を責めるどころか、感謝までして労をねぎらってくれた。

 

そして、歳三の実の兄に会った時――

心の震えをとめることができなかった。

鉄之助はハッと目を見開き、震える唇もそのままに、信じられない思いで為次郎を凝視した。

その時の感情を何と言えばいいのかわからなかった。

歳三に似た面影をその中に見つけ、初めて会ったにもかかわらず、いいようのない懐かしさに襲われ、――しかしやはり歳三とは違うことに、苦しくなった。

切なくて、嬉しくて泣きたくて、色々な感情が複雑にからまり、胸がいっぱいになった。

(副長……)

生前何度か、歳の離れたこの長兄の話は聞いていた。

 

年は六十ほどだろうか?

白くなった髪は結われることなく背に垂らされ、香の焚き染められた着物を着ている。

老いというものは感じなかった。

確かに肉体は年をとっているかもしれない。しかし老いを超越した何か――悟りを開いた高僧のような、現実離れした美しい人だった。

 

為次郎は自分の孫ほどの鉄之助に、深々と両手をついて頭を下げると、恭しい手つきで歳三の遺髪にそっと手を伸ばした。

「あ――」

その顔が、いつかの歳三の顔と重なる。

泣くことを堪えているのではない。

涙を流すことを許さない気丈さで、目は――為次郎は目は見えなかったが――大切な人を見つめるように柔らかく切なく、凛とした光を湛え一心に瞠られている。

引き結ばれた口元に浮かぶのは、僅かな自嘲と後悔の念。

何を言わずとも、その仕草が、まとう雰囲気が愛おしい、愛おしいといって憚らなかった。

(副長は亡くなってしまわれたのに……)

市村はくしゃりと顔を歪めると、声も泣くボロボロと涙をこぼした。

(ごめんなさい……)

自分は死ねなかった。

(ごめんなさい……!)

大切な人を死なせてしまった。守れなかった!

ああ、このまま狂死してしまいそうだ!

自分ひとりがこうしておめおめと生きながらえ! 安全なところで――許されようとしている。

誰が自分を許そうとも、自分で自分を許すことはできなかった!

胸の中を感情の嵐が吹きすさび、荒れ狂っていた。

頭にカァッと血が上り、視界がぐらぐらと揺れた。

だが――声を出して泣くことはできなかった。

目の前の人は泣いていないのだから。

それを自分が泣いて、彼の追悼を、彼の思い出を壊すことはできなかった。

鉄之助はきつく唇を巻き込むように吸い込んで、歯を立てた。

必死に嗚咽を飲み込み、決壊したように溢れる涙を鼻水を流したまま、泣き続けた。

しめやかな空気を敏感に察したのだろう。為次郎は低い重みのある声で鉄之助を包み込んだ。

 

「――ありがとう」

万感の思いの込められた温かな言葉に、今度こそ鉄之助は嗚咽を堪えることはできなかった。

 

 

×××××

 

 

あれから二年の月日がたった。

(よっぽど副長はみんなに大事にされて育ったんだなぁ……)

鉄之助にそう思わせるほど、土方の家族は皆暖かかった。

見ず知らずの自分を、まるで親戚のように親身になって世話してくれた。

亡くなった歳三の代わりに大事にされたのではない。歳三が認めた一人の男として、自分に接してくれた。

大好きな副長を亡くし、罪悪感と悲しみに心身ともに消耗しきっていた鉄之助は、歳三の家族に救われ――今こうして自分の足で立つことができるようになった。

(暖かくて強くて、優しい人たち――)

今ならなぜ、土方が自分を故郷に返さずに、遺品を持たせ日野に送ったのかわかるような気がした。

辛いのは皆同じだろうに。

鉄之助が悲しみに背を丸めていると、彦五郎の妻――歳三の実の姉である――のぶは、

「しゃんと背を伸ばしなさい!」

明るく笑って、力強く背を叩いてくれた。

辛くて、寂しくて何もする気が起こらない時は、それを察した彦五郎に有無を言わさず道場に引き込まれ、剣の相手をさせられた。

どれもこれも、殺伐としていた今までの生活とはあまりに違いすぎて――

比較する方が失礼だとは思いながらも、新撰組時代の鮮烈な日々は鉄之助に強烈な影響を与えていたから、比較することを止めることはできなかった。

血なまぐさくとも、結ばれた同志との強い絆――それが何よりも大切だった日々。

それが今は、温たく包まれる無償の好意に取って代わり、鉄之助は幾度も涙を流した。

感謝してもしきれない。

礼を述べると、歳三の家族は皆口を揃えて、それはお互い様だと明るく笑うのだ。

狂いそうなほどの悲しみに沈んでいる鉄之助を見て、どうにかしなければならないと使命感が先立ち、自分たちの悲しみは後回しになっていたから。

優しい人々は笑う。

 

 

×××××

 

 

 

鉄之助は、じぃと為次郎を見つめると、心の中で深々と礼を言った。

空は明るく澄み渡り、大きな雲が二つ三つ浮かんでいる。

名残惜しいけれど……そろそろ去らなければ。昼が近づけば近づくほど、暑さは厳しくなるだろう。

鉄之助は笠を被ると、大きく息を吸った。

涼しげな音を立てまわる水車。

草の匂いの立ちこめる、小道。

きっと自分が去った後も、ここの人々は代わらぬ穏やかな生活を続けていくのだろう。

 

(どうか……いつまでもお幸せに……)

祈りを込めた目でぐるりと辺りを見回すと、鉄之助は為次郎に別れの言葉を述べ草いきれのムッとする道に足を進めた。

 

鉄之助が振り返ることはもうなかった。

為次郎は遠ざかっていく軽快な足音を聞いて、ふと口元を綻ばせた。

(歳三……)

自分の愛した弟はもういない。

為次郎は腕を組むと、山鳩の声に空を仰ぎ、ゆっくりと踵を返した。

 

 


夏草を踏み歩き夢の跡に思いを馳せて



もっと悲しみに沈むと思っていたが。

心は酷く穏やかだった。

為次郎は目を開けると、もうそこに感じることのできない幼い歳三の幻を探し、くしゃりと顔を歪めた。

 

2010.7.21

 




お題はこちらからお借りしました。