大野さんのところに預けられて、1年が経った。
家族と離れて寂しいけど、それなりに元気にやっている。
私はやっと6歳だ。
私の記憶が確かならば、試衛館へ行くには、あと3年待たなければならない。
もし、私が本当にあの沖田総司だったらだけど……
私は洗濯物のシワを、パンと叩いて伸ばすと、腰を叩いて空を見上げた。
うーん。今日もいい天気だ。
花冷えって言って、桜が咲く頃は寒くなるから、冬が戻ってきたみたいに寒い日が続いていたけど。
今日はぽかぽか暖かい。
半分ほどつぼみが膨らんできた桜も、今日の陽気で満開になるんじゃないかな?
私は、お堀沿いに植えられた桜の木を思って、目を細めた。
(のどかだなぁ〜……)
これだから、春って好きだ。
空の端には、霞がたなびきなんだかぼんやりとしているし。
そよ風は、かすかに桜の香りを含み、綺麗に刈られた垣根をそよと揺らしている。
私は、まだまだ囀《さえず》るのが下手なウグイスのぐぜり鳴きを聞いて、フと笑った。
大野さんの家には、私と大野さん夫妻の他に、大工見習いの五平さんが住んでいた。
親方は男の子に恵まれなかったらしく、子供は娘さんばかりで、今はみんなそれぞれ行儀見習いに出ていて家にはいない。
その内大工仲間の誰かと結婚をさせて、養子を貰うのかもしれない。
そんな話もちらほら小耳に挟んだけど、今はまだ彼女たちは奉公から帰ってきておらず、私と五平さんはのんびりと家事を手伝いながら過ごしていた。
ああ、いけない。
つい意識が飛んでいた。
あんまりぼーっとしていると、怒られてしまう。
五平さんは普段は優しいけど、与えられた仕事には厳しい姿勢で望む職人気質の人だからね。
私は、慌てて洗濯籠を拾い上げ耳を済ませた。
彼は今玄関の掃除をしているんだろう。
竹箒で掃く小気味良い音が聞こえてくる。
私はそろり足音を忍ばせ垣根に近寄ると、葉っぱの隙間から五平さんを覗いた。
五平さんは、私の面倒を見てくれる14歳の優しいお兄さんだ。
おっとりしていて、ちょっとだけボーっとしているから、大野さん(親方って呼べって言われてるから、これからそう呼ぶね)によく怒られてしゅんとしている。
やる気は人一倍あるのにね!
不器用で上手くできないんだ。
それがなんだか林太郎さんを思い出させて、私は他人とは思えなかった。
いつも笑っているような、五平さんの細い目。ふにゃりとした眉。
体つきはまだ少年のそれだけど、力仕事をしているからだろう。
腕や足には、それなりに筋肉がついている。
私はこの優しい五平さんが大好きだった。
ううん。五平さんだけじゃない。
親方も、剛毅な大工連中もみんな大好きだ。
玄関の方からは、五平さんが柄杓で水をまく音が聞こえてくる。
それと同時に、ぷんと泥水の香りが漂ってきて、私はのんびりと息をついた。
×××
今日は、みんな朝からバタバタしていた。
親方は随分焦っているんだろう。
イライラをぶつけるように、早口で奥さんを呼びつけ、見慣れない派手な着物を持って走り回っている。
(……何かあるのかな?)
親方も五平さんも、起きてすぐにご飯をかきこむようにして食べ、銭湯に行って――今は髪結い屋さんに髪を結ってもらっている。
(お祝い事でもあるのかな……)
忙しいけどウキウキとするような、そんな雰囲気が家中に漂っている。
気にはなるけど、忙しそうな皆を呼び止めて、
「何があるの?」
なんて聞けなくて、私は彼らを横目で見ながら食器を洗っていた。
しばらくして、家の中がシンとした。
みんな――出かけたのかな?
私は家で留守番していればいいのかな?
親方も大工さんたちも、私の存在忘れてるよね?
ちょっと寂しい。
確かに私は大工じゃないし、親方が私を預かってくれているのも、行儀見習いって名目だしね。
仕方ないのかもしれないけど、ちょっと寂しいよ。
今まであわただしかった分、いつもよりもシンと家の中が沈んで見える。
私はちょっとふてくされて、乱暴にお皿を食器棚に放り込むと、音を立てて扉を閉めたんだけど――
「宗次郎」
「ひゃ!?」
ご、五平さんがいた!
やばい! 怒られる?
首をすくめてびくびく五平さんの様子を伺う。
五平さんはそんな私に気付いているんだろう。苦笑すると、膝を付いて私の視線に合わせて顔を覗き込んだ。
五平さんは大工見習いなのに、今日は紋付袴なんか着ている。
髪もきれいに結いなおしたからだろう。
いつもより、大人っぽく見える。
五平さんは、豆だらけの手をあたしの頭にポンとのせると、珍しく、ちょっとだけ興奮するように弾んだ声で言った。
「宗次郎。今日は、棟梁送りがあるんだ。後でお前も見にくるといいよ」
「棟梁送り?」
なんだろう。それ。
キョトンと小首をかしげる私に、目元をやさしく和らげる。
「うん。棟梁送りって言うのはね、上棟式をして――
ええと……つまり、新しい家が建ったお祝いにね、建て主が引き出物とお祝いのお酒を出してくれてね。
みんなが綺麗に着飾って親方を家まで送る行事だよ」
「ふーん?」
うーん。何だかピンとこない。
五平さんが言うには、親方たちが綺麗な飾りや大工道具を持って、歌いながら街を華々しく行列して練り歩くらしい。
この日ばかりは、大工の皆も裃を着て烏帽子を被って、刀まで一本差すことが許されている。
火事が多い江戸の町では、大工はかなりの権力があったからね!
一目置かれる、憧れの職業の一つだったんだ。
行列は棟梁を家まで送るものだから、最後はこの家に帰ってくる。
行列を見学するのはいいけど、みんなが帰ってくるまでには家に戻って、玄関で待ってなくちゃいけないよ。
五平さんはそういい残して、バタバタと家を出て行った。
なんと! 家まで来るのか!
みんな綺麗な格好をしていたし……出迎える私も、やっぱこぎれいな格好をしていなくちゃダメ?
みつ姉さんが拵えてくれた、お正月用の正装があるけど……。
あれ、着ようかな……。
私はいそいそと袴に着替えると、大通りへ飛び出した――!
×××
大通りにはたくさんの人垣ができていた。
遠くから笛の音と、三味線の音が聞こえてくる。
それに合わせて、低い唸るような民謡……? 詩吟のような歌が聞こえてくる。
飛脚も、買い物客も足を止めて遠慮がちに人垣に加わるから――どんどん人垣は大きくなって、通りに並ぶ店の前にずらりと並んでいる。
「棟梁送りだ」
誰かが言うのが聞こえた。
「高橋のみつ豆やがあっただろぃ? あの近所に、新しい家が建ったらしい」
「にぎやかな行列だねぇ。これだとずいぶん立派な家が建ったことだろうねぇ」
囁きあう人々の声に、何だか誇らしくなってくる。
馬に乗っているお侍も、好奇心をくすぐられるように後を振り返り振り返り、ぽくぽくと馬を歩かせ、与力たちも十手で肩を叩きながら、のんびりと行列が来るのを待っている。
ワクワクしてきた。
いつもと同じ町並みなのに、お囃子が聞こえてくるだけでこんなにも違って見えるんだ。
私は期待に胸を高まらせながら、一目行列を見ようと背伸びをした。
その時――
「あれ?」
人波にもみくちゃにされ、押しつぶされそうになっている子供を見つけた。
私と同じ、6歳くらいの子供だ。
大人たちは小さな侵入者に気付いていないらしい。
見ていてすごく危なっかしい。
このままだと怪我をしてしまうかもしれない。
私は慌ててその子に走り寄った!
「ねぇ、ここにいたら危ないよ! 向こうで私と一緒に見ようよ」
急に話しかけられ、ビクリと男の子が肩を揺らし、恐る恐るといったようすで私を振り返る。
きっといいところのお坊ちゃんなんだろう。
一目で庶民のそれとは違うとわかる、質のいい着物を着ている。
たぶん、この子武士の子だ。
小さな袴をはいて羽織をはおって……まるで七五三みたいで見ていて微笑ましい。
(って私も、大人から見たらそう見えるのかもしれないけど!)
上品で清楚、という女の子の形容詞がぴったりな優しいふんわりとした顔立ち。
大きなくりくりした目に涙をいっぱいに貯めて見つめてくるさまは、もう犯罪と言っていいほど可愛らしい!
美幼女!
袴をはいた美幼女がここにいるよ!
私はテンション高く心の中で叫んだ!
美幼女――もちろんそれは男の子なんだろうけど――は、ふるり瞬きをすればこぼれそうな涙を慌てて袖でぬぐうと、恥ずかしそうにちょんと首をかしげてはにかんで笑う。
「うん。いっしょに、みる!」
あどけない舌ったらずな声!
ああ! もう思い切り抱きしめて、撫で回したい!
もちろん、そんなこと表情に出そうものなら怯えられちゃうからね!
私はにっこりと安心させるような笑みを浮かべて、その子に手を差し出した。
「私の名前は沖田宗次郎。
今から来る親方の家に住んでいるんだ。
ここだと危ないし、良く見えないから家の前で待っていようよ」
「ん」
男の子が頷いて手を取る。
きゅと握られた子供体温のそれに、きゅんきゅんしているのはここだけの内緒だ。
男の子は手を握って安心したのか、まんまるの目をくりくりさせて私を覗き込んできた。
「ぼくの なまえは 八郎。しんぎょーりゅー、そーけ、錬武館のいば はちろうだよ」
……何ですと?
私の笑顔がびしりと固まった。
心形流宗家、伊庭八郎……?
って、イバハチかよ!?
あわわわ!
内心大慌てで、私はちんまい八郎さんを見た。
今度は表情をうまく取り繕えていなかったらしい。
私の顔を見てびくり、八郎さん――八郎くん? が怯える。
し、しまった!
私はひきつる顔にせいいっぱいの笑顔を浮かべると、八郎くんの手を引いて家まで帰った。
道中、ものすごーく緊張して心臓がバクバクして、苦しくなったけど――八郎くんはそんなこと知らず、のんきにトコトコついてくる。
か、かわいい……!
わ、私! 絶対この子と友達になる!
この子の傍で成長を見届ける!!
私は熱い使命に胸を燃やした。
八郎くんは大きくなってきた木遣り歌を聴いて、嬉しそうにそわそわしている。
わぁ――!
大通りから歓声が聞こえた!
すぐそこまで来ているんだろう。
三味線、笛の音――男たちの歌う声がはっきりと聞こえてくる!
まるで、お祭りみたいだ!
私の心も、しらず踊った。
一番初めに目に飛び込んできたのは、大きな長い柱!
綺麗に飾り付けられたそれは、いっちばん上に日の丸の扇子を丸くなるよう三つ繋ぎ合わせ、しめなわについている半紙で作った飾り――紙垂《しで》をつけている。
その下で風にたなびくのは、長い五色の吹流し――!
重たそうなそれを担いで、裃烏帽子姿の親方が、誇らしそうに胸を張って歩いてくる。
次に来るのは、柱よりも幾分か小さな――それでも、通常のものとは比べ物にならないくらい巨大な――矢の飾り!
その後ろからは、『大野組』とかかれたちょうちんを持った男たち、扇子で上品に口元を隠しながら唸るように歌う男たち、鳴り物が続いている。
みんなお酒をしこたま飲んだんだろう。
赤い顔をして上機嫌に、気持ち良さそうな顔をして歌っている。
うわぁ!
これが棟梁送り!?
すぐそこで聞こえてくるお囃子が、どんどんお腹に響いて心を浮き立たせる。
江戸の町は派手だからね。
いつもどこかで、何かの催し物が開かれている。
棟梁送りもその一つだろう!
胸を張って威風堂々と歩いてくる親方たちを見ていると、なんだか私まで誇らしくなってくる!
隣はと見れば、八郎くんが顔をきらきらさせて、はちきれんばかりの笑みを浮かべている。
おおおう!
きゅんときた!
今きゅうんときたよ!
あまりの可愛らしさに、思わずぽっと赤くなり、口元がしまりなくなる。
それを見て、私が友達に自慢できて嬉しがっている、とでも思ったのか、親方はガハガハ笑って、私の頭をぐしゃぐしゃ撫でてくれた。
ついでに、羨ましそうな顔をした八郎くんの頭もね!
高いところで鳶が旋回しながら鳴いている。
麗らかな昼下がり――
「お帰りなさい」
私が言うと、親方は日に焼けた顔をくしゃくしゃにして
「おう! てでぇま!」
巻き舌気味の声でにっこり返してくれた。
わいわい騒々しくさわぎながら、みんなも口々に私にただいまを返してくれる。
実家にいた時、いつも一人でいたから――
「ただいま」がじんと心に染みて、私は涙がにじみそうになって、慌てて俯いた。
きゅ。
手が握られる。
八郎くんが私を見て、にっこり無邪気な笑みを浮かべている。
きっと慰めてくれているんだ。
こんな小さな子に心配かけさせちゃだめだよね。
私は目元をぬぐってはにかんで笑うと、八郎くんの手を引っ張った。
「私たちも中に入ろう」
「うん!」
2010.12.2