それでも地球は回っている。
誰が言った言葉だったっけ?
どんなに悲しいことがあっても、死ぬほど苦しいことがあっても。
そ知らぬ顔で、地球はいつもの営みを続ける。
だって、どんなに私たちが苦しんでいても、世界の人口からみたら、微々たる物なんだもの。
毎日日は昇り、一日の時間は長くなることも短くなることもなく。
同じ一日が繰り返されるだけ。
ただ、そこに父さんと母さんがいないというだけで。
父さんと母さんが死んで、お葬式にお金を使ってしまったから。
我が家は行灯の油を買うお金もなく、夜が来たら真っ暗な中、身を寄せ合って眠るという日々が続いていた。
当然食べるものもあまりなくて、姉さんたちは自分が食べる量を減らしては、私に食べさせてくれていた。
自分たちだって食べたい盛りだろうに……。
遠慮して私が食べないと、辛そうな顔をして泣きそうに顔を歪めるんだ。
どうしたら食べてくれるの?
どうして食べてくれないの? って。
きっと二人が今生きているのは、大げさでもなんでもなく、私がいるからなんだと思う。
私を育てることを生きる活力にして、悲しみをやり過ごしていたんだと思う。
皮肉だよね。
私だって守りたいのに。守られることしかできない、なんてさ。
だから私は、精一杯の明るい顔で。姉さんたちの名を呼んでは笑いかけた。
そうするとね、少しずつ。少しずつ姉さんたちの顔からこわばりが取れて、柔らかくなっていくんだ。
それを見ると私もほっとして。だからますます、にっこりと満面の笑みを彼女たちに向ける。
そんなことをしているとね、いつの間にかまた私たちの間に笑顔が戻ってきたんだ。
私たちは、たった三人の姉弟。
もう誰もなくしたくない。
幸せになりたいんだ。
そんな中――みつ姉さんの輿入れが決まった。
沖田家を継いでくれた、井上林太郎さんの親戚である、井上宗蔵さんの弟 『井上林太郎』さん が婿養子になり、沖田家を継いでくれることになったんだ。
何か変な感じだ。
武家株を買って、家を継いでくれた林太郎さんと同じ名前、同じ苗字の林太郎さんが継いでくれるようになったのは。
こんな言い方をするのは何だけど……
なんだか、沖田家がどんどん侵食されていくような気がする。
私が幼いせいで、沖田家が実質井上家になってしまったような気がする。
姉たちを守りたいのに。
姉は姉で幼い私を守ることに必死になっていて……
みつ姉さんは一もにもなく、縁談を快諾したそうだ。
そんなのってない!
みつ姉さんは、どんなにしっかりしてるって言っても、まだたったの13歳なんだよ?
平成時代の記憶を持つ私には、姉がまだ子供にしか見えない。
そんな姉が、6つ年上の19歳の郷士と結婚をするっていうんだ。
「どんな人かは知らないけど。井上林太郎さんは、八王子千人同心のお家柄で、一応武士になるのよ」
誇らしげに姉がそう言ったとき、体中の力がどっと抜ける気がした。
なんだかやるせなくなって、ぼんやりと姉の顔を見上げた。
(きん姉さんの、スゴイ、スゴイとはしゃいだ明るい声が、遠くの方で聞こえたけど)
姉さん。
あなたも……あなたまでもが、やっぱり武士の身分にこだわるんだね。
どんな人かは知らない?
それで、本当にいいの?
もしその人がとんでもない悪人だったらどうするの?
姉さんたちを売ってしまうような男だったらどうするの?!
もっと考えて行動しなさい!
OL時代の私なら、そう言えたんだろうけど……。
「けっこん、だめ!」
活舌の悪い今の私には、それだけ言うのが精一杯だった。
どうしてダメなのか、なんて説明なんかできない。
(そんな長い言葉喋れない!)
姉さんたちは、家に知らない人が入ってくるのを嫌がっているんだと思ったのか、必死に私を宥めてくる。
嬉しそうな顔で、ごめんねなんて謝まられても説得力ないよ。
本当に――本当にそれでいいのかな……?
たまらなく不安になってくる。
思い出せ。私!
昔読んだ本には、どう書いてあった?
みつさんは、幸せな一生を送った?
――わからない……!
総ちゃんのことは、よく読んだけど……。
その家族のことまでもはよく知らないことに気づいて、私は愕然とした。
どうしよう!
こんな賭けみたいな結婚!
止めなきゃ!
焦る私を置き去りにして、縁談はとんとん拍子に進んでいく。
そうして、ついにやってきた井上林太郎さんを見て、私はむぅっと口を尖らせた。
何だか、頼りないっ!
ひょろひょろとしてて、武よりも文を好む感じだ。
人はよさそうだけど、気が弱そう。
子供は好きそうだけど、扱い方を知らない。
私にはそういう風に見えた。
ただ――婿養子に来た林太郎さんは、武士株を買った林太郎さんとは違って、実直で真面目そうな人だったのが救いだけど……。
身分でしか結婚相手を選べなかった姉さんが、たまらなく可愛そうだった。
武士という身分は、不自由だ。
大好きな姉には、好きな人と結ばれて欲しかったのに。
初恋さえする暇もなく忙しく働いていた姉は、たった13歳で私たちを守るために結婚を選択したんだ。
「みつ姉さん」
羨望を込めた目できん姉さんが、みつ姉さんを見つめている。
夫となる林太郎さんが用意してくれた、華やかな色の晴れ着をまとった姉さんは――それでも綺麗で。
見たこともない位、キラキラと輝いていた。
照れたようにはにかんで笑って、心配そうに見上げる私の頭をゆったりと撫でてくれる。
そんな顔をされたら、
「……ねえさん、きれぃ」
そう言うしかなくなるでしょ?
いつも地味な着物を着ているところしか、見たことがなかったから。
本人も、赤い着物を着るのは初めてで照れくさいんだろう。
私は姉さんの横に座る林太郎さんを見た。
これが、姉さんの夫となる人――
かつてOLだった私よりも年下の、ひょろりとした青年。
しっかりしてよね!
どこか頼りなさそうな、にこにことした顔を見て、心の中で渇を入れてやる。
姉さんは夫の顔を見るのが恥ずかしいのか、始終赤い顔で下ばかり見つめている。
林太郎さんは林太郎さんで、おどおどと視線をさまよわせて、姉さんに話しかけようとしない。
ただきん姉さんのはしゃいだ声だけが、狭い部屋に響いていた。
暗い部屋に少しの光明が差すように。
ふと目を合わせて、真っ赤になってさっと顔をそらした二人を見て、私は苦笑した。
……良かった。
いい人そうで。
これで、変な親父のところに嫁ごうものならやりきれないけどね。
嘘のつけない、不器用そうな人だ。
しっかり者の姉とは、案外お似合いかもしれない。
こういう結婚も、ありかもしれない。
ほっとすると、何だかそう思えてきた。
順番がすごく無茶苦茶になっちゃったけど、こういう出会いもあるのかな、ってね。
(だって、姉さん幸せそうだ)
好きな人と結婚するのもいいけど、結婚した相手を好きになるのも、いいのかも、しれないなぁ……。
夫と妻。
今日から、そういう縁を結んだ二人。
まだ慣れないから、恥ずかしそうで――見ているこっちが、恥ずかしくなるけど。
……幸せになってよ。
ねえ、みつ姉さん。
沖田家のこととか、私のこととか。
そんな難しいこと、全然考えなくていいんだよ?
私たちは、姉さんに幸せになって欲しいんだ。
もう、家族のために誰も自分を犠牲になんかして欲しくない。
きん姉さんも、私も。
姉さんの幸せを祈っているよ。
心の底から笑いあえるような。
そんな穏やかな日々を望んでいるんだ。
そうなるためには、姉さんも幸せでなくちゃいけない。
幸せになろうよ。
だって私たち、たった三人の姉弟じゃない。
……今日からは、家族が一人増えるけどさ。
私は、くるくると二人の周りを回って、忙しそうに話しかけるきん姉さんを見て、肩の力を抜いて笑った。
あ。
ふと目が合った林太郎さんが、垂れ気味の目を困ったように細めて、笑いかけてくれた。
2010.4.20