「武士になる!」
土方歳三が、一番初めにその夢を伝えたのは、長兄為次郎だった。
その時兄は、笑って頭を力強く撫でてくれながら、
「じゃあ。歳は、誰よりも強くならなければならないな」
柔らかな声音でそういった。
「うん!」
あの時兄がそう言ってくれたのが、どれだけ嬉しかっただろう。
小さな頃から 『武士になりたい』 という漠然とした夢はあったが、長ずるに従い、それは果てしのない遠いもののように思えてきた。
家業の石田散薬作りを手伝いながら、姉の夫、義兄の佐藤彦五郎に剣術の話を聞くたびに、夢は膨らむものの――
現実は、重く肩にのしかかってくる。
奉公先から二度も実家に戻ってしまい、土方歳三は自己嫌悪に陥っていた。
「武士になる!」
子供の頃は、何の迷いもなく高らかと宣言していたことなのに。
今はそれが、苦痛に感じられてならない。
歳三は不貞腐れて、木陰にごろりと横になりながら空を眺めていた。
降り続いた雨は、昼過ぎになってやっと上がった。
遠くの方で、まだ雷が聞こえるものの。今は重たい雲の隙間から、わずかに太陽が覗いている。
しっとりと雨露を纏った草木に、着物が濡れるのも構わず、歳三はため息を付いてぼんやりと高いところを飛ぶ鳶を眺めていた。
「お前はいいよなぁ……自由で……」
いろんなしがらみに、がんじがらめになっているこの身が厭わしい。
(俺は武士に何ざ、なれやしねぇんだ)
このままこの田舎で、百姓として生涯を終えなければならないんだ。
百姓が武士になんか、なれるはずがない!
「いっそ、夢を諦めてしまえたら……」
剣術は趣味程度でもいいのではないか?
どうして、好んでこんなにも苦しまなければならない?
いっそ思い切りよく諦めてしまえたら、楽になれるのに……。
じわじわと頭の芯が熱くなって、泣きたくなった。
今では、
「諦めてしまおう」
という思いは、
「武士になる!」
という思いと同じくらいの大きさになった。
「俺だって、いつまでもガキじゃあねぇ。遊んでばかりもいられねぇ」
自分に言い聞かすように呟いたとき。
向こうの方から、豪快に笑いながら歩いてくる一団を見つけて、歳三は弾かれたように身を起こして、茂みに隠れた。
弱っている姿を、誰にも見られたくなかった。
こっそりと腹ばいになって、茂みの隙間から声の主を見る。
(ありゃあ……)
先頭にいるのは、確か島崎勝五郎 (近藤勇のこと) だ!
師である近藤周助の荷物を持って、時折何かを話しながら、大声で笑っている。
義兄の話では、勝五郎は自分とは一つしか違わないらしい。
がっしりとした体躯。無骨な――けれど男らしい。
大股で迷いなく、まっすぐと前を向いて歩いている勝五郎を一目見てから、
(うわぁ……)
歳三は、目が離せなくなった。
彼らは出稽古に向かっているのだろう。
一団の中には、義兄の姿も見える。
たくさんの男達の中で、一際勝五郎は異彩を放って眩しく見えた。
(すげぇ!)
自分とは一つしか違わないのに!
勝五郎は、歳三の中の理想そのものだった。
百姓でも武士になれるんだ!
今まで胸のうちに堪っていた、もやもやとした思いが、一気に吹き消されたような気がした。
賑やかに行く一団の後を、子供たちがはしゃぎならがついていく。
鼻をたらして指をくわえた一番小さな子の手を引いて、8歳くらいの少女が、目をきらきらとさせながら楽しそうに笑っている。
濃い緑の中。ゆったりと行列は進み――
勝五郎の逞しい背の向こうに、ガクアジサイが咲いているのが見えた。
(すげぇ、すげぇ! すげぇッ!!)
歳三は高潮した頬で、見えなくなるまで勝五郎を見送ると、徐に立ち上がって拳を握り締めた。
「よしっ!」
俺も武士になるんだ!
俺だって本気でやりゃぁ、勝五郎みたいになれるはずだ!
「よしッ!」
興奮した面持ちで大きく頷くと、叫びだしたくなる衝動をぐと飲み込んで、歳三は走り出した!
緑がグングンと流されていく!
袴が濡れるのも構わずに、水溜りを蹴飛ばして――
水田の中の道を走っていく!
見渡す限りの田園風景。
田んぼには水が一杯にひかれていて、漣を立てている。
まるで湖を横断しているような不思議な感覚に、歳三は息が切れるまでがむしゃらに走った。
(俺は武士になる! 武士になるんだ!)
勝五郎の姿が、目に焼きついて離れない。
(やるぞッ!)
絶叫する代わりに足を止めて拳を握り締めると、歳三は荒い呼吸のまま草むらにドカリと腰を下ろした。
いつの間にか、空はすっかりと暗くなっている。
そこかしこでやかましく蛙が鳴いている。
一体どこまで走ってきたんだろう?
ふと不安になって周りを見回そうとして、歳三は慌てて頭を振った。
(今はそんなこたぁ、どうでもいい!)
立てた方膝に額を押し付けて、歳三は忍び笑った。
こみ上げてくる笑いを、どうしても抑えることができない。
今までの鬱々とした気分が嘘のようだった。
(俺も出来るんだ!)
代わりに夢が大きくなったような――近づいたような気がして、歳三は顔を上げた。
(……あッ!?)
ポワリ、ポゥ
藍色の闇の中、蛍が飛んでいる。
萱の上で。
アジサイの上で。
無数の蛍が舞っている!
息を飲んでそれを眺めた後、歳三は足音を忍ばせて、そっと葉の上に止まる蛍を捕まえて掌に包み込んだ。
自分の手の中で、音も鳴く光を放つそれは。
歳三に捕えられて驚いているのか、しきりと動き回っている。
黄緑色の光を一生懸命にちかちかとさせて、
ぶン。
羽根を震わせると、歳三の手の内から飛び立っていった――!
なんて幻想的な風景だっただろう。
そこには自分以外誰もいない。
月もない夜なのに。
夜道が、黄緑色の光にボゥと浮かび上がっている。
飽きることなく蛍を見つめながら、歳三はいつまでもいつまでもそこに座っていた。
(武士になるってのぁ。生半可なことじゃあねぇ。俺はわかっていたつもりで、全然わかっちゃあいなかったんだ)
そんなに簡単になれるのなら、今頃世の中は武士で溢れかえっている。
それに、だ。
(簡単に手に入るようなら、やりがいがねぇ!)
歳三はクツクツと笑うと、立てた方膝に顎を乗せた。
(俺ぁ武士になってやる!)
今までの自分が甘すぎたのだ。
(今度こそ、俺ぁ本気で――!)
肩で風を切って歩いていた勝五郎。
いつか。あの人と並んで歩ける様になってやる。
歳三は奥歯をかみ締めると、
「よしっ!」
気合を入れるように声に出して、立ち上がった。
自分の心が定まれば、時間が惜しかった。
今度は来た道を全速力で走りながら、堪えきれない感情の高ぶりに、歳三は短く叫んでにやり、と笑った。
2006.8.21