ひととせ

皐月


 

ピシリ ぺちり。

菖蒲打ちの音が聞こえていた。

 

「そうか……今日は五日か……」

大方近所の子供たちが、束ねた菖蒲を地面に打ちつけて、音の大きさを競い合っているのだろう。

何気なくそう思いながら試衛館の門をくぐり、まっすぐに道場に向かおうとした土方に、

「おぅ!」

天然理心流三代目宗主、近藤周助は巻き舌気味の声を掛けた。

(ん?)

声を掛けられたのは自分だろうか? 

足を止めて辺りを見回すと、井戸のところで水を浴びていたのだろう。もろ肌を脱いだ周助が手ぬぐいで顔を拭いながら、ニコニコとしていた。

「おぅ、来たか。あいつらならァ、あっちにいるぜィ?」

挨拶をする土方に、周助は上機嫌そうに笑いながら、親指で自宅のほうを指差してみせる。

(稽古は?)

この時間に稽古もせずに家にいるのは珍しい。

そういえば、道場は嫌に静かだ。

開け放された扉から中を覗いてみると、そこには中島登や山南敬介、井上源三郎といった面々しかいなかった。

「やぁ、歳三さん」

気さくに声を掛けてくれる井上に挨拶をして、もう一度ぐるりと道場を見回す。

今は山南と中島が手合わせをしているらしい。

いつもなら聞こえるはずの、近藤勇の怒号にも似た掛け声は聞こえない。

普段は軽口ばかり叩いているが、稽古のときは別人の様に寡黙になる永倉や、負けず嫌いの原田の悔しそうな声も聞こえない。

 

木刀を合わせる音は聞こえるが……

あまりにも静かな……。

 

眉をひそめながら、近藤周助に教えられた自宅のほうへ歩いていく。  

 

ピシリ。 ぺちり。

菖蒲打ちの音が聞こえてくる。

 

(まさか……)

嫌な予感がして、思わず駆け出す。

(いたーッ!!)

土方はそこに馴染みの顔を見つけて、思わず脱力した。

縁側に腰を下ろして、粽を食べているのは藤堂平助。

菖蒲打ちの音の大きさを競い合っているのは、子供じゃあない!

永倉と原田だ!

大声で

「俺のほうが大きかった! 絶対ぇ大きかったっ!!」

「いや、俺だって」

などと言い合いながら、菖蒲がぼろぼろになっているのも構わず、地面に打ち続けている。

地面に接する部分は擦り切れ、そこから濃い菖蒲の匂いがした。

「あ、土方さん。今日は」

藤堂は笑いながらそれを見ていたが、唖然としている土方を見つけると、白い顔をふとほころばせて声を掛けた。

「お、おぅ……な、何してんだ?」

「菖蒲打ちですよ」

「いや、それは見ればわかるが……」

なぜ稽古もせずに!?

肩からずれ落ちそうになる薬箱を背負いなおして、渋い顔をすると土方は三人をぐるりと見回した。

「こ、近藤さんは?」

何か嫌な予感がしつつも、恐る恐る藤堂に聞くと

「ああ」

彼は品のいい顔をニタリ、と歪めて

「あちらに」

と、庭の片隅を指差した。  

家の影になっていて見えないが、耳を澄ませば確かに近藤と惣次郎の声が聞こえてくる。

(あっちはあっちで何やってンだ?)

せっかく稽古をするのを、楽しみに走ってきたのに!

やる気が音を立ててしぼんでいくのを感じた。

土方が重たい足を向けると、今気付いたかのように永倉と原田が嬉しそうに声を掛けてきた。

「なぁ、なぁ! 歳さん! これこれ! な!? 俺のほうが大きいよなッ!?」

ペシリ。

「いやいやいや。土方さん、俺のほうだろ?」

ぴちり。

「……どっちも鳴ってねぇぞ。音……」

力強く握り締めすぎたのだろう。つかんだ部分から菖蒲はぐにゃりとだらしなく折れてしまっている。

これではしっかりとした音が鳴らないはずだ。

脱力しながら土方が言うと、二人はチェーっと唇を尖らせて、それきり興味を失ってしまったかのように菖蒲を振り回しながら土方の後ろに付いてきた。  

後ろで藤堂が置いていかれまい、と慌てて庭下駄をつっかける音が聞こえる。

昨日降った雨に、庭の土はまだしっとりと柔らかく、日陰の部分はぬかるんでいた。

土の匂いと、苔の匂いがする。

いつからそこにあるんだろう。苔むし、すっかりと緑色になってしまった庭石。

音を立てて風にそよぐ柳。  

日陰に入った瞬間、ぐと肌寒くなった風に原田が気持ち良さそうな声を上げた。

「近藤さん。惣次郎!」

そんなところで何をしているんだ?

そう続けようとして、歳三は気付いたように声を飲み込んだ。

二人は、滅多に行かない庭の隅っこにいた。

どことなく緊張した面持ちで、惣次郎は木に寄りかかるようにしてまっすぐに背を伸ばしている。

近藤の手に持っているのは、小刀。

小さな音を立てて、近藤が木の幹に傷をつけ終わった後、やっと金縛りが解けたと言うように、惣次郎がつめていた息を吐いてパァッと笑顔になって土方の元に走ってきた。

「背ぇ比べか」

「はい! 今日はっ。歳三さん!」

(そういやァコイツ、また少し背が伸びたか?)

出会った頃は土方の腰ほどしかなかったのに、惣次郎はぐんぐんと伸びて今は土方に迫るほどになっていた。

まだ幼い頃の面持ちの残る惣次郎の頭を、ぽんぽんと軽く叩いてやると、彼は嬉しそうに目を細めて小さく笑った。

「ああーッ!! 近藤さん! 俺もー俺もーッ!!」

原田が叫んで近藤の元に走っていく。

「俺も計ってください」

菖蒲を投げ捨てて永倉も負けじと走ると、

「わかった、わかった」

近藤は苦笑しながら、今度はどちらが先に計ってもらうかで喧嘩を始めた二人を宥めた。

「お前はいいのか?」

振り返って大人しく粽を食べている藤堂に言うと、彼は涼しげな目を細めてニタリと笑って、首を横に振った。

「そうか?」

「ええ。だって―−」

「ん?」

「木に跡をつけても、意味ないじゃないですか。木だって成長するんだから」

最もな意見に土方は苦笑すると、藤堂はしれっと惣次郎に粽を渡して楽しそうに騒いでいる三人に目をやった。

「それに――あの人たち、まだ成長するつもりですか?」

もう大人なのに。

自分の背は伸びなくなっても、木だけがぐんぐん生長して。

自分の背丈よりも高くなった木の跡を見上げるのって、何か虚しくないですか?

藤堂の冷めた意見に

「まったくだ」

土方は声を上げて笑うと、満足そうに腕を組んで木を眺める三人を見た。

来年の今日。

彼らはあの木を眺めて、どんな反応をするのだろうか?

想像すると笑みがこぼれた。  

風がそんな彼らを笑うように、音を立てて通り過ぎて行く。

柳の葉がさわさわと揺れ、用水で小魚が跳ねる音がした。

「平助ー。もう一個頂戴」

「はいはい」

(手、大きくなったなぁ……)

藤堂に差し出す沖田の手の大きさに、土方は今更ながら彼の成長を思い知って瞠目した。

藤堂は懐から出した粽を宗次郎に渡して、

「最後の一つです」

土方にも笑って差し出す。

甘いものの余り得意ではない土方だったが、

今日くらいは――

小さく礼を述べて齧った瞬間――

「ああーッ!!!」

いきなり三人が大声を上げて、びくりと肩を揺らした。

「何食ってんだよ! ずるいずるい! 藤堂! 俺のは?」

原田が勢いよく走ってくる。

「まさかナイ、とかってふざけたことは言わねぇよな?」

後ろで青筋を立てながら永倉が言う。

「ない、のか……?」

どことなくしょんぼりと肩を落とす近藤に、ずきずきと良心が痛んで、土方が食べかけのそれを差し出すと――

永倉と原田が奪い合って、喧嘩を始めた。

「悪い。近藤さん……」

「もう食べちゃいました」

「ごちそうさまでーす」

にこにこと邪気のない顔で言う藤堂と惣次郎に、がくりと肩を落とすと

「いやいやいや、いいんだ別に。おいしかったか? そうか」

近藤は無理やり笑いながら呟いた。

こいつら絶対ワザとだよな……。

しかも最後の一つ俺に食わせて、共犯にしようとしやがった!

土方がじとりと藤堂を睨むと、彼はにこりと笑って返した。  

道場では稽古が始まったのだろう。

周助の、腹に響くような気合を入れる声が聞こえてくる。

「ほらほら、行くぞ」

肩を落とした近藤を引っ張りながら土方が言うと、

「後で菖蒲酒飲もうな……歳……」

近藤がひっそりと耳打ちしてきた。

(アンタの声でかいから、多分みんなに聞こえてると思うけど)

苦笑しながら頷くと、近藤はパァッと顔を輝かせて張り切って歩き始めた。

ピシリッ。ピシッ!

どこからか菖蒲打ちの音が聞こえてくる。

塀の向こうの、すっかりと耕された畑を見て、土方は背伸びをして風を一杯に吸い込んだ。

青空をゆったりと、鯉のぼりが泳いでいた。

 



2006.8.20