ひととせ

卯月



 

さくら さくら やよひのそらは

みわたすかぎり

かすみか くもか あさひに におふ

さくら さくら はなざかり

 


澄んだ声にあわせて爪弾くのは三味線。

鈴を転がすような、という形容詞がぴったりな声で、お琴は唄っていた。

お琴の三味線に合いの手を入れるのは、歳三の一番上の兄、為次郎である。

為次郎は生まれたときより目が見えなかったため、家督は次男の喜六が継いでいたが、本人は気にするそぶりも見せず、日々趣味に明け暮れるという生活を送っていた。

そして。歳三が密かに憧れ、懐いていたのがこの長男であった。

 

為次郎は飄々とした、風流人であった。

長い髪を結いもせずに肩に垂らし、着流しを着たひょろりと背の高い男だった。

静かな微笑を口元に浮かべ、筋張った手に撥を持って撫でるように弦をはじく。

傍から見たら、何と似合いの二人だっただろう。

 

聞こえてくるのは、梢で鳴く鶯の声と、艶やかな三弦の音。

香の立ち上る音さえ聞こえてきそうな静けさの中。

二人は音で桜を愛でるかのように、唄い奏でる。

薄暗い部屋の窓と言う窓は開け放され、障子の向こうから満開の桜の木が見えた。

 

お琴は歳三の許婚であった。

女関係が元で奉公先をクビになった歳三に、また問題を起こされては叶わないとばかりに、本人たちの意思をよそに結ばされた関係である。

早く祝言を挙げよ、としきりと兄たちの急かすのをのらりくらりとかわして、歳三は一向に彼女の元を訪れようとはしない。

なぜかと理由を尋ねる兄に、歳三は誤魔化すように笑うだけで理由をいうコトはなかったが。

 

「咲いたなぁ……」

歳三はぼんやりと上を向いて歩きながら一人ごちた。

 

あれは、今日のような春の日のことだった。

 

染井吉野の香りが、村一杯に漂っていた。

石田散薬の入った薬箱を背負いなおしながら、ふと歳三はお琴の事を思い出して足を止めた。

控えめで大人しい女だった。

取り分けて美人と言うわけではなかったが、庇護欲を書きたてられるような愛らしい――しかし芯のしっかりとした少女だった。

 

「あの人も馬鹿だよなぁ……」

歳三は目を細めて、くるりくるりと舞い落ちる花びらを見つめて呟いた。

桜の木の向こうには、畑一面に菜の花が揺れている。

そこかしこで花が咲いているのだろう。

山の緑の中に、ぽつりぽつりと淡いピンク色が見える。

 

歳三にお琴を紹介したのは、兄の為次郎だった。

浄瑠璃が趣味である兄が、糸や駒を買いに行っていたのがお琴の店だったのだ。

 

いつだったか――。

縁談が持ち上がってから、歳三もお琴の店の前をこっそりと通ったことがあった。

可憐な澄んだ歌声に惹かれるまま、足音を忍ばせて家の裏側へ回ったとき――

薄暗い部屋で差し向かいながら三弦を弾く二人の姿を見て、ドキリとした。

慌てて息を潜めて、木の陰に姿を隠した後――兄の目に自分が映ることがないことに気付いて、

(何をしているんだ!? 俺は……)

何か言いようのない罪悪感を感じて、息を殺して中を伺った。

背中を向けているお琴も、気配を消している限り自分に気付くことはないだろう。

(へぇ……)

兄の口元に浮かぶ、優しい表情に気付いたとき。

歳三の中のむず痒いような思いは四散し、かわりに清々しい風が吹き抜けたような心地がした。

「ああ……あの人も馬鹿だよなぁ」

何と似合いの二人だっただろうか!

 

穏やかな世界を共有する二人。

彼らを取り巻く空気さえも柔らかな――

静かに長い睫を伏せて、弾く兄の一の糸。

こちらに背を向けているため、表情こそは分からなかったものの、ほっそりとしたなで肩のお琴も、穏やかな表情を浮かべているに違いない。

あまりにも似ている雰囲気を持った二人に、

(何でアンタ等が祝言を挙げねぇんだ?)

歳三は、渋い顔でぼやいた。

目が見えないことに、引け目でも感じているのだろうか?

兄は大体遠慮がち過ぎると思う。

お琴もお琴だ。

そんな兄に惚れているくせに……

親の言うなりに、自分の元に嫁ぐつもりなのだろうか?

歳三は顎を撫でて目を細めると、そっと足音を忍ばせてその場を去った。

 

「わっかんねぇなぁ……」

惚れてるなら、弟なぞに譲らず自分が妻にしたらよいものを!

唇を尖らせてそう呟くと、歳三は苦笑して首筋をかいた。

まぁ、あの兄のことだ。

どうせまた遠慮しているに違いない。

自分の気持ちなどおし隠して、死ぬまで彼女に告げる事はしないだろう。  

「まったく。不器用な人だなぁ」

それはどちらに向けた言葉だったか。

足元の小石を踏みつけながら、小さく欠伸をすると、歳三は肩に落ちてきた花びらを指でつまんでそっと風に流した。

 

 

さくら さくら やよひのそらは

みわたすかぎり

かすみか くもか あさひににおふ

いざや いざや みにゆかん  

 

「あーあ」

別に彼女に惚れていたわけではないが。

どことなく淋しくて。

歳三は足元の小石を蹴飛ばすと、

「桜でも見に行くか……」

試衛館へ向けていた足をくるりと返して、山を見上げた。

兄を取られたような気がして淋しかったのか。

それとも、やはり――心のどこかでは、彼女のことが気になっていたのか。

ふんわりと漂う桜の香りを一杯に吸い込むと、

「よし!」

歳三は気合を入れるように薬箱を背負いなおして、地面を蹴飛ばすようにして走り始めた。

さくら さくら……

風に乗って、お琴の涼しい声が聞こえてきたような気がした。

 

 

2006.8.19