日野時代。歳三さんと。

原田左之助


 

「暑ぃ……」

その日は朝からうだるような暑さだった。

風がなく湿度が高いせいだろう。息苦しいほどに、暑い。

 

土方歳三は縁側に座って、水をいっぱいに汲んだタライの中に足を漬けていた。

うちわは手で握っているものの、仰ぐ気力もなくぐったりとしている。

 

「……暑ぃ……」

口をついて出る言葉は、もうそれしかない。

蝉の鳴き声に、頭がガンガンとする。

あまりの暑さにぼんやりと霞んできた意識をつなぎとめるため、土方は団扇で2、3扇いで風を送った。

 

そういえば、朝から近藤たちの姿が見えない。

出稽古にでも行ったのだろうか?

試衛館も静まり返っており、誰の気配もない。

尤も、この暑い中真面目に稽古をしている声でも響いてこようものなら、土方もこうしてのんびりと涼を取ってはいられなかったが。

額から落ちる汗もそのままに只管無言で風を送っていると、

「あン? 歳さんじゃねぇか!」

底抜けに明るい声が聞こえてきて、土方は億劫そうに頭を上げた。

「あ? ……原田か……」

見れば元気いっぱいという様子の原田がニコニコと笑って立っている。

「こんな所で何してンだぁ?」

「見てわかんねぇのか……?」

袖を肩まで捲くり上げ、背を丸め据わった目で土方が言うと

「何だよ。情けねぇなぁ!」

原田はそう言ってカラカラと笑った。

日に焼けた顔に、白い歯がまぶしい。

どうしてこの男はこんなに元気なのだろうか?

うんざりと考えて、ふと思い出した。

「――そういやぁ、お前ぇ南の生まれだったか?」

何かの時にそう聞いたような気がする。

何気なく土方が振ると、原田は誇らしげに頷いた。

「おうよ! こちとら、南も南! 四国は伊予の出身よ!」

豪快に笑う原田に、なるほど。土方は納得した。

漁場の男らしくさっぱりとしているが、荒々しい性格。

そして山に囲まれた国で育ったからだろう。野性味にあふれた言動。

言われてみれば、確かに四国の生まれの者”らしい”。

首の上に乗っかる顔は、整ってはいたが、美しいというより精悍だ。

 

土方は改めて、まじまじと原田を見た。

背は永倉より小さいが、低いというわけではない。

ガシリとした体格の美丈夫といえるだろう。

 

そこまで考えて、土方ははたと気づいた。

そういえばいつも一緒にいる永倉と藤堂の姿が見えない。

聞けば、

これから遊びに行くものの、約束の刻限を過ぎても二人がまだ来ない、と原田は答えた。

 

「なぁ、土方さんも一緒に行くかい?」

「――どこへだ?」

「葛きりを食いに」

「行かねぇ」

土方は即答した。

この暑い中、葛きりを食べるために町まで行く気力はない。

心底うんざりしたように顔をしかめて言う土方に、

「可愛いって評判の看板娘もいるんだぜ!?」

原田がなおも食い下がったが、土方は頑として首を縦に振らなかった。

 

とたんに今まで上機嫌だった原田が、口を尖らせ文句を言いながらもしきりと誘い始める。

半ば意地にでもなっているのだろう。

こうなると面倒だ。

土方は内心舌打ちすると、話をそらした。

 

「……ところでよぉ、なぁ、サノ。伊予はここよりも暑ぃのか?」

「は?」

急な話題の転換についていけず、一瞬原田は呆けたが、すぐに頷いた。

「お、おう。伊予は海も近ぇしな! おてんとサンも、ここよりずっと強ぇ!」

「これ位の暑さは堪えねぇ、ってことか」

それでこんなに元気なのか……

土方はぐったりとしたが、前の話題をすっかりと忘れた風の原田に尚も話題を振った。

「海が近ぇってこたぁ、魚もうめぇんだろ?」

「おお! もちろんだ! 魚もうめぇぞ! 新鮮だしな! それに、うめぇのは魚だけじゃねぇ!」

牡蠣にジャコ天に蜜柑に……

指折り数える原田に、土方は気のない相槌を打った。

故郷のことを思い出しているのだろう。

いくら脱藩したとはいえ、生まれ育った国だ。懐かしくないはずがない。

故郷を語る原田の目は、きらきらと輝き歳三は眩しいものでも見るように目を細めた。

 

「伊予の女は江戸の女と違ってよ、垢抜けちゃいねぇが素朴でよく働く」

何より優しいしな!

嬉しそうに、懐かしそうに……

故郷の女でも思い出しているのだろうか?

少しだけ切なさの混じった誇らしげな顔をして笑う原田に、土方は掛ける言葉を失って目をそらした。

 

「それからよぉ、祭りともなりゃあ、牛鬼っつー馬鹿でけぇ山車が町中を練り歩いてよぉ……」

嬉しそうな原田の声は土方に向けられているものの、土方の相槌を望んだものではない。過去に思いをはせているのだろう。生返事を返しても、気付くことなく嬉々として続けている。

こんな顔をする原田を見たことがない。

――帰れない、からだろうか?

懐かしそうに話しながらも、どこか悲しそうで。

いつもの覇気がない。

物思いにふけるように、口元に笑みを浮かべて優しい顔で語る――

そんな原田の顔は見たことがなかった。

(こいつ、こんな顔もできたのか……)

土方は扇ぐのも忘れ、ぼんやりとした頭で原田を凝視した。

いつも明るく振舞っている分、しんみりとした姿が痛々しい。

 

自分の、土方の知らない故郷を語る原田に――なんとなく、置いて行かれたような気がして……

少し、ほんの少しだけ寂しくなった。

 

どれ位そうしていたのだろう。

 

「おーぉい! サノー!」

どこからか永倉が原田を呼ぶ声が聞こえ、原田は夢から覚めたようにハッと我に返った。

「おー! 今行く!」

返事を返して、どことなく罰が悪そうにニヤリとはにかんで、土方を見る。

「すまねぇ。歳さん。つまんねぇ話ばっかして……」

いつもなら言わない殊勝なことを口にする原田に、土方もハッと我に返ると、なぜか焦ったようにしきりと団扇で扇ぎながら

「いや」

と首を振った。

 

原田はここにいるのに。

友人なのに。

故郷に取られたような気がして……

自分の知らない原田がいたことに戸惑うなんて……

 

(なんてぇ、小せぇ男だ!)

自分で自分が恥ずかしくなる。

どことなく気まずい雰囲気が流れたが、

「おーい! さのー!」

藤堂の声に、もう一度原田は土方を誘った。

土方はそれに手をひらひらと振って答えると、原田は残念そうな声を上げて背を向けた。

 

原田の姿が垣根の向こうに消える瞬間――

後ろを追いかけるように声を掛けると、原田は驚いたように目を丸め、次いで破顔一笑した。

 

 

「いつか……俺も伊予に行ってみてぇもんだな」

「歳さんなら大歓迎だ!!」

いつでも来なはいやぁ!

それはそれは嬉しそうに。

原田はそう言うと、照れた顔を隠すように永倉たちの元へ走っていった。

 

原田があんまり嬉しそうに笑うから。

(いつか、本当に行ってみるのもいいかもしれねぇな)

なんとなくすっきりとした気持ちで、土方は上体を後ろに倒して空を見上げた。

「伊予はここより暑ぃけど……」

 

いつか原田の国へ皆で行けたら――

原田はきっとはしゃいで、はしゃいで、くたくたになるまでいろんな所に連れまわしてくれるのだろう。

簡単に想像できて、土方はふと笑った。

 

蝉は相変わらず盛んに鳴いていたが、不思議ともう不快感は感じなかった。

 


 

2009.8.9