「あなたと……一緒に行くわ」

私は男の手を取った。

不思議ともう恐怖は感じなかった。

男の物腰が、思いのほか優しかったからかもしれない。

男は私の手を握ると、満足げに目を細めた。

これでよかったのかわからない。だけど、その笑みを見た瞬間、私は言いようの無い安堵感を感じて男の手を握り返した。

 

「しっかり捕まっていろ」

急に力強く腕を引っ張られ、私は柄にも無く小さな悲鳴を上げる。

男の腕に包み込まれた瞬間!

酷い耳鳴りに襲われ、私はきつく目を閉じた。

何か――強い力に引っ張られる!

まるで、体が分子に分解されるような不快感を感じ、私はすがりつくように男の腕にしがみついた。

一体自分の身に何が起こっているのかわからない。

だけど。

私には、この男がこれから起こることの案内人のように思えた。

この人についていけば、きっと大丈夫。

何が起こっても守ってくれそうな、そんな安心感がある。

どうして初めに恐怖を感じたのか、今では不思議なくらいだ。

私は――この男の瞳を知っている?

漠然と、魂の奥深いところが、私にそう告げている。

不思議。会ったことなんかないはずなのに。

懐かしいなんて……。

暖かい気持ちがあふれ出して、私はドキドキとしながら男の服をきゅっと握り緊めた。

 

どれ位そうしていたんだろう?

時間にしたら一瞬だったかもしれないし、もしかしたら随分と長い間だったのかもしれない。

体が一度分解されて、再形成されるような不思議な感覚がした後、ふわりと浮遊感を感じて私はようやく目を開けた。

「う、わ! ちょ……!」

気が付けば、いつの間にか男に横抱きにされている!?

先ほど感じた浮遊感は、これだったらしい。

私は真っ赤になってもがいた。

平均的な日本人である私は、姫抱っこになんて慣れているはずも無く、ひどく落ち着かない。

「降ろして! 降ろしてよ!」

もの凄く恥ずかしくなって、どうにか下ろしてもらおうと必死に暴れていると、男は不思議そうに私を見下ろして、大人しく下に降ろしてくれた。

やっと地に足が着いて、ほっと安堵の息をつく。

ああ、心臓がうるさい。

とりあえず、落ち着かなくちゃ!

私は乱れた髪を手櫛で直しながら、動揺しているのを悟られないようにこっそりと深呼吸して、ようやく平静を取り戻して辺りを見回した。

「――あれ? ここは……」

目の前には見慣れた風景が広がっている。

見通しの悪い、少しカーブした細い坂道。

事故で曲がって、変な方向を向いたカーブミラー。

「ここって……」

私は横に立つ男を見上げた。

「私の家の前じゃん」

2階建ての建売の家。間違いようも無い、私の実家だ。

一体どうなってるの?

私は狐につままれたような気持ちで、首をかしげた。

何でだか今いるのは、思いっきり私の家の前。

「私、あなたと一緒に行くとは言ったけど……」

何か特殊な出来事に巻き込まれたような気がしていたけど……あれは気のせいだったの?

どうして、現実の匂いのプンプンとする自分の家の前に立っているんだろう?

これはどう反応すべき!?

リアクションが取れず固まっていると、男は

「行かないのか?」

というように手のひらで私の家を示して、私は眉をひそめてドアを凝視した。

ちょっと待ってよ!

ここに!?

私の家に!?

あなたを連れて行けるわけ無いじゃない!

だって、問題ありでしょ。

一人暮らしならともかく!

微妙な年頃の女が、自宅に男を入れるなんて!

「両親に紹介します!」

って言っているのと同じじゃない!

ただでさえ、だ。

このところ立て続けに友人たちが結婚したおかげで、両親は私に男がいないのか、いつ結婚するつもりなのか探りをいれてきているって言うのに!

自殺行為だ……。

この男を連れて行けば、両親がどういう反応をするのか容易に想像できて、私は頭を抱えてため息をついた。

 

私はまだ結婚は考えていない。

もともと結婚願望は小さなほうだったし、昔の男だけど――その人が自殺したばかりだ。

私が原因じゃなかったとはいえ、彼と過ごしたいろいろなことが思い出されて、結婚だとか――誰かと付き合うとか、そういう気分にはなれなかった。

困った!

私はチロリと男を横目で見ると

「何だ?」

年頃の女の複雑な思いなんて知りもしない男は、キョトンとした顔で私を見た。

だからね!

声を大にして男に言ってやりたい!

でも……少しは慣れたとはいえ、見た目悪役なこの男に対してそんな態度を取れない小心者の私は、

「いや……あのさ……」

もごもごと口ごもりながら、男の靴のあたりに視線をさまよわせた。

「あの、さ……話とかは、どっか別のところでしない? カフェとか、さ……」

「話?」

「そうよ! 色々と聞きたいこともあるし! あなたのこととか! さっきいた所はどこなのか、とか!」

それに

「車にはねられたのに、何でピンピンしているのか、とか……」

「――話が聞きたければ、さっさと家に入ればいいだろう?」

私の家に行くのは、あなたの中で決定済みですか!?

「だーかーらー!」

初対面の男を、両親の要る実家に連れて行くのはどうかと思うのですよ!

100歩譲って親が留守ならともかく、もう陽もすっかり暮れているし、この分だと父さんも帰っているに違いない。

助けてもらっておいて言うのは何だけど、この人のまとう雰囲気は普通じゃない。

鋭い目つきに一目で堅気じゃないってわかるし、それに歳も私より大分年上だ。

おまけに日本人じゃないとくれば、どこで知り合ったのか親は絶対びっくりするだろう。いろんな意味で。

ああ――うちに来るのはまずいって、はっきり言わなきゃダメかな?

途方にくれていたけど、このままでは埒が明かない。

私は罪悪感にかられながら

「あのー……その、ね……家には両親がいるから……年頃の女の部屋に男を入れるのは、ちょーっとまずいと思うのでありますよ」

言葉を選びながら、もごもごと口の中で聞き取れるのか不安なくらいの小声で言うと

「ああ!」

男はやっと気づいたように、ポンと手を打ちそうな勢いで頷いた。

わかってくれた!?

ほっとして顔を上げる。

「そんなことか。俺の姿はお前にしか見えないから、普通に振舞っていれば周囲の者には気付かれん」

「はィ!?」

ドウイウコトデスカ!?

私は男の言葉に面食らって、ひっくり返った声を上げた。

「あれを見ろ」

男に指された、街灯の横のカーブミラーを見る。

「俺の姿が?」

「――ないわ」

私はかすれた声で、呟くように言った。

「何で……? どうして……」

ぞっと背に冷たいものが走る。

男は狼狽する私を見下ろしていたけれど

「……お前も、俺の存在を否定するのか?」

深い闇をたたえた目でじっと私を見て、静かな口調でそう問いかけた。

その平坦な声の中に喘ぐような苦しみを見つけ、私は目を閉じた。

男は、確かに私の横にいる。

 

「あなたは……何なの?」

あまりの驚きにかすれた声で、私はそう聞き返すのが精一杯だった。

男の、意志の強そうな薄い唇。

どこか威圧感を感じさせる、人を従わせることに慣れた態度。

意地の悪そうな眦。

そして――

首や手足につけられた重たい枷……。

私は鈍い光を反射する、男の首もとの鎖をぼんやりと見た。

まるで鎖は引きちぎられたかのように短く、重たそうに首からぶら下がっている。

両手は肩幅ほどの長い鎖につながれており、私はその冷たさにそっと体を震わせた。

男の年齢は40代半ばくらいだろうか。

まさかこの年齢で、ゴシックパンクなんてこの男の性格ではしそうにない。

ということは、まさか本物……?

私がじっと鎖を見ていると

「気になるか?」

男は唇の端をニヤリと吊り上げて、両手の鎖を差し出すようにして見せた。

ジャラリ。

重たそうに鎖が光る。

「それは……?」

「罪人の証だ」

「罪人……」

「そうだ」

男は両手を降ろすと、私を値踏みするかのように目を細めてみた。

これから話すことの範囲を測るように、私が信じられるものか確かめるかのように。

これから聞くことに躊躇いはあった。

男の話はきっと、普通じゃない。

聞けば、私も巻き込まれてしまうかもしれない。

だけど、もう巻きこまれている。

このまま話を聞かないままでいても、きっと気になって忘れられないだろう。

私は意を決すると

「脱獄囚?」

下から男を見上げるようにして、恐る恐るそう聞いた。

首の鎖は引きちぎられたみたいになっているし、枷も付けられている位だ。

元はどこかに幽閉されていたのかもしれない。

男は私の言葉に、おかしそうに首をかしげると

「みたいなものだ」

と、堂々と肯定した。

「ええ!?」

「尤も、俺は今はただの悪霊だがな」

「はぁ!? 悪霊!?」

何言ってるの! この人!?

私は驚くというよりも呆れた。

鏡にも映らないし、不思議なことばかりして見せるから、人間ではないだろうとは思っていたけれど……

「悪霊って、普通自分で言う?」

「何かと問われたから、答えたまでだ。言い方が気に入らなければ、別の呼び名に変えよう」

「何?」

「亡者――」

「も、亡者……」

ようするに男はもうお亡くなりになっているらしい。

「ふ、ふーん……」

私はぽかんと男を見上げた。

ようするに私、悪霊に取り憑かれちゃったわけね……。

今まで、自分に霊感があるなんてちっとも知らなかったけど。

この男が幽霊なら

「ま、とりあえず何も問題は無いわ。入って、入って」

私は気を取り直して、男を促してドアノブに手をかけた。

 

 

  

 

2005.3.30

2008.3.9

2009.11.23