こんな筈じゃなかったのに。
私が小さい頃、思い描いていた未来は。
こんな筈じゃなかったのに。一体どこで間違えたのか、わからない……。
ただ、毎日毎日仕事と家を往復して――
肌はストレスでカサカサになって、心は苛立ちと焦りにカサカサになった。
毎日生きる意味を問いかけていた。
ねぇ。
私は生きるために仕事をしているの?
それとも、仕事をするために生きているの?
いくら問いかけても、答えが出ることは無い。
私だって、もう大人だ。
仕事が楽しいものじゃないんだってことは、わかってる。
お金を貰っているんだから、ちゃんとしなくちゃいけないんだってこともわかっている。
だけど。
上司がああなってからは、いつも自問自答していた。
これでいいんだろうか、って。
このままただぼんやりと時が過ぎていくのを、見送るだけでいいのかって。
答えてくれる人は、誰もいない。
私は、勢いよく音を立てて開かれたカーテンに、不機嫌な声を上げて身じろぎした。
――私を起こすのは誰?
窓のところで、誰かがため息を付く。
――誰?
夢と現をさまよっている私の頭は、まるで泉の中をたゆたうように輪郭がぼんやりとしてはっきりとしない。
私を起こさないでよ。
眠ることだけが、唯一の私の自己防衛なのに。
現実を忘れる手段なのに。
声は容赦なく、私を覚醒へと導く。
「もう朝だ。いい加減に起きろ!」
ため息交じりの、渋い低い声。心底呆れている、そんな感じなのに決して私を見捨てることなく、手を伸ばしてくれる甘く心地よい声――
その声で名を呼ばれるのが、気持ちよくて。
覚醒を促しているのに、少し気だるげな甘い声は、ゆっくりとまた私を眠りへと溶かしていく。
もっと聞いていたい。
このまま、この声に包まれながらまどろみたい。
”彼” は、私が一向に目を覚まさないのに焦れたのか、ため息をつくとゆっくりと遠ざかっていく。
――嫌だ、行かないで。
「待って」
私は声なき声で引き止める。
空気をはさんで傍に立っていた、心地よい体温が離れていく――
ああ、早く起きなくちゃ。
彼を失いたくない。
重たい手を伸ばして、方目を薄く開いた時――勢いよく窓が開かれた!
「寒ッ!」
まだ寒い、キンと張り詰めた三月の朝の風が、一気に部屋に流れ込んでくる!
頭が一気に覚醒する!
私は寒さに四肢を縮こまらせると、また布団の中にもぞもぞと隠れた。
「――仕事になんか行きたくない」
このまま眠っていたいの!
往生際悪く布団の中に頭までもぐって、いやいやと被りを振る私を、声は容赦なく起こす。
「起きろ!」
心地よいぬくもりから、無理やり意識を浮上させられる。
「いい加減、起きろ!」
微かな苛立ちを含んだ声。
目を開けて、一番初めに見えるのは――
「ジャック……」
いつも。
呆れたように私を見下ろす、ジャックの顔。
ああ、そうか。あなただったのね……。
私の部屋には、ジャックがいたんだった。
ふにゃり。
いつもと変わらないそれに、安堵して力の抜けた顔で挨拶をする。
「おはよぉう」
ジャックはますます呆れたように渋面を作って、顔を背けてやれやれと頭を振る。
いつもと同じ。そのことにほんの少しの幸せを感じて、一日が始まる。
私は、まだぼんやりとする頭を振って身を起こすと、力いっぱい伸びをした。
「ねっむー……!」
今は何時ごろだろう?
どんよりと曇った空に、時間の感覚が狂ってわからない。
私は大口を開けて欠伸をしながら、枕元にある目覚まし時計に手を伸ばした。
「あれ?」
時計がない?
「目覚まし時計なら――」
「ん?」
「そこだ」
ジャックの指差すほうを見ると――
「あちゃあ……」
クローゼットの前に、無残に壊れた目覚まし時計が転がっている。
「……ジャックぅ?」
「人のせいにするな!」
「……じゃあ、私?」
まさか、ね。
恐る恐るジャックに言うと、彼はこれでもかという位の渋面をつくって頷いた。
え、うそ! 全然記憶に無いんだけど!
「その目覚めの悪さはどうにかならんのか?」
え。
私は気持ちよくまどろんでいたつもりだったんだけど。
「も、もしかして……また、な、何かしでかしましたか?」
「それを投げつけただろう!? 俺に!」
「ええッ!? これを!?」
指差すと、ジャックは重々しく頷いた。
「あっはっは! だから壊れてるのか!」
いくら心地の良い声だからって、やっぱり眠気には勝てなかったらしい。
ていうか、眠くなるくらいに心地のいい声っていうのも問題があるんだって!
「でも、どんだけ衝撃を与えれば、ここまで壊れるわけ?」
見事に時計は粉砕されている。
私はそんなに力をいれて投げた覚えは無いんだけどな……。
じろじろとジャックの額にタンコブができていないか探してみたけど、それらしいものは見つからなかった。
あ。ジャックの額に青筋が浮かんだ。
ヒクリ、私は口元を引きつらせながらベッドの上で後ずさると、ジャックは子供が見たら気絶しそうな壮絶な怒りの表情を浮かべて、地を這うような重低音の声ですごんだ。
「貴様……侘びの一つもないのか?」
「や、だ、だって、たんこぶとか無いし、私力いっぱい投げたつもりないし……」
「……」
「ジ、ジャックさん、握りつぶすとか、払いのけるとかしたんじゃないの?」
「……」
う。
口を開くたびに、どんどんとジャックの顔の影が濃くなっていく。
「ご、ごめんなさい……」
ついに耐え切れなくなって、私がしゅんと謝ると、ジャックは大きなため息をついた。
「……はぁ。もういいから、さっさと着替えて食事をしてこい!」
「……いやん、えっち」
「ふざけるな!」
条件反射で思わず言ってしまっただけなのに!
何もそんなに赤くなるまで怒らなくったって!
ジャックは口元を手で押さえると、不機嫌そうにぷいと横を向いてしまった。
何よ。私の裸は見るに堪えないってことですか?
あまりの反応にムッっとした私は、パジャマの一番上のボタンに手をかけてひらひらとしながら、つんとした表情でジャックに言った。
「だっていつまでもそんなところにいるから。見たいのかと思って。期待しても見せる気ないけどね」
「ハッ! 餓鬼が何を言っている」
鼻で笑った!?
うっわ、ムカツク!
朝っぱらから無駄に血圧が上昇する。
いっつも人のこと餓鬼餓鬼っていうけど!
私そんな年齢じゃないんですけど!
もう成人した立派な大人なんですけど!
憤慨して掴みかかろうとした私の手を、ジャックはひらりと避けると、急にまじめな顔で私を見下ろした。
「――用意が出来次第でかける。必要最低限の荷物をまとめておけ」
「え?」
急な話題の転換についていけない。私は中途半端に腕を伸ばしたまま、きょとんとジャックを見上げた。
ジャックはそんな私の頭に大きな手を載せると、ぐいと下に押し付けるようにして乱暴にぐしゃぐしゃと髪をかきまぜた。
「ちょ! 何すんのよ……!」
いつもと違う、迷いの滲む声。
まるで自分の表情を見せまいとするように、押し付けられる手のひら。
「会わない方が良かった」って私に告げたのと同じ声――
「ジャック?」
急に心細くなって彼の名を呼ぶと、私は恐る恐るジャックの顔を見上げた。
そこにあるのは、いつもと人を小ばかにしたような冷ややかな顔で――
だから、私は、余計に混乱してぽかんと彼の顔を穴が開くほど凝視してしまった。
ジャックはそんな私を見て、鳶色の目を細めるとつい、と顔をそらした。
「用意ができたら俺を呼べ」
「え?」
そんなこと突然言われても!
何が何だかわからないよ!
戸惑う私をよそに、ジャックは言いたいことだけ言うと満足したのか、すぅと空気に溶けていく。
「ええ!? ちょっとジャック!?」
私は驚いて、ジャックの残像に手を伸ばした。
「いやだ! こんなときだけ、幽霊の振りなんてしないでよ!」
何で!? 今までいきなり消えるなんてことしなかったじゃない!
焦る私をじろりと見下ろすと、ジャックは念を押した。
「いいか? もって行くのは必要最低限のものだけだぞ」
今聞きたいのはそんなことじゃなくって!
「――何でこんなに急に……? どこに行くのか言ってくれなきゃ、用意のしようがないじゃない!」
「……行ってからのお楽しみだ」
「何よそれ! 遠足じゃないんだから!」
必要最低限の荷物?
「って、私剣とか持ってないよ!?」
「――どこに行く気だ……お前は……」
だんだんと薄くなっていくジャックが、消える瞬間脱力したようにつぶやいた。
「出かける? どこに!? ええッ!?」
今まで散々非日常を追い求めていた私だけど。
こんなに突然! それが訪れるとは思いもしなかった!
「もしかして、異世界の扉が今開かれる、ってヤツですか!?」
口に出した瞬間、何だか興奮してきた。
こりゃ大変だ!
私は勢いよく布団を跳ね上げて立ち上がると、ベッドから転げ落ちるように飛び降りて、下に散らかる洋服を拾い上げた。
パジャマを勢いよく脱ぎ捨てる!
ずっとどこか遠くへ行きたいと思っていた。
「私、変われるかもしれない!」
こんな嫌な今の自分とはおさらばして!
生きてるって実感できるような出来事が待っている、そんな世界へ!
何かが始まりそうな予感に、私はどきどきする胸に手を当てた。
ジャックが開け放していった窓から、新しい風が入ってくる。
私は深呼吸すると、急いで部屋を飛び出した!
2005.6.7
2008.3.9
2009.11.30
(着替え終わった後気が付いたけど、窓開いてた……!)