風が冷たい。

グングンと太い足で力強く空を駆け、斜めに飛び上がる獣に、私は必死に悲鳴をかみ殺して歯を食いしばっていた。

飛行機が離陸する時、心臓がフワリと浮かび上がるけど、あんなものの非なんかじゃない!

だって、シートベルトも自分の体を覆ってくれる物も何も無い、直に風と重力を感じるんだよ?

バクバクとうるさい位に心臓が胸を打ちつけ、背骨に沿って背中がスッと冷たくなる。

私はただ、無我夢中で獣の首に縋り付くしかなかった。

ふわふわの長い鬣が、風にぐしゃぐしゃとかき混ぜられ、ぴしぴしと頬を額を打ち付ける。

でも、そんなのにかまっている余裕なんかない!

一瞬でも気を抜けば、フウッと意識が飛びそう!

今にも気を失いそうなほど怖いのに、切り裂くように冷たい鋭い風が嫌にリアルで、それだけが私の意識を繋ぎとめている。

この手を離したら、空中にまっさかさまに落ちるんだ!

そう思うと、おちおち気絶もしていられなくて、私は一層強く獣にしがみついた。

 

もうどのくらいの高さまで上ったんだろう?

怖くて目を開ける勇気は無い。

スカートは三月の湿った風にばたばたと勢いよくはためき、裾から覗く足首がスースーする。

もし、もしもね。後ろにジャックがいなかったら、重力に引かれて私の体はとっくに後ろに倒れて、空中に投げ出されていただろう。

背中に当たる暖かなたくましい胸が、私を守るようにそこにあるのが心強い。

風に音なんか無いはずなのに。

獣が長い足で駆けるたびに、耳元でゴウゴウとうるさい位に唸り声を上げている。

それはまるで冷たい風が、 「これは夢じゃないよ」 って告げているように、私には思えた。

これは夢じゃない。

獣が足を動かすたびに、肩の骨が太ももの下で力強く動くのを感じる。

顔を埋める獣の青白く靡く鬣は、まるで炎のような暖かい匂いがする。

私は大きく息を吸った。

うん、少しだけ心が落ち着いてきた。

私の体の両脇から伸びるジャックの腕も、何もかもがこんなにもリアルで存在感がある。

これが、私の求めていた非日常の冒険なんじゃないの?

 

そりゃあ、ね。こんなにも高いところを、周りを何も囲うものがない状態で飛ぶのは怖いけど。

でも、こんな事でくじけてもいいの?

まだ、私は自分の町を出てすらいないのよ?

冒険に出る前から、怖気づいてどうするのよ!

私は自分を叱咤すると、一度ギュッと目を閉じて、思い切って開いた――!

 

「う、わぁ――ッ!」

その光景を何と表現したらいいんだろう!

下に広がるのは、小さくなった私の町!

まるでクリスマスのイルミネーションみたいに、真っ黒のビロードみたいな闇の中、色とりどりの光が動いている。

私は恐怖も忘れ、それに魅入った。

時折薄い雲を突き抜けながら、獣はすごいスピードで空を駆けていく。

上がろう――

上がろう――

まるで空を駆けるのが楽しくて仕方がないというように、獣の心臓がそう歌っているのが聞こえる。

その声にひきづられるように、私の心も次第に高鳴ってきた。

私はジャックの胸に、ぐいともたれてキョロキョロと見回した。

ああ! 風にかき乱される髪が、視界を遮って本当に邪魔!

苛々と頭を振って髪を受け流して見えたのは ―― 見渡す限り一面に浮かぶ、満天の星空!

上にも下にも、数え切れないくらいの星が浮かんでいる!

私は、その荘厳な光景に息をするのも忘れて、呆然と目を見開いた。

感想なんて、すぐには出てこなかった。

なんて、なんて綺麗なんだろう……!

ぽっかりとした心に、それだけが浮かんでくる。

星空に包まれている……!

チカチカと呼吸するみたいに瞬く星は、手を伸ばせばどれも掴めそうで――

私は誘われるように、無意識に空に向かって手を伸ばしかけた。

耳元で、ジャックのあの独特な、ちょっとかすれた甘い低い声がする。

「しっかり掴まっていろ。落ちても知らんぞ」

その声に、私はハッと我に返って、慌てて腕を引っ込めた。

そうだ!

私、今空を飛んでいるんだった!

 

 

……空を飛ぶ?

ハッとした瞬間に、またじわじわと喜びが湧き上がってきた。

「すごい!」

飛んでいるのよ? 今! 私!

見て!

町がゆっくりと流れていく!

遥か下のほうの道路を行く車の列は、川の流れのようにゆるやかで、キラキラと青く赤く輝いて、ずっと長く続いている。

小さい頃通った小学校も、友達の住んでいるマンションも追い越して――ぐんぐんと景色が走っていく!

飛行機の窓から見下ろす景色は、何だか嘘みたいにちっぽけで模型じみていたけれど。

今、こうして見下ろす町は、偽物なんかじゃなくって限りなく存在感のある現実だった。

神聖な光り輝く、白い獣!

遥か下のほうに輝く、小さな町!

道路を、ちかちか光る真珠の首飾りみたいに、ずっと車が連なっている。

家の窓には赤々と光がともっていて、商店街のイルミネーションも看板もはっきりと見える!

 

耳元で、びゅうびゅうと風が通り過ぎていく!

風はこんなにも冷たいけど。すっぽりと私を包み込んでくれるジャックの腕の中は暖かくて、心の中にじわじわと安堵が広がっていく。

私はほっと息を吐いた。

ゆっくりと獣の首に預けていた体を起こして、後ろにジャックの体があるのを確かめながら、そろそろと鬣に指を絡ませる。

暖かい……。

不思議。ぎゅっと抱きついていた時は気づかなかったけど。

こうしてそっと首に触れていると、力強い獣の鼓動を感じる。

生きているんだ――。

私はそのことに物凄くびっくりして、それから嬉しくなった。

「ジャック!」

私はわくわくと高鳴る心に任せて、ジャックに呼びかけた。

「何だ?」

「ねぇ!この子、何て言うの?」

「――ヒポグリフだ」

「ヒポグリフ……グリちゃん?」

「……ヒポグリフは名前じゃない。種族の名称だ」

「じゃあ名前は?」

何気なく聞いた、その質問の何が悪かったんだろう?

ジャックは器用にぴくりと片眉だけ上げて見せると、憮然とした声で言った。

「命が惜しければ、人間以外のものに名を問うことはやめることだ」

「どうして?」

冷たい物言いに、今までのふわふわとした気持ちが一気にぺしゃんとつぶれる。

だから自然と私の声も固くなる。

水を差されてムッとした声で言うと、ジャックはそんなものも知らないのかと呆れたような顔になった。

「精霊の類のものは、名を呼ばれることを良しとしない。うっかり名を聞けば、お前を殺そうと襲ってくるものもいるだろう」

「ええッ!?」

「精霊たちにとって、名は特別なものだ。人間が精霊の名を呼ぶということは、命令を下すのと同等のことになる。精霊は力を貸すと決めたもの以外は、決して名を呼ぶことを許さない」

「ふーん……」

何だかぴんとこない。

私の表情を読み取ったのか

「名前とは、その精霊を打ち負かし主従関係を結ぶ際に、主人が与えるものだからな」

ジャックは子供に教えるみたいに、丁寧に付け加えた。

「名前を教えろというのは、その主人に宣戦布告し、自分が新たな主人になるために精霊に戦いを挑むということだ」

「……そ、それは気をつけなきゃ」

ヒポグリフと戦うはめになったら、絶対に私に勝ち目は無いもんね。

しかもその主人たるジャックに宣戦布告をするとなれば、なおさらだ。

今後一切、精霊に名前を聞くのはやめよう。

私は心にそう誓った。

あ! でも……

「ジャックは? ジャックも今は悪……精霊みたいなもんなんでしょう? 私に名前を教えてもいいの?」

それとも!

「ジャックって、種族の名前ー?」

からかうように言うと、真上から氷のように凍てつく冷たい視線が降ってきた。

「……す、スミマセン」

強面だけに迫力がある!

私は居心地が悪くなって、体を縮こまらせるともぞもぞと前に移動した。

うーん……ジャックの不機嫌のキーワードって、いまいちよくわからない。

図星を指されて不機嫌になった、とかじゃないよね?

それ以前に、ジャックを精霊扱いしてもいいのかどうかわからないけど。……私にとっては似たようなものだし……。

「まさか、私を殺す理由にするために。名前を教えたんじゃないよね?」

ハッと最悪な展開が浮かび上がって、思わず考えていることが口からこぼれた。

慌てて口をつぐんでももう遅い。

ジャックの腕がピクリと動いたかと思うと、さっきまでの比じゃないくらいの重たい威圧感が上から襲ってきた。

「安心しろ。お前を殺すつもりなら、とっくにやっている」

「え?」

私の言葉が悪かったのは認めるけど!

そんな地を這うような低音の不機嫌な声で言われても、ちっとも安心できないんですけど!

でも、不満を口に出すことはできなかった。

すっかり不機嫌になったらしいジャックは、馬を急かすような声を獣にかけて腹を蹴ると、獣は大きな声で咆哮して、身を縮めたかと思うと飛び上がるようにして空を駆け始めた からだ!

「う、わ――ッ!」

グン――!

急発進に体が後ろに引っ張られる!

私は慌てて、また獣の首にしがみついた!

――なんだか……不機嫌な振りをして、はぐらかされたような気がするんですけど……

だけど、このスピードに後ろを向くこともできず、ジャックが今どんな顔をしているのかはわからない。

眉間に皺を寄せて、物騒な顔をしている?

それとも――。

振り返ってみなくても、私の後頭部に黙って向けられ鳶色の瞳は、言葉にできない複雑な感情がぐるぐると浮かんでは消えているような気がした。

 

それきり私たちは無言になった。

 

黒い雲を突き抜けるたびに、細かい水の粒が全身を包み込む。

薄い雲の切れ間から、時々町の灯りが幻のように見えては消えていった。

また分厚い雲の中に入った。

一面がうっすらと藍色の霧に閉ざされる。

私は急に心細くなって、獣の毛の深い逞しい首に、ぎゅっと体を押し付けた。

あの、夢で見た黒い泉が頭に蘇る。

「――」

「な、何?」

だから、ジャックが話しかけてきた時、すぐに反応することができなかった。

居心地が悪いと思っていたのは私だけだったのか、耳元で意外にも、いつもと同じ気だるげなジャックの声が聞こえて、私はびくりと肩を揺らした。

「上を見てみろ」

「、上?」

こんなに視界の悪い中、一体何を見せたいんだろう?

余所見をするのは、落っこちそうで不安なんだけど……。

躊躇う私の気持ちが伝わったのか、腰に回されていたジャックの腕に力がこもった。

「どうせお前は見たことがないんだろう?」

「な、にを?」

「見ればわかる」

クスクスと、笑いを含んだ子供みたいな声。

何をもったいぶっているんだろう?

ジャックの声に好奇心を刺激され、私は促されるままに上を見上げた。

 

 

  

 

2005.6.11

2008.3.9

2009.12.17