振り落とされるかもしれない恐怖より、好奇心が勝った。

促されるまま、恐る恐る空を見上げて――

「……何?」

そこに何も見つけることができず、私は眉をひそめた。

私たちの周りは、分厚い雲に覆われている。

ジャックは一体何を見せたかったんだろう?

戸惑いながら、目を凝らして辺りを見回してみても、珍しいものは何もない。

ただ時折――飛行機が飛んでいるのか、ちかちかと雲の中が光るだけで、10m先どころか1m先だって見えやしない。

「ジャックぅ?」

期待していた分、何だかだまされたような気がして私は恨みがましく彼を振り仰いだ。

「上だ。そら……」

「上……?」

一体何があるって言うの!?

むぅと眉をひそめて、スと伸ばされたジャックの指を追うと、

「な、何っ!? あれッ!?」

私の目にそれは唐突に飛び込んできた!

何だろう!? あれは。

雲が薄くなっている部分がぼんやりと黄色く透け、いくつもの大きな丸い光が見える。

「ジャック!?」

巨大火の玉?

UFO!?

私は驚いて声を上げた。

その光は丁度人間くらいの大きさの球体だ。

「雲が切れるぞ」

ヒポグリフの鬣が、私の頬をくすぐった。

サァ――……

風が薄い雲を吹き払い、切れ目から一瞬光の正体が見える!

光る人が!

「な、何あれ!? ゆ、幽霊!?」

私は息が止まるほど驚いて、思わずヒポグリフから転げ落ちそうになった。

慌てたジャックの腕が、力強く私の腰を捕まえる。

頭の上で、ほっとした様にジャックがため息を付いたが、私はそれにかまう余裕なんてなかった。

 

だって!

5、6人の女の人が、ひらひらとした服を風になびかせ、楽しそうに踊りながら歌っているんだよ!?

まるでベールのようにまとった薄い雲から、涼やかな美貌が透けて見える。

驚くほどの白い、すらりと長い皇かな二の腕。

彼女たちの服についているのか、髪飾りについているのか。彼女たちが動くたびに、涼やかな鈴の音が聞こえてくる。

私はあまりのことに、ぽかんと口を開けて空を舞う乙女たちを見つめていた。

「あれは、風の精霊たちだ。一日中ああして遊びながら旅をしている」

「シルフ!?」

「そうだ」

うそッ!

シルフだなんて!

「すごい! ほ、本当にいるんだッ!」

私は興奮に上ずった声を上げて、腰に回されたジャックの腕をぎゅっと掴んだ。

長い金の髪を風になびかせ楽しそうに笑う彼女たちは、人間とは比べ物にならないくらい上品で美しく光り輝いていた。

確かに目の前に存在しているはずなのに、幻のように透明で儚く――だからこそ、一層美しく感じるのかもしれない。

身体の内側から光を発しているように、月光のような薄い光のベールを纏っている。

そのあまりの美しさに、私は息をするのも忘れうっとりと、彼女たちの歌声を聞いた。

英語でもない、もちろん日本語でもない――

心に染み渡るような、魂の奥に囁きかける、懐かしい言葉――

知っているはずの言葉なのに!

私が生ある人間だからこそ、生まれる前に忘れてしまった言葉……

天上の音楽。

私にはその言葉がそう感じられた。

心の深いところでは知っているのに。懐かしいそれを理解することができない。

それがもどかしくて、私はジャックの腕をぺしぺしと叩くと、彼女たちから目をそらさず彼に言った。

「ね、ねぇ! シルフたちは何て歌っているの!?」

興奮する私とは違い、呆れたようなため息交じりのジャックの声が頭上から落ちてくる。

「         」

私はその言葉を聴いて、ぱぁと顔を輝かせると、うっとりとシルフたちを見つめた。

手に手に花籠を持ち、くるり彼女たちが回るたびに、雪のようにひらひらと花びらが地上に舞い落ちる。

蓮華の花輪、白妙の服には春の花々の刺繍がちりばめられ、裸足の足首には色とりどりの愛らしい木の実でできたアンクレットを付けている。

 

それは、偶然が引き寄せた邂逅だった。

 

時間にすれば、ほんの僅かな時でしかなかっただろう。

「ああッ! ああ、見えなくなっちゃう! 見えなくなっちゃう!」

また薄い雲に精霊たちの姿が霞み始め――

ついに、視界が雲に閉ざされてしまった。

「ああっ……もっと見たかったのにぃ……」

意気消沈して肩を落として言うと、ジャックはちろりと私のつむじを見下ろした。

「……見るのはかまわんが、あれを絶対に刺激してはならんぞ」

「何で?」

「あれは風の精霊だ。怒らせれば風は刃となり身を切り裂き、嵐の集中攻撃を受けることになる」

「ふ、ふーん……」

名前を読んじゃダメ。

怒らせちゃダメ。

精霊にはタブーが多い。

でも……。

「風の精霊かぁ……」

まさかこの目で見ることができるとは思いもしなかった!

私は感動をかみ締めながら言うと、ふと思い立ってジャックに言った。

「ねぇねぇ! シルフってどこから来て、どこに行くの?」

「それは知らん。風神が命令することだ」

「風神!?」

私が声を上げると

「風神を知らんのか!?」

ジャックは心底驚いたような声を上げた。

「それでは、お前は風がどこで生まれるかも知らないのか?」

「知らないよ。そんなこと考えたこともない」

「じゃあ、雨や風。この世で一番初めに咲いた花のことは?」

「知らない」

「……なんと言うことだ」

私が首を振ると、ジャックは大きなため息を付いて額を押さえてしまった。

「全く……お前は何も知らんのだな」

「う……だって……そんなこと、学校で習ったりしないもん」

風や雨については調べればわかるかもしれないけど……。

でも初めて咲いた花とかは、今の技術ではまだわからないと思う。

風神なんかに関しては、もう宗教や伝説の類になるだろうし……

私も眉間に皺を寄せると、うーんと唸った。

こんなに素敵な空の散歩なのに、二人揃って難しい顔をするなんて、なんかもったいない気もするけれど。

ジャックの常識と私の常識の間には、越えることのできない壁がある。

少しでもその壁を破りたくて、そろりとジャックを振り返ると、彼は眉間に皺を寄せたまま、鳶色の目で私をじろりと見た。

「……風はこの世のどこかにあると言う、風神の城で生まれる」

「ぅえッ!?」

早速のファンタジー来たッ!

「その城がどこにあるのかは、誰も知らない。長い間旅をしているが、俺も見たこともないしな」

「……ふーん。じゃあさ、あのシルフの一人を捕まえて聞いたら、案内してくれるかなぁ〜?」

「死にたいのか!? お前はッ!」

「じょ、冗談です……」

あまりのジャックの剣幕に、私は慌ててそう言った。

捕まえられるわけないじゃん。

ちょっと言ってみただけなのにさぁ……。

「おい。さっきも言ったが……」

「わかってる! わかってるよ! 精霊にあんまり関わらないように、でしょ!?」

慌ててジャックの台詞を遮ると

「本当だろうな……?」

よっぽど信用がないのか、ジャックは目を細めるとげんなりとした顔で呟いた。

 

 

 

目覚めよ

目覚めよ

春の子よ

植えよう 植えよう

五月の種を

 

 

薄い雲の向こうから微かに聞こえていた、彼女たちの鈴の音は、もう聞こえなかった。

 

 

 

  

 

2005.6.13

2010.6.9