それから何時間くらい飛んでいたんだろう?

「寒いしっ! 腰痛いし! もうダメ……」

私は息も切れ切れにそれだけ言うと、砂浜にダイブした。

 

あれから雲の中を飛んで、黒い海を越えて、私たちは小さな島へやってきた。

ここがどこかなのかはわからない。

だけど随分遠くまで着た気がする。

空はまだ暗く、太陽が昇りそうな気配はない。

もしかしたら、私たちは知らない間に日付変更線を超えてきたのかもしれない。

私たちの一日は、3、4時間くらい得をして、27.8時間になっているのかもしれない。

それくらい私は疲れ果てていた。

ずっと同じ姿勢でヒポグリフに乗っていたせいで、腰だけじゃなく腕も足もごわごわになっている。

髪の毛ももちろんぼさぼさで、雲を突き抜けるときにまとわりついていた水滴に、服はぐっしょりと濡れて肌寒かった。

「うう……砂があったかいよ……」

ここは多分だけど、南のほうにある島なんだろう。

ぽっかりとした空白地帯になっている黒い砂浜の向こうで、サワリサワリ、椰子の葉が音を立てて揺れている。

私はのそのそと四つ這いになって砂浜を進むと、そのままぐったりと寝転んで、砂を自分の上にかけて少しでもあったまろうとした。

ジャックが呆れた様な目で私を見下ろしているけど、今更取り繕う余裕なんてないわ。

身体が芯から疲れきっている。

指一本たりとも動かすのが億劫だ。

「うー……」

私は低く唸ると、今にも瞼が落ちそうな目をこすった。

こんな所で寝ちゃダメだ。

そんなことわかってるけど……。

だからと言って、今からどこにあるともわからない宿屋を探して歩く気力はなかった。

もうどうにでもなれ!

半ばやけになって砂浜に頬を押し付けたまま、真横に広がる空を眺めると、そこには無数の星が輝いていた。

「う、わぁ……!」

(天の川だって見つけられそうな……)

見たこともないくらいの満天の星!

これは夢だろうか? 私はもう夢を見ているんだろうか?

空にこんなに沢山の星があるなんて、知らなかった。

空気が澄んでいるのだろう。星空がとても近く感じる。

私はしばらくそのまま空を見ていたが、ブルリと身体を震わせて我にかえった。

いくら南の国とはいえ、今はもう夜中だ。

風は多分温かいんだろうけど、冷え切った私には冷たく感じる。

私は砂に頬を押し付けると、四肢を縮こまらせた。

(ああ……潮騒が聞こえる……)

島を包む潮風は、少し湿っていて海の香りがする。

 

思えば今日はハードな一日だった。

突然ジャックに出かけることを告げられ、急いで荷物をまとめたり。引きこもりがちだったのに、何時間もヒポグリフに乗って移動させられたり――

こんなに行動的になったのは久しぶりで、私は物凄く疲れていた。

だけど、不快ではない。心地よい疲労感にまかせ目を閉じると、すぐにうつらうつらとなってきた。

! 起きろ。寝るんだったら濡れた服を脱いでからにしろ!」

耳元でジャックの声がする。

頬をぺちぺちと叩かれる感じがする。

「眠い……」

寝てるんだから、邪魔しないでよ!

私は顔をしかめてジャックの手を払いのけると、寝返りを打った。

「もういい……勝手にしろ」

ため息交じりにジャックが呟く。

それと同時に、砂浜を踏みしめる彼の足音がだんだんと遠のいていく。

その音を最後に、私は――眠りに落ちていった。

 

ふわふわと。

身体が浮き上がるのを感じた。

ぱちぱち。

何かが弾ける音がする。

潮騒は相変わらず止むことなく繰り返していて。私はぬくもりを探して、腕をさまよわせた。

「ふ、とん……」

どこ?

伸ばした指に触れるのは、暖かくて硬い――人のぬくもり。

「さむい……」

夢うつつで呟くと、頭の下で枕が遠慮がちに動いた。

ばさり。

何かが私の上にかけられる。

ああ――。

私は腕の中にいるんだ。

――誰の?

暖かくて逞しいその身体に身を寄せる。

(父さん?)

子供の頃、日向で抱きしめあって転寝した頃を思い出す。

安心する体温に、ゆるりと握っていた手から力が抜ける。

だけど。

父さんはこんなに大きかっただろうか?

この人は、サラリーマンだった父さんと違って、どことなく野生的な感じがする。

私はまどろみながら、違和感に首をひねった。

私にかけられているのは、布団じゃない。コートか何かだろう。

夢と現をさまよいながら、冷静に私は考えていた。

頭を動かすと、耳元で重たい音を立てて鎖が動いた。

――ジャックだ。

雨に濡れた子犬をコートの中に入れるように、私はジャックの腕の中にしまわれている。

ぱちぱちと。

焚き火の懐かしい音がする。

木が燃える匂い。

落ち葉が燃える匂い。

懐かしくて――ふいに哀しくなった。

どうしてだろう?

胸の奥がぎゅっと切ないんだ。

私は腕を伸ばして、ジャックに身を寄せた。

背中に感じるのはジャックの大きな手のひら。炎のぬくもり。

無くしたくはない。もう、無くしたくはないの。

どうしてそう思うのかはわからない。

だけど寂しくて――哀しくて……ジャックの服を握りこんで胸に顔を埋めると、かすかにタバコの匂いがした。

「――ジャック……?」

ふいに口を出た言葉は、かすれて震えていた。

だんだんと覚醒してきた意識に、抵抗を続ける瞼を持ち上げると、ジャックの黒い髪越しに海が見えた。

 

ひっきりなしに繰り返される潮騒。

砂浜に泡立つ飛沫。

ジャックも眠っているのだろうか? 私の首筋に顔を埋めていて、呼びかけても答えてくれない。

ジャックの両手首は鎖でつながっているから――抱きしめられている私の背中にも鎖が回っている。

彼は私の背中に鎖が当たらないよう、肩に頭を乗せてくれていた。

大きなジャックの身体にすっぽりと包まれながら、奇妙なほどすっきりとした頭で、私はぼんやりと水平線を見つめていた。

ああ。

泡がはじける音がする。

星が沢山輝く空は、海よりも明るい紺色をしている。

バナナの葉が、風にざわざわ揺れている。

まるで宇宙の真ん中に、投げ出されたみたい。

空には見たことがないくらいに無数の星が瞬き、私は流れ星を探してじっと宙を見上げていた。

焚き火から昇る煙は、風に流され私の視界には入らない。

ただその匂いが。潮の香りに混じって、存在を主張しているだけだ。

火のはぜる音と、ぼんやりとした温もりが。背中に、まだ少し濡れた髪に心地よい。

 

「……明日はどこまで行くんだろう?」

小さく呟いた疑問にも、ジャックは答えてくれない。

恐る恐る指を伸ばして、癖のある黒い髪に触れてみる。

大きな背中――。

太い首は髪に隠れていて見えない。

私は流れ星を見つけると、彼に聞こえないよう唇だけを動かして小さな声で祈った。

 

私たちの平安を邪魔するものは、誰もいなかった。

 

 

 

  

 

2005.6.15

2010.6.10