死の知らせ

 

※流血表現注意。

 

「……何だぁ? これ……」

楠は姿見の前で片肌を脱いで首を捻っていた。

左肩に、何やらあざのようなものができている。それも三ヶ所――。

どこかにぶつけたか、と考えてみたが思い当たる節はないし、何よりあざの形が普通じゃない。

まるで文字のような――かといって何と書いてあるのかは読めなかったが――が三つ並んでいるのだ。

「何だろう? これ」

腕を組んで一生懸命思い出してみる。

鬼になったとはいえ、外見は人であったときとさほど変わってはいない。

強いて言えば、髪型と目の色が変わったくらいか。

最近あった変わったことといやあ……。

九十九神を調伏したときに、安部が放った鳥が肩にとまったことくらいしか……。

「アレか!」

楠はやっと合点がいったように頷くと、もう一度しげしげとあざを眺めた。

あの時安部は、パワーアップをしてあげる、と言っていた。

と言う事は、このあざはなんらかの意味を持った術式なのだろう。

そういえば、あの鳥が体の中に入ってきた時。内側から噴出すような力を感じた。

「強くなったンかな? 俺……」

拳を握ったり開いたりしてみたがわからない。

 

初夏の風は庭木を揺らし、爽やかな緑の香りを部屋の中に運んでくる。

誰か客でも来ているのだろうか?

隣の部屋からは話し声がする。

楠は着物を正すと、安部に呼ばれて隣の部屋に向かった。

「――では先生、どうぞよろしく頼みます」

「お願ぇします!」

丁度客は帰るところだったのだろう。ヤクザの親分らしき角刈りの男が頭を下げると、さらしを巻いた見るからに柄の悪い数人の手下達が野太い声をそろえて頭を下げた。

初老のヤクザにしては品のある恰幅のよい親分は、じろりと楠を一瞥すると小さく会釈をして手下を引き連れて帰っていく。

「今度は何の依頼ッスか?」

「んーとね、何でも毎晩一人ずつ死んでいくから、何とかして欲しいって言ってたよ」

安部のところへは、こうした依頼がちょくちょくくる。

「毎日一人ずつぅ?」

「そ。昨日までに五人やられたって」

「うげぇ」

楠が舌を出して顔をしかめると、

「夕刻になったら出かけるから。そのつもりで、ね」

阿部は腕を組んで、去っていく客の後姿を庭木越しに見ながら言った。

 

男の名は源次郎と言った。

賭博場を仕切っている親分だという。

怪異が起こり始めたのは、今から五日前。

どこかで犬の遠吠えが聞こえたと思った瞬間、手下の一人が何かに怯える様に叫び、首を掻き毟ってもがき苦しみ始めたという。

初めは、病か何かだろうと気にしていなかった源次郎だったが。

次の日も同じようにして、手下が一人口から血の泡を吹いて死んだのを見て、医者を呼び全員を診察させた。

その結果。

自分を含め、手下達には何の異常も見られず、健康そのものだという結果が出たが――。

その夜、また一人死んだ。

賭博をしている最中のことだった。

締め切った部屋に男の魂消るような悲鳴が響き、

「見ろ!」

客の一人が、何かに気付いて壁を指して叫んだ。

行灯の灯に照らされ、大きく引き伸ばされた影――

「何でぇ? ありゃァ!?」

源次郎は我が目を疑って、床を蹴って立ち上がった。

もがき苦しむ男の上には、何もいないはずなのに。

壁に映る影。そこには、男の上に大きな犬が乗っているではないか!

「呪いだ!」

誰かが叫んだ。

その場はパニックになり、客は自分が呪われるのを恐れて、クモの子を散らしたように逃げていく。

もがき苦しむ男が、断末魔の悲鳴を上げる!

ハッとその場の空気が凍りついた。

喉元をかきむしり、悶死した男の上にはやはり何もおらず。

犬の影も消えていた。

 

「話を聞く限りでは、どうも犬神のようだね」

安部は件の賭場場に着くなり、ひくひくと鼻を動かして辺りの空気をかぎながら言った。

「犬神って?」

「犬を殺してね。自分の使い神にした――まぁ一種の外法だね。呪いたい相手のもとへこの犬神をやって、殺させるんだ」

「……今日も来ますかねぇ?」

「たぶんね」

おそらく呪いの対象は、特定の人物ではなく――

「賭博で不幸になった人が、呪ってるんじゃないかな?」

だとすれば、賭博にかかわった者全員を皆殺しにしてしまわぬ限り、呪いは終わらないだろう。

扉の前に立つ二人の見張りの男は、安部を見て待ってましたとばかりにサッと扉を開く。

悠々と小屋の中に入って、安部は辺りを見回した。

中には十畳ほどの板間が広がっていた。

小さな行灯の灯りは四つほどしかなく、部屋に落ちる影は濃い。

役人に見つかるのを恐れて、窓はすべて閉ざされている。

中には顔色をなくした十人ほどの荒くれ男が寿司詰めになって座り、その上座には腕を組んだ源次郎がどっかりと腰を下ろしていた。

「先生!」

「先生!」

いかつい顔の男達は、血の気の引いた紙のような白い顔で、安部を見て縋るように声をかけてくる。

「それでは、お願いします。先生」

源次郎が手を付いて軽く頭を下げて言うと、安部は頷いてその場に腰を下ろした。

 

時が過ぎるのが遅い。

男達は喉を引きつらせてつばを飲み込んだり、そわそわと落ち着きなく座っている。

額には脂汗が滲み、そこに源次郎が無言の圧力をかけて据わっていなければ、男達は皆尻に帆をかけて逃げていただろう。

安部はじっと目をつぶっており、楠は初めて来た賭博場に、好奇心一杯にキョロキョロとしきりに頭を動かして感心している。

行灯の火が、ジジとかすかな音を立てた。

何人の男が飛び上がっただろう。

 

どこかで犬の遠吠えが聞こえた。

 

男達は引きつった悲鳴を口の中であげ、すがるように安部を仰ぎ見た。

「みちる」

「はい」

いつでも抜けるように刀に手をかける。

隣に座っている男の心臓の音が、途端に速く大きくなったのが伝わってきた。

ひた。

男の額から、音を立てて汗が床に落ちる。

今か今か、心がはやる。

鼓動が速くなり、楠はジリジリと一秒を数える。戦いの前の高揚感!

「来た!」

呟いた楠の声に、男達が飛び上がった!

膨れ上がる妖気!

小屋をとりまく、殺気は目に見えるほどに濃い!

獣の匂いがする!

「まだだ!」

鋭く安部が制する。

獣はまだ小屋に入ってきてはいない。

しっかりとひきつけなければ、逃げられてしまう。

今日は誰が殺られる?

男達の間に緊張が走る。

犬が吼えた!

「みちる!」

「ぎゃぁああァッツ!」

源次郎の右隣の男が突然悲鳴をあげ、もんどりうって倒れる。

楠が弾かれたように駆け寄り、刀を閃かせる!

部屋に響くのは安部の詠唱!

男達は金縛りにあったように身体がすくんで動かない。

恐ろしい悲鳴がこだまする。

楠が刀を返して切りつけた瞬間――!

犬が甲高い悲鳴を上げた!

「今の……」

確かに斬った感触があった。

体の奥から湧き上がる、確かな力に楠はニィと片頬をあげて笑う。

「影を!」

源次郎が叫んだ。

犬は男から飛び退って離れたが、まだ牙をむいてうなっている。

何と大きな犬だろう!

実体はない。ただ、影が犬の居場所を伝えている。

安部が男を腕に抱え、すぐさま呪を唱えると、男の顔色が見る見るうちに安らかな物になった。

「せ、んせ、い……」

「もう大丈夫だ」

あとは楠に任せておけばいい。

落ち着き払った安部を見て、腰を浮かした男達は顔を合わせてその場に座ると、犬は断末魔の悲鳴を上げて姿を消した。

「……殺ったのか?」

壁にはもう、犬の姿はない。

男の一人がつばを飲み込みながらようよう口を開くと、安部は難しい顔をして頷いた。

「これは犬神、呪いの一種です」

「呪い」

男達がざわめく。

「呪いに使われた犬はもう死んでいるため、これ以上殺すことはできませんが……」

楠が刀を鞘にしまった。

「今頃、呪った相手の所には逆薙ぎがいってンだろうさ」

「そう。呪った相手は、もう生きてはいないでしょう」

「さか、なぎ……?」

男が怖々聞き返した。

「我々に術を弾き返され、呪いの対象を失った犬神は――代わりに呪った相手の所へ行って命令を実行する。それが逆薙ぎです」

「人を呪わば穴二つ、ってね」

あっけらかんと言った楠を、化け物を見るような目で男達は見ると、

「これに懲りたら、もう人には恨まれるような事はしないでくださいね」

阿部はにっこりと笑って立ち上がった。

 

男達は言葉を失って、去っていく安部と楠を呆然と見送った。

理解を超えた物に対する恐れが、胸中に渦巻いていた。

彼らは朝になるまで一言も発することができず、魂の抜けたようにただただそこに座っていた。

 

「なぁ、ご主人! 俺ってなんかパワーアップしたみたいよ?」

「へぇ。そりゃあ頼もしいね!」

去り際に聞こえてくる安部と楠の会話が、ただ空恐ろしかった。

 

 

 

2006.12.20