たまご

 

 

その日、とうとうはへそを曲げてしまった。

あまりに雪丸が惚気すぎたからである。

初めは術を唱えるときの心構えだとか何とかを話していたはずなのに、いつのまにか例の嫁自慢が始まってしまい。

気がつくと、はぷいと横を向いてうんともすんとも言わなくなってしまった。

慌てて色々機嫌を取ってみても、頑としては雪丸を見ようともせず、もてあました彼は困り果てて牡丹を探しにどこかへ行ってしまった。

「……なによ」

部屋の片隅で膝を抱えて、額を押し付ける。

窓の向こうから聞こえる、町娘達の笑い声が腹立たしかった。

「なによ」

幸せそうな雪丸の笑顔。

何もかもが気に入らない。

人の幸せほど、妬ましい物はない。

どうして幸せなのは他人であって、自分ではないのだろう?

花街にいる女達は、みんな同じだったのに。

美しく着飾っていても、幸せだった女などいない。

幸せと言う言葉自体、初めから存在しなかった。

は唇をかんで耳をふさいだ。

どうして笑っているの?

何であの娘が私じゃないの?

怒りにも似た悲しみが押し寄せてくる。

頭の心がボゥと熱い。

花街から出さえすれば、幸せになれると思っていたのに。

どこに幸せはあるのだろう?

どうすれば幸せになれるのだろう?

きつく閉じた目に浮かぶのは、夜尚明るい花街と――

ずらりと並んだ、赤い格子の中に座る美しい女達。

 

は五歳でこの世界に足を踏み入れた。

一歩大門を入ると広がる別世界に。

は小さく息を吐いた。

あの驚きを、今も鮮明に覚えている。

赤、赤、赤の洪水!

見たこともない摩訶不思議な世界。あまりの衝撃に足が震え、手を引っ張られながら歩いていても、どこかふわふわと夢の中を漂っているようなおぼつかなさを感じていたのを覚えている。

赤い灯篭には煌々と灯りが燈り、祭りのようにたくさんのぼんぼりが並んでいた。

なんて美しいところ……。

通り過ぎる女達は皆美しく、男達は楽しそうに笑いながらすれ違っていく。

夢の世界のようだった。

自分と同じくらいの子どももたくさんいる。

赤い着物を着て、おかっぱ頭で。門の前にたくさん並んで、男がやってくるたびに駆け寄って袖を引いている。

真っ赤な格子の中から真っ白な腕を伸ばすのは、花のような香りを漂わせる女達。

闇の中に浮かび上がる赤!

彼女の紅の色、格子の色、並んだ灯篭の色!

柳の葉はそよぎ、そこかしこから楽しそうな三味線と太鼓の音が聞こえてくる。

は圧倒されながら歩いていた。

そして――。

自分も夢のように美しい、花魁に付いたとき。

覚った。

ここは美しい地獄だと。

自分達は花魁の世話をする。

花魁は借金を重ねて、自分達に着物や化粧道具を与える。

がんじがらめに金に縛られ。

身請けしてくれる旦那を、血眼になって捜し求める。

男を縛る甘い言葉。甘い誘惑。

男は女に溺れ、女は金にもがき。

毎日毎夜、どこかで喧嘩が起こり。

毎日毎夜、花魁と客の仲直りの杯が交わされる。

なんて愚かな喜劇!

それでも――。

ここから出さえすれば、幸せになれると思っていたんだ……。

自由になれる! 借金から解き放たれる!

だけど……それは果てしない夢でしかなかった……。

 

「逃げよう。ここから出て行こう」

鼻の奥がツンと痛い。

幸せになりたい。幸せになりたい。

逃げる当てなどないけれど……。

どこか遠くにあるような気がして。

自分が幸せに暮らせる国があるような気がして。

はぎゅと足の指に力を入れて丸めると、振り絞るような声を上げた。

「もう……鬼んてイヤだよ!」

私は普通の娘になりたいんだ!

それは、そんなにおこがましいことだろうか?

眉間にしわを寄せて、泣くのを堪える。

「逃げよう……ここから……」

「どこへ?」

「……どこでもいい!」

「おまえは私が身請けした。逃げることなど許さん」

「だって!」

そこでやっと、は目の前に牡丹がいることに気付くいて、ハッと身体を震わせて目を見開いた。

「ご、主人……!」

「おまえは私に仕えると誓っただろう。それを破るつもりか?」

「……そんな、もの」

は鼻で笑って、嫣然と笑って見せた。

「信じていらしたんですか? おかしい人」

「なんだと?」

「四角い卵の歌はご存知?」

「四角い卵?」

牡丹の後ろにいた雪丸が、きょとんとした顔で言った。

「遊女の誠と卵の四角

     あれば三十日に月が出る」

は涼しい声で歌って見せると、牡丹はそんなことか、と鼻で笑って

「おい」

雪丸に声をかけた。

「四角い卵を出せ」

「へ? 何の卵がええ?」

「鶉でも鶏でも何でも構わん」

「ふーん……」

雪丸は相変わらずきょとんとした顔をしていたけれど、

「ほい」

突然左手に現われた茶色い物を牡丹に手渡すと、牡丹はの手を無理やり掴んで手渡した。

「……何、コレ……」

「四角い卵どすぅ」

にこにこと笑っている雪丸が、ちょっとムカツク。

顔を引きつらせながら牡丹を見ると、彼は相変わらず不遜な態度で方頬を上げて笑みを浮かべて見せた。

「さて、こちらは四角い卵を見せたぞ? 次はおまえが誠意を見せる番だ」

「ッく……!」

どうせ妖術で作り出した物なんだろうケド!

言い返すことができず、は唇をかんで二人をに睨みつけた。

「大人しゅう言うコトを聞いたほうが、身のためやと思うけど……」

こっそりと耳打ちをしてきた雪丸をキッと睨むを見て、牡丹は満足そうに笑うと

「では、雪丸続けよ」

絶望的な言葉を放った。

 

借金から逃れることはできたけど。

 

「いつか思い知らせてやる!」

自分は結局、赤の呪縛から逃れる事はできない。

牡丹の赤い帯、雪丸の赤い髪。

そして、堪らなく甘美な。赤い赤いご主人の血に――

がんじがらめに、囚われる。

 

悔し紛れにが牡丹に向かって卵を投げつけると。

それは彼に当たる前に、音を立てて宙で割れ。

中から真っ白の何かが飛び出してきた!

「……何、それ……?」

中から飛び出してきた物は、真っ白の細長い――

「龍の卵、四角バージョンどすぅ!」

嬉々として雪丸が言い、牡丹は眉間にしわを寄せて自分にひしりと飛びついてきた龍の子供を見た。

「り、龍……」

「また、面倒な物を!」

「なんの卵でも良い、言ぅたやろぉー!?」

途端に不機嫌になる牡丹の頬をぺろりと舐めて、龍はクリクリとした目で

「きゅう」

と鳴いて。牡丹は額を押さえて深いため息をついた。

あの馬鹿に頼まずに、自分で四角い卵を作ればよかった!

そう思ったのも後の祭り。

しっかりと爪を立てて離れない龍の子供に、牡丹は諦めたようにドカリと窓際に腰を下ろしてキセルを吸い始めた。

こんな物を引っ付けていては、どこにも行けない。

は不機嫌に紫煙を吐く牡丹を見て、ざまあみろと笑うと。それに気付いた牡丹に座布団を投げつけられて、後ろに転がった。

 

「……結構ええコンビやと思うんやけどなぁ」

雪丸の呟きは、仕切りと鳴く龍の鳴き声にかき消されて二人に届くことはなかった。

 

どっとはらい

 

2006.12.18

 

  

 

四角の卵の歌は、ありえないことという意味です。