「針は大事にしなくちゃいけないよ。針には不思議な魂が宿っている。もしも針を粗末にしたならば、恐ろしい呪いにかかってしまうのだからね」

「はい。おばあ様。私は決して、針を粗末にはいたしません」

 

 

置いてきたもの

 

 

1853年6月3日。

ペリー提督が軍艦 ”サスケハナ”  に乗って日本にやってきた。

メリケンの要求は、難船者の保護、食料の補給と修理のための開港。交易のための入港許可である。

幕末になり、クジラがさっぱりとれなくなった。

それは、メリケンが乱獲していたからである。

 

日本近海にメリケンの捕鯨船がいるのは、幕府も十分知っていた。

ペリーは捕鯨のために、日本に開国を迫ったのである。

 

 

そのペリーの率いてきた四隻の軍艦の一つに、その娘は乗っていた。

船乗り達は不吉だと、いい顔をしなかったが。

国のお偉いさんの娘は、”日出る国” にたいそう興味を持っていて、無理やり船に乗り込んだのだ。

 

娘の思い描くのは、エキゾチックな理想郷。

青い碧い藍色の衣装を着た、小さな人達。

黒髪黒い瞳の、男と女。

陽の下では質素な木の家なのに、一度月の光を受けたれば、銀に輝く不思議な建物――!

 

日本とはどんな所なのかしら?

娘はワクワクと期待に胸を膨らませ、毎日毎夜海を眺めていた。

 

娘は一人、金の髪の侍女を連れていた。

物静かな若い娘。

スラリと伸びた白い腕。

潮風に荒れた、小さな手。

 

無口な侍女は、船員達の繕い物をしていた。

 

空は快晴。船は波を切り裂くようにスィと進む。

 

娘は侍女を連れて甲板にいた。

潮風が娘の美しい亜麻色の髪を弄ぶ。

 

船は日本海に入った。

夢の国まであと少し。

娘が嬉しそうに次女に話しかけようとした時――!

突然の大波に船が揺れ、侍女は思わず海に針を落としてしまった!

 

ああ、なんということ!

「針を落としてしまったわ!」

侍女が叫んだ。

「針を落としてしまった!」

 

潮風に所々錆びは針は。きらりと光って、青に飲み込まれていく。

娘は言った。

「針くらいいくらでも買ってあげるわ! あんなに錆びた針なんて、捨ててしまってちょうどよかったのよ!」

 

針は海の中で、一度きらりと輝いた。

 

侍女は泣きそうな顔で見えなくなった針をずっと探していたが、やがて諦めたようにぐったりと座り込んで唇をきゅとかみ締めた。

「針を粗末にしたらいけないよ」

祖母の言葉が脳裏に蘇る。

幼い頃から幾度も言い聞かされてきたその言葉に、不安が膨れ上がる!

 

娘は嘆く侍女を見て、苛立たしげに一度トンとつま先を鳴らすと、高慢に鼻を鳴らして去っていった。

 

風が吹いた。

大きな波が来た。

 

船員達が叫び、大きく揺れた船体に侍女は悲鳴を上げて近くにあったロープにしがみ付いた。

 

潮風が容赦なく体に叩きつける。

バケツの水を勢いよくかけられたような波に目を閉じ――次に開けた時。

 

娘の姿はそこにはなかった。

 

侍女の叫びを聞いて、船員達が顔色を変えて海に飛び込む。

 

沈み行く娘を見つけて腕を伸ばしたが――

助けあげようとした時は既に遅く。

娘は海に引きずり込まれるように、沈んでいった。

 

チクリ。

脚に鋭い棘が刺さる。

 

ああ、針だ。針だわ!

娘は思った。

 

針は大事にしなくちゃいけないよ。

針には不思議な魂が宿っている。

 

「はい、おばあさま」

幼い日。侍女と二人、祖母の言葉に頷いたのに。

娘の目から涙が一粒、丸い透明な雫となって上に向かって昇っていった。

 

金の髪の侍女。

腹違いの自分の妹。

 

針は血の道を伝い、娘の体に入り込み。

娘はそっと緑の瞳を閉じた。

 

白い腕。ほっそりとした指。美しい若い娘。

 

亜麻色の髪。血の気の引いた頬。腰から下を覆う、青い碧い蒼の鱗!

 

陽の光を受けて金に銀に、虹色に輝く魚の体。

針は、娘の体に巣食い呪いをかけた。

 

黒船は娘を無くし。それでも浦賀を目指して進み行く。

美しい人魚をただ一人、異国の波間におきざりにして。

 

2007.5.17