曽我部家には『開かずの間』ならぬ、『閉めずの間』があった。

窓のない北側の棟の奥にひっそりとあるその部屋は、まるで蔵のように強固な扉がはめられている。

元は女性の部屋だったのだろうか?

鎌倉彫の丸い鏡や、年月を経て古ぼけた箪笥が不気味にその存在を主張している。

 

安部大将は一度ゆっくりと埃の積もる部屋を見回すと、扉の影に隠れるように縮こまる曽我部家の主人を振り返った。

「い、いかがでございましょう……? せ、先生……」

その視線に気づき、曽我部家の主人が唇をわななかせながら、すがるような視線を安部に向ける。

「うん」

恰幅の良い男盛りのこの男が汗を拭き拭き、自分よりもずっと細い安部に取りすがるのは傍目にひどくこっけいに映り、楠は心の中でうげぇと舌を出した。

曽我部は部屋の中には決して視線を向けない。

意図的に視線を反らしている。

それもそうだろう。

部屋の中には、真っ赤な着物をまとった小さな”のっぺらぼう”がいるのだから!

 

 

閉じられた扉

 

 

楠は黙ってじっと件ののっぺらぼうを見た。

以前の自分なら、曽我部のように悲鳴を上げて安部の後ろに隠れただろう。

しかし今の己は昔とは違う。

人ですらない。鬼だ。言うなれば、目の前の妖と似たような存在なのだから。

怖いという感情はわかなかった。

 

楠は主人と曽我部が話しているのをBGMに、のんびりとのっぺらぼうを観察した。

歳は7歳ほどだろうか?

黒々とした髪を肩口で揃え、美しい絞りの振袖を着ている。

娘の体系に合わせて作られたのだろう。着物は肩上げをされておらず、この年頃の子供には珍しく長く引きずるように着せられている。

お引きずりの着物……?

どこぞの奥方でもあるまいに。

子供であれば、活発に動き回るため短めに着付けることはあっても、お引きずりに着付けることはない。

眉をひそめて裾を目で追う楠は、おやとわが目を疑った。

(あれは……)

鎖?

少女のほっそりとした足首から鎖が伸びている!?

 

「という訳で――その化け物が現れたのは、丁度一月前になるのです」

楠は曽我部の声に、唐突に現実に戻らされた。

「一月前? 一月前に何があったんです?」

全然聞いていなかったらしい満に、安部がこれ見よがしにため息をつく。

「あのね、閉めずの間を閉めちゃったら、それからこの子が現れるようになったんだって」

滔々と語った自分の言葉がこんなにも簡潔にまとめられ、曽我部は恨めしそうに安部を上目遣いに見た。

「ふぅん」

楠は気のない生返事を返したが、男が語ったのはこうだった。

 

この閉めずの間があるのは、常は使われていない北の棟だった。

新しく入ってきた女中が、迷路のように入り組んだ北の棟に迷い込み、開け放されていた部屋の扉に気づき、気を利かせて閉めてしまったというのだ。

入ってきたばかりの彼女は、それが決して閉めてはならない扉だとは知らなかったらしい。

北の棟は普段は誰も寄り付かず、荒れるに任せたままだったから。使用人たちもその扉の存在を忘れ、誰も注意をしなかったのだろう。

 

一月前女中が扉を閉めてより――急に彼女は病に倒れ、時を同じくして北側の棟から少女のすすり泣く声が聞こえてくるようになった。

夜な夜な聞こえてくるか細い声に、子供がどこかに閉じ込められたのではないか、使用人たちは噂をしあい、男たちは手に手に明かりをもって、北の棟に足を踏み入れた。

しかし、子供の姿はない。

声が聞こえるたび、幾度も北の棟に足を運んだが、子供を見つけることはできず、ついに使用人たちは恐怖に耐え切れず曽我部に泣きついたのだ。

 

曰く。

北の棟に何か物の怪がいるらしいので、どうにかしてほしいと。

その申し出に仰天した曽我部は、その夜震える男たちと北の棟に入り込み、そして部屋の中央にいるのっぺらぼうを発見した。

どうやら化け物は自分にしか見えないらしい。

引きつるような悲鳴を上げ腰を抜かした曽我部に、見えないながらも男たちは震えおののき、パニックになりながらほうほうの体で北の棟から逃げ出した。

 

すすりなく少女の顔は真っ白で、目も鼻もない。

透明な声なき声はか細く、本来なら目のあるであろう場所から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれていた。

曽我部はその時のことを思い出したのだろう。

ブルリと体を震わせると、首筋を伝う冷たい汗をぬぐった。

 

のっぺらぼうは一体何者なのだろうか?

なぜ、この北の棟にいるのだろう?

あれから毎日考えたが、わからない。

ただ――曾祖母の言葉が、ぼんやりとした不安とともに蘇るのだ。

「北の棟の扉を決して閉じてはならないよ」

 

どうして彼女は幼い自分に、繰り返しそんなことを言ったのだろう。

曾祖母は何を知っていたのだろう?

幼い頃の自分は、その話を聞くたびに震え上がり、それと同時に曾祖母も苦手になり、彼女の部屋に一人で行くことはなくなった。

だから――

思い出せない。

何か、とても恐ろしい怪談だった、と思う。

まるで呪いのような……

きっと、曾祖母はこののっぺらぼうの正体を知っていたのだ。

知っていて、自分に何かを伝えたのだ。

 

曽我部は恐る恐る目の端で、のっぺらぼうとしゃべる楠を見た。

「なぁ、アンタ。アンタがこの部屋の主人なのか?」

のっぺらぼうは答えない。

外見は恐ろしいが、まるで幼子のように如何してよいのかわからないという様子で、楠を見上げている。

「ふむ」

阿部はつぶやくと少女を刺激しないよう、そっと近寄った。

少女はびくりと肩を震わせ、警戒するように阿部を見ている。

 

その安部を尻目に、曽我部は必死に曾祖母の言葉を思い出していた。

「部屋の扉を閉めてはいけないよ」

どうして?

「閉めると――」

閉めると?

曾祖母のしゃがれた厳しい声が、脳裏に蘇る。

そうだ。

「閉めると沙耶が寂しがって、屋敷のものを誰か一人ずつ連れて行ってしまうからね」

 

思い出した!

愕然として、曽我部は目を見開いてのっぺらぼうを見た。

「君の名は?」

安部が膝を付いて少女に目を合わせながら、優しく問いかける。

しかし答えたのは、少女ではなかった。

 

「沙耶……」

ぼんやりと、半ば無意識に曽我部が呟く。

「沙耶……!」

そうだ!

きっとこの妖こそが、その沙耶なのだろう!

恐れおののく曽我部の声に、

「さ、や……?」

少女はぽつりと呟いた。

「さや」

それが己の名前なのだろうか?

どこか懐かしい響きのその名は、ストンと心の中に落ち着いた。

「沙耶」

ひとつ名を口にするたびに。

少女の真白だった顔に赤みが蘇る。

 

「沙耶」

ひとつ繰り返すたびに、何もなかった真白の顔にぼんやりと目が、鼻が、口が浮かび上がる。

「わたしは、さや――」

曽我部 沙耶。

少女の記憶が蘇ったのだろうか?

声にはしっかりとした張りが生まれ、顔には幼い驚愕が浮かんでいた。

そうだ。

自分は沙耶だった。

「わたしは……」

曽我部 佐織の双子の姉――

 

「な、なんだ、と……!?」

沙耶の声に、曽我部の主人は度肝を抜かれてかすれた声を上げた。

曽我部 佐織といえば、自分の曾祖母ではないか!?

 

双子――

 

楠は痛ましそうな目で沙耶を見た。

恐らく、沙耶は双子であったために殺されたのだろう。

少し前までは、珍しいことではなかったと聞く。

本来なら一人のはずの子が二人いるのはおかしい。

どちらかが鬼の化けた子に違いない。

そう考えた人々により、双子の片割れは秘密裏に殺されていたのだ。

 

「私は夜叉の子。いらない子」

あどけない声で、当然の理のように沙耶が呟く。

生まれてきては、いけない子。

だから、七つの頃までこの部屋に閉じ込められたの。

それは幼い声に似合わず、あきらめきった老人のように陰鬱に聞こえた。

 

もし、もしも。

七歳になるまでに佐織が死ねば。自分が佐織の変わりに生きることができる。

じゃあ、七つになるまでに双子の妹が死ななければ――?

 

「私は殺された。佐織の変わりに」

生きていれば、人は大なり小なり罪を犯す。

これから犯すであろう、彼女の罪と不幸をその身一身に受けて。

自分は殺された。

 

「生きていたかったのに……」

誰からも愛されず、必要とされず。

「生きていたかったのに……!」

少女はひっそりと死んだ。

 

いてはいけない。いないはずだった少女の墓は当然作られず――

少女はどこにも行けず、この部屋にとどまった。

それはきっと、今もここに少女の亡骸があるから……。

 

「満」

「はい」

阿部は鎌倉彫の箪笥の引き出しを全て抜き取らせると、満に箪笥を移動させるよう指示をした。

「きっとここに……」

『彼女』がいるのだろう。

少女の真っ白の足袋の上に掛かる重々しい鎖は、ここに続いているのだから。

「よっと!」

力をこめて、楠が箪笥を持ち上げ、部屋の隅に移動する。

 

「あッ!!」

曽我部が引きつった声を上げた。

土壁をくりぬくようにして作られた、小さな隙間に。

少女は四肢を折り曲げるようにして押し込められていた。

「ぐ……ッツ!」

耐え切れない吐き気に、曽我部が口元を抑え蹲る。

白い壁から覗く、赤い赤い着物。

ほっそりとした、小さな骨に残る黒々とした髪。

 

「沙耶」

安部が少女の遺体をそっと抱き上げ、髪を撫でる。

「君を送ってあげるから。輪廻の波にお帰り」

今度はきっと幸せになれるように。

たくさんの人々に愛されて、毎日笑って暮らせるように。

だから。

現世に恨みを残してはいけないよ。

優しく告げる安部の言葉に、沙耶は安心しきったようににっこりと笑うと頷いた。

 

 

やがて。

成仏したのだろう。

少女の姿が消え、薄暗かった部屋に光が戻り。

阿部は沙耶の遺体を抱き上げると、曽我部に差し出した。

「彼女をちゃんと埋葬してあげてください」

心配しなくても、ちゃんと成仏しましたから。

「あ、それから!」

部屋の扉は、もう閉めても大丈夫ですよ

にっこりと笑って告げる安部に空恐ろしいものを感じ、曽我部は化け物を見るように目を見開いて阿部を物言わず凝視した。

阿部は一向に沙耶を受け取ってくれない曽我部に、困ったように首をかしげるとそっと彼女の遺体を畳に降ろし、

「では」

楠を伴って、何事もなかったかのように部屋を後にした。

 

「帰りに清水の金平糖を買って帰ろうよ」

「まぁた甘いものッスかぁ?!」

のほほんと会話する安部と楠の声をどこか遠いところで聞きながら、曽我部は真っ白になった頭で、沙耶を見つめていた。

自分の屋敷で、こんなに猟奇的なことが行われていたなんて……!

到底受け入れられることではなかったが。

何度目をこすっても、沙耶の遺体は消えない。

真っ黒の大きな眼窩が、ただただ恐ろしく――目が離せなかった。

 

やがて。

曽我部家の閉めずの間は開かずの間になり。

曽我部は家族を伴って逃げるように屋敷を出て行ったという。

 

 

2009.6.7