さよなら

 

は襷をはずすと、ふぅと息をついて額の汗をぬぐった。

鬼であるの仕事は、退魔の修行以外にも芦屋家の家事がある。

 

牡丹は他人が屋敷に入ることを良しとしないのか。それとも他人が怖がって屋敷に近寄ろうとしないのか。

定かではないが、この屋敷には使用人らしい使用人は以外にいない。

(人以外ならいるけど……)

は思い出して、がっくりと肩を落とした。

この屋敷には現在主人である牡丹と、。それと雪丸が暮らしている。

自分が認識しているのはこの三人だけだったが。

時々怪しげな物音がしたと思えば、奇怪な人まがいのモノが闊歩しているのも珍しくはない。

家の中でも饅頭笠を深くかぶった男が、我が物顔に廊下を歩いていたり。(口の端から何やら犬歯のようなものが覗いていたり、爪が異様に長いように見えたが。は見て見ぬふりをした)

また、十二単を着た銀色の髪の女性は、後姿しか見ていないが、銀髪というだけでも異様なのに加え、尻尾が生えていたように思う。(尻尾の数は9本あった!)

それらは牡丹に用事があるのか。

あるいは妖気に満ちたこの屋敷が居心地がよいのか。

気が付いたらそこかしこに、不思議なモノがウロウロとしている。

 

(不思議なモノといえば、こいつより不思議なモノはないけれど!)

は先ほどから聞こえてくる雪丸の陽気な声に、重たいため息をついて釜の中の炭火を火消しつぼに移し変えた。

 

雪丸は牡丹の部屋に押しかけているのだろう。

何を言っているのかは聞き取れないが、時折牡丹の低い声も聞こえてくる。

 

(って、今見過ごしそうになったけど! ご主人が雪丸と話してる!?)

あのご主人が!?

『あの』馬鹿天狗と!?

(い、いったい何を話題に!?)

気になる。

絶対に反りの合いそうにない二人だけに、ものすごく気になる!

 

「……味噌汁はできたし、ご飯も炊けた」

(ちょっとだけ、ご主人にご飯の準備ができたのを言いに行くついでにちょっとだけ……)

牡丹と雪丸が話しているのを見てみたい!

はうずうずとしながら手を洗うと、前掛けで手を拭き拭き廊下を急いだ。

 

 

さよなら。

 

 

二人は一体何を話しているのだろう?

雪丸の大きな声はここまで響くのに、内容はつかめない。

耳を澄ましていたは、雪丸の声が悲鳴に変わったのに気づいて、ぎょっとして足を止めた。

(ち、ちょっと! 今すごい断末魔が聞こえたんだけど!)

とうとう雪丸の煩さに牡丹が切れたのだろうか?

入りたくない。

今はものすごく部屋の中に入りたくない!

そう思ったときにはもう遅く。

は障子に手をかけてしまっていた。

(帰りたい! 今すぐ厨に帰って、なかったことにしたい!)

切実にそう思ったが……

ただでさえ朝は機嫌が悪い牡丹のことだ。

自分が部屋の前にいるのも気づいているだろう。

今なかったことにして厨に帰ったら、きっとますます機嫌が悪くなって嫌がらせにとんでもない修行をさせられるかもしれない!

(以前牡丹の機嫌を損ねて、しきりに謝り倒す雪丸に富士の樹海に連れて行かれて二日間一人で森をさまよったのは記憶に新しい。)

(お、恐ろしい……)

はつばを飲み込むと、意を決して障子を開けた。

 

「……え?」

「いたたたた! ちょ! 痛いって! Honey!」

は目を見開いて呆然と目の前の光景を凝視した。

雪丸だ。

雪丸がいる。

いやそれはいい。問題は見たこともないような大きな鷹が部屋の中にいて、雪丸に襲い掛かっていることだ!

「ご、ごしゅ、ご主人…!?」

ダラダラとこめかみから血を流す雪丸を見て、が驚いて牡丹を見ると、彼は何事もないかのように優雅に茶をすすっていた。

「Why are you angry!? My sweet!」

「ちょ、え、え、え!?」

部屋の中の血なまぐさい惨劇もさることながら、そこでぴくぴくとこめかみを引きつらせている牡丹も恐ろしい。

(ヒイィッ!?)

気づいて! 雪丸気づいて!

牡丹の期限が急降下するのに気づいて、はザッと青ざめた。

(来る! 絶対来る!)

ご主人の雷が!

牡丹は気の長いほうではない。

湯飲みを握る指は力を入れすぎて真っ白になっているし、心なしか彼愛用の湯飲みにヒビが入っているようなきがする。

逃げるなら今しかない――!

しかしが立ち上がるより早く、牡丹はゆらりと立ちあがった。

 

「雪丸……貴様痴話げんかもいい加減にしろ……!」

地を這うような恐ろしい低いうなり声を発し、牡丹が懐に手を入れる。

ゆっくりと取り出すのは、怨敵調伏の札!

それを見て雪丸が一気に青ざめた。(は青を通り越して白くなった)

「ちょ! 待っ……! 牡た」 

「問答無用!」

 

さわやかな朝の気配を切り裂いて、雪丸の断末魔の悲鳴が聞こえた。

 

牡丹は雪丸の額に札を貼り付けると、鼻息も荒く部屋を出て行った。

 

「な、何で私まで……」

札を貼られなければならないのだろうか!?

確かに悪戯心はあったけど!

自分はただ朝食の用意ができたと知らせに来ただけなのに!

部屋に転がるは、二体の屍。

額から札を下げ、がはらはらと涙を流した。

怨敵調伏の札は、貼られても痛みはないが、金縛りにあったようにピクリとも動くことはできなくなる。

ずっと同じ姿勢を強制させられることが、苦痛だ。

「ゆ、雪丸ぅぅううう!」

「か、堪忍どすぅ……!」

ぎりぎりと奥歯をかみ締めながら恨みがましく雪丸の名を呼ぶと、情けない声と共に彼の腹の虫がなるのがきこえてきた。

 

それを聞いて、も自分が空腹だったのを思い出す。

しかしきっとこのまま朝食は抜きだろう。

「何で私まで……」

「ゴメンてばぁ」

と雪丸は同時にため息を付いて、切なそうに腹の虫を鳴らした。

「ピイ」

二人の間で大きな体を小さくさせて、申し訳なさそうに鷹が鳴いた。

 

 

2009.6.9

 

さよなら。私たちの朝ごはん!!