昨夜はついに安部大将は帰ってこなかった。

「……仕方ねぇなぁ……」

大将とて大の大人だ。

それにあの性格では、殺しても死にそうにない。

今までだって帰ってこない日の一日や二日あったが……

(仕事をすっぽかすなんて、ご主人らしくない)

ちくり。

小さな不安が胸を刺したが、時間は待ってくれない。

楠は気を入れ直すように頭を振ると、家を出た。

 

 

お面

 

 

今回の依頼は、奇妙なものだった。

普段、無口で無愛想だった女がある日突然明るくなり、人付き合いもよくなったというのだ。

それだけなら、なんら問題はない。むしろいい変化だといえよう。

しかしその変化した女が、時折透けて見えるというのが問題なのだ。

(透けて見える、ねぇ……)

噂ではその女は死んで幽霊になったのだ、とか狐狸妖怪が化けているのだ、と実しやかにささやかれている。

楠はぽりぽりと頬をかきながら件の女を見た。

 

女の名は八重。

20代後半の独身の女だ。

見目は悪いというほどではなかったが、本人は自分が醜いのだと思い込んでおり、人目を避けて静かに暮らしていた。

 

若い頃はそうでもなかったが。

歳を追うごとに捻くれ僻んだ性格の持ち主となり、ますます人々は八重から遠ざかっていったという。

それを、本人は自分の容姿のせいだ、と固く信じきっていたのである。

 

友人もおらず、人前でニコリとも笑わない八重に、人々もどうやって接したらいいのかを図りかねていた。

だから――

彼女のこの変化に、衝撃を受けたのである。

”誰かいい人でもできたんじゃあ……”

おせっかいな女たちは顔を寄せ合うと騒いでいたが。

ある日ふと、気づいてしまったのだ。

”お八重さんの影がない!”

 

気づいた主婦は恐れおののき、狂人のように叫んだ。

違和感は日を追うごとに次第に膨れ上がり、ついには人々の口に上るまでになった。

 

”月夜の晩にすれ違ったら、彼女の首筋が透けており、向こうの景色がうっすらと見えた”

だの

”それだけじゃないさね! あの黒い虚ろな目を見たかい? こちらを見ているのに見ていないような……”

女たちは震えながらそう語った。

八重はそこにいるにもかかわらず、ひどく存在感が希薄らしい。

そこで人々は噂しあったのだ。

八重は本当は家で死んでいるのではないか――。

と。

 

八重の家に入ったものは誰もいなかった。

彼女は決して、他人を自分の家に上げなかった。

狭い横道にある、小さな長屋。

そこが彼女の住まいだった。

 

(あれが、八重か……)

楠は団子の串を加えながら、そっと赤い着物をまとった女を観察した。

八重の暮らす長屋が見渡せる大通りに、張り込むには最適な茶屋があったのだ。

楠は茶を取ると、笠の下でそっと鬼の目を発動させる。

これも鬼になってから使えるようになった技だ。

鬼の目を持ってみれば、大概の幻覚を見破ることができる。

もし八重が狐狸妖怪の変化したものであるのなら、この目で見破ることができるだろう。

楠の黒い虹彩は細長く伸び、静かな光をたたえ始める。

八重は、妖か否か。

 

渋い赤地に大柄な花文の着物を着た、明るいよく笑う女。

目じりに刻まれた笑い皺が愛らしい。

(人、か――?)

妖が化けているようには見えない。

(死霊か……否)

確かにうっすらと透け、時折ノイズが走ったように八重の映像が乱れるが。

(生きてはいる)

ならば生霊だろう。

 

楠は団子を急いで口に詰め込むと

「ごっそさん」

代金を赤い毛氈に打ちつけるようにして八重を追った。

 

八重は足取りも軽く長屋へと帰っていく。

――ほのかに、妖気がする。

だが禍々しいそれではない。

八重は家に戻り、すぐに扉に戸締りのためのつっかえ棒をしたのだろう。

コトンという小さな音が聞こえた。

ここに大将がいたら――

ノックをして気障な台詞でもかけて、穏便に八重を家の外に出すことができただろう。

だが生憎と楠しかいない。

(あんたにゃあ、悪いけど)

自分は力任せでここを空ける手しか知らない!

楠は勢いよく足を振り上げて扉を蹴破った!

 

「きゃあ!」

中から女の悲鳴が聞こえる!

ふわり――かすかな死臭が鼻を掠める。

 

中は小さな部屋が一つあるだけの、簡素なものだった。

 

一瞥すればすぐに部屋の全てが見渡せる。

その中央に八重はいた。

突然の乱入者に肩を怒らせ、何事かを怒鳴っている。

しかし楠はそれをきれいに無視して、ぐるりと部屋を見渡した。

(どこだ? どこにいる?)

部屋に入った瞬間、違和感が楠を襲った。

この部屋には巧妙に幻術が掛けられている。

普通の、何の変哲もない一人暮らしの女の部屋だが――ひどく生活感がない。

 

きれいな、一度も使われたことがないような机、箪笥。

そして――布団。

「見つけた!」

きれいな幻の中の違和感!

部屋の中の唯一の現実!

 

布団に近寄る楠に、八重は悲鳴を上げ腕をつかんだ。

女の伸びた爪が腕に食い込む。

しかし楠が鬼の目で八重を見た瞬間――!

彼女の映像は乱れ、夢から覚めつつある人の幻のように輪郭が崩れた。

「あ、あ――」

八重が崩れていく己の映像に、唇をわななかせしきりと顔をさすりながら吐息にも似た悲鳴を上げる。

「もうとっくに日は昇ってんだ。いい加減目覚めたらどうだ?」

楠が言う。誰もいないはずの布団に向かって。

「お八重さん」

楠が名を呼んだ瞬間――!

弾けるように、部屋の幻が解けた!

「あ――あ……」

「いい加減目を覚まさねぇと、本当の死霊になっちまうぞ!」

”八重”の幻を背に、楠が話しかける。

小さな古ぼけた布団。

そこに横たわるのは”八重”の幻とは似ても似つかない、やせこけた女。

長い間梳かしていないのだろう髪は乱れ、かろうじて生きているのだろうやせた薄い胸が微かに上下している。

部屋はまるで急に何十年も経ったかのように埃が積もり、くもの巣がかかっている。

本来の姿にもどったのか……

荒れ果てたその様に、楠は僅かに顔をしかめた。

「ああ、アタ、シ……アタシは……」

後ろで八重がかすれた悲鳴を上げている。

「アンタも本当は気づいていたんだろう? 今のアンタは本物じゃない。本物の八重が作った夢だと」

八重がなりたかった理想の自分。

薄れていく八重の目から、涙がこぼれた。

「確かにアンタは見てくれは綺麗じゃなかったかもしれねぇ。けど知ってるか?」

みんなそんなアンタが嫌いじゃなかったんだ。

嫌いだったら、アンタを心配して俺をこんなところによこすはずはない。

「綺麗だけど現実感のないアンタより、本物のアンタのほうがいいってさ」

みんなアンタがどうにかなったんじないかって心配してる。

ぶっきらぼうな楠の言葉に、八重は声を失い肩を振るわせた。

そんなこと、そんなこと言われても……

今まで辛い思いをしてきたのは自分だ。

初めて会った子供になんか、自分の苦しみがわかってたまるもんか!

 

心の中でそう絶叫するのに――声は出ず、ただ八重は涙を流した。

苦しい、悲しい、辛い。

だけど

 

暖かかった。

心配してくれる人がいることが、嬉しくて――心の仲がぐちゃぐちゃになった。

 

「もう目を覚ませよ」

楠が言う。

夢見る時間は、もうとうに終わった。

「みんなアンタを待ってる」

「……どうして、アタシを……アタシなんかを……」

しかし捻くれた心がそう簡単にまっすぐになるはずもなく、八重は震える指で自分の顔を撫でた。

「アタシはやっと綺麗になれて――やっと笑えるようになったのに……!」

本当の自分に戻るのが、怖い。

また泣いて暮らすようになるのではないか、肩身の狭い思いをしなければいけないのではないか…。

悲痛に叫ぶ八重の声が部屋に響いたが、楠は眠る八重の枕元に膝を付くとじっと彼女の寝顔を見た。

 

白い、白すぎる頬。荒れた肌。病弱に細い首――

女だからこそ、自分の容姿を気に病んで、自らの幻を作り出すまでに思いつめたのだろうけれど。

 

そっと、八重の頬に指を這わす。

「触らないで! お願いよ――アタシをこのままでいさせて……」

泣き崩れ小さな声で力なく言う八重の幻は、もう原型をとどめてはいない。

楠は耳をふさぐように唇を噛むと、後ろを見ずに符を放った――!

 

 

 

 

小さく悲しい女の悲鳴が上がる。

 

 

 

「だからって、むざむざ殺すわけにはいかねぇ」

このままだと八重は目を覚ますことなく、確実に死んでいただろう。

微かに漂う死臭がその証拠だ。

「アンタの魂を夢魔にやるわけにはいかないんだ」

言い訳するように口の中で言うと、楠はやりきれない思いを振り払うようにきつく目を閉じ、息を吐いた。

夢魔は人間の望む夢を魅せる代わりに、魂を食うものだから。

 

寝ているはずの八重の目から、涙が零れ落ちた。

 

どんなに自分が気に入らなくても、生れ落ちた以上生きていくしか仕方がない。

 

楠もまた――自分の容姿を思って疲れたようなため息をついた。

 

「アンタの髪は俺と違って黒い。アンタの目もな」

黒々とした美しい長い髪。

神経質そうだが、知的な顔立ち。

「知ってっか? 笑えばどんな奴でも美人になるし、怒ればどんな奴でも醜くなるんだよ」

(ご主人の受け売りだけどな)

楠はささやくように言うと、重たい腰を上げて家を出た。

 

外の日差しが目にまぶしい。

目が覚めた彼女は、また笑うことができるだろうか?

彼女の理想とした女のように明るく、人々に話しかけるようになるだろうか?

地味な着物を脱いで、華やかな赤い着物を着れば――

楠は八重の家に心配そうに走り寄る隣人を見て、笠を深くかぶりなおした。

大丈夫。

初めはぎこちなくても、きっと周りの人間が彼女を放って置かないから。

きっと彼女は笑顔を取り戻すだろう。

そうすれば八重はなりたかった自分になれるに違いない。

 

だって、あの幻は八重と同じ顔をしていたのだから…

楠は笠をかぶり直すと、往来に消えていった。

彼女にはえらそうなことを言ったが…

容姿を気にかけ、人前に出るのを自分もまた恐れている。

大将に出会わなければ自分もまた、夢魔に食われていたかもしれない。

楠はやりきれない気持ちに息を吐くと、笠のうちからそっと空を見上げた。

(ご主人……)

帰ったら大将は家に戻っているだろうか?

確証はなかったが。

しばらく会えないような気がして、楠はきゅっと唇をかみ締めた。

 

  

 

2009.8.11

2009.9.13 修正