カチ――

時計の音が聞こえた 。

                    

                  カチ

 

静かに、一定のリズムで刻むそれに、徐々に意識が覚醒する。

 

カチ

 

覚醒する?

……自分は――

                 カチ

 

知らない間に、眠っていたのだろうか?

 

カチ

 

 

挽歌

 

 

安倍大将は重たいまぶたを開くと、ぼんやりと空を見上げた。

「って、空!? え、何で空!?」

そんなバカな。どうして空が見えるのだろう?

外でごろ寝をする趣味はなかった筈だが……。

(第一外で寝ようものなら、満がうるさいし)

そこまで考えて、安倍はハッと違和感に気づいた。

「満?」

いつもすぐそこに感じられる満の気配がない。

おかしい。

訝りながらゆるゆると辺りを見回す。

霧の立ち込める、大きな石造りの街――

「……は?」

飛び込んできた景色に絶句して安倍は飛び起きた。

 

(ここは、どこだろう……?)

長崎?

いや違う。

いくら異人の多い長崎でも、日本人が全然いないのはおかしい。

重たい雲に覆われた、灰色の街。

それはあまりにも日本からかけ離れていて、安倍は半身を起こしたまま呆然と目を見開いた。

「異、国……」

自分はまだ夢を見ているのだろうか?

 

この世界はどうやらまだ冬らしい。

道には雪が降り積もり、足首まで積もって尚、後から後から空から白いものが降ってくる。

 

通りを行く人々は灰色の町に似つかわしく、皆暗い色の粗末な衣服を身にまとい、足早に立ち去っていく。

安倍はスンと鼻を鳴らして、辺りを見回した。

どこからか、何かを焼く異臭が漂ってくる。

(どこだ……?)

霧と建物にさえぎられた視界では、火の元を見つけることができない。

木と土で作られた日本家屋と違い、ひどく冷たい石造りの建物――

背の高い建物がひしめくようにずらりと両脇に並び、威圧感たっぷりに聳え立っている。

匂いが濃くなった。

そう思った瞬間――!

「……!?」

遠くで叫びをあげるようにうねる怨霊の気配を感じて、安倍はス、と目を細めると素早く辺りを見回した。

(どこだ?)

周りを見回しても、丈の高い建物に阻まれ姿を見つけることはできない。

安倍はため息をついた。

人々には怨霊の呪詛が聞こえていないのだろう。

他人に関心がないと言うように、顔を上げることはない。

 

この街がひどく冷たく見えるのは、石造りだからというわけではないらしい。

重たい雲に蓋をされるように。

ひどい瘴気が、町全体を覆っている。

(流行り病でもあったか……)

町全体が喪に服しているような陰鬱な気配に包まれ、人々は地に視線を落としたまま歩いていく。

 

一体どうして、こんな所にきてしまったのか……。

思い出そうにも、思い出せない。

だが、ここに自分を連れてきた”何か”がいるはずだ。

「……夢に囚われるなんて」

何と言う失態だろう!

辺りを見回してみたが、”原因”は近くにはいないらしい。

重たい瘴気に包まれてはいるが――すぐに害されるという心配はなさそうだ。

安倍は苦虫を噛み潰したような顔でくしゃりと前髪をかき上げると、もう一度空を見あげた。

 

ここは誰かの夢の世界。

それはまず間違いがないだろう。

ならば。

この夢から出るには、キーワードを見つけなければならない。

夢を見ている”人物”の大切な何か。

あるいは。

”夢に自分を引き込んだ人物”の何か、を。

それは思い出なのか言葉なのか、人物なのか。

まだわからなかったが……。

 

「ここでこうしていても仕方がない」

少しでも早くここから出なければ。

安倍は普段の彼からは想像もできない厳しい顔で立ち上がると、雪を払った。

冬の寒さを感じないのは幸いだが――

「……問題は言葉、だな……」

果たして”何か”と意思の疎通は可能だろうか?

 

否、それ以前に――

道を行く人々には、自分が見えていないらしい。

「……うーん。これはちょーっと……難しいか、な」

安倍はぽりぽりと首筋をかくと、後ろから迫ってきた馬車を見つけて、慌てて横に飛びのいた。

延々と続く曲がりくねった雪の道に、わだちを作って黒い馬車が通り過ぎていく。

馬車の行く先を目で追っていた安倍は、建物と建物の間から細く煙が上がっているのを見つけて目を細めた。

先ほどの匂いは、あれだろう。

(火葬場、か……?)

人の思いを色濃く残した煙が、空に昇っていく。

怨念、憎悪。

死んだ人間の想いが、厚く閉ざされた雲に阻まれ、怨霊と変わり空から街を睨み付けている。

おどろおどろしいそれに安倍は顔をしかめると、ゆっくりと轍を追って歩き始めた。

「まずはあれから接触してみるか……」

人々に自分の姿が見えずとも、怨霊ならば見えるかもしれない。

「まさかこんな所に来てまで、お仕事する羽目になるとは思いもしなかったけどネ」

小さくぼやく安倍の声は、白い息と共に空気に混じり消えていった。

 

曲がりくねった道に、すぐに安倍の姿は見えなくなったが。

馬車の轍の横に、下駄の跡だけがいつまでも消えず残っていた。

 

時計の音はもう聞こえなかった。

 

 

  

2009.9.16