一生の内に人は、どれだけの人を愛し、どれだけの人をなくすのだろう? 数ある恋の内どれだけが本物で、どれだけが戯れなのだろう?
フリードリヒは手袋をはめたままの指を組んで、ソファーに深くもたれかかった。
獣の恋
午前4時00分―― 異国の朝はまだ明けない。 思えば遠くへ来たものだ。 ”あの時”はよもや自分がこんな極東の国へ来ることになるとは、想像もできなかったが……。 フリードリヒはソファーに半身を預けたまま、物憂げな視線で室内を見回した。 金の波打つ髪に緑の瞳。 もしこの場に誰かがいたら、その美しさに思わずため息をこぼさずにはいられなかっただろう。 着物を、ゆったりと部屋着のようにまとう青年は、異国の御伽話から抜け出たように現実離れした、美しい肖像のようだった。
異国の客人のためにしつらえられた部屋は、自分から見ても異国情緒あふれる不思議な空間だった。 畳の上には絨毯が引かれ、その上に西洋のテーブルとゴブラン織りの椅子が置いてある。 天井から下がるのは、トルコランプだろうか? 緑色のチューリップを逆さにしたような、ガラスのランプが長い鎖で吊り下げられている。 自分が今いるところは書斎だろう。 オーク材で作られた重厚な本棚に、聖書を始め様々なジャンルの洋書が並べられている。 それらのものが全て、和室の中にあるのだ。 自分が今こうして過去を思い出しているのも、この不思議な空間のなぜる技かもしれない。 フリードリヒは机の上のウィスキーの氷が解けるのもそのままに、深く思考の海に沈んでいた。
「……エミーリア」 我が愛しの――のような少女。 目を閉じれば今でも彼女の顔を鮮明に思い出すことができる。
――しかし、今でも……。 自分が彼女を異性として愛していたのか、といえばわからない。 いつもその問いの答えは霞の中に沈み、捕まえることができないのだ。
フリードリヒは机の上に肘を付けると、組んだ手のうえにコツリと額を乗せた。
若き日の思い出。 青くほろ苦い記憶……。 彼女は、豪商の末娘だった。 かつて自分が路地裏に開いた診療所の患者の一人だったのだ。 元気が有り余っているのに関わらず、体が生まれつき弱く寝込むことが多かった彼女は、思い通りにならない体を歯がゆがって、度々自分を屋敷に呼び寄せた。 エミーリアに乞われ話し相手になる。 我侭な少女の語る、些細な幸せ、夢。 思い描いた志―― 恋に恋する年頃だったからだろう。 そして周りに異性がいなかったからだろう。
いつしか彼女は自分に想いを向けるようになった。 しかし彼女は恋をするにはあまりに幼すぎた。――問題は彼女の年齢ではない。外にめったに出たことのない彼女は、あまりに色々なことを知らなすぎたのだ―― 初めての恋は得てして暴走しがちになる。 エミーリアは縮まらないフリードリヒとの歳の差に焦り、やがて想いは暴走し狂気にも似た暴力を呼び寄せた。 自分で自分の心を制御できなくなり、不安定で――見ていられなくなる。 彼女の恋はそんな恋だった。 だから―― 自分は彼女の心を守るため、伸ばされた腕を取ってしまったのだ、 それは自分が医者だったから……? 彼女が壊れていくのを捨てて置けなかったから?
わからない。
だがあの時は互いに必死だった。 やがて全てが時代の濁流に飲み込まれていっても……。 止めることはできなかった……。
その全てを時代のせいだと割り切ることはできない。 彼女の暴力的なまでの愛に押し流されたのは、自分の弱さだ。 ――後悔してもしきれない。 フリードリヒはそこで無理やり思考を打ち切ると、やるせない瞳で窓の外を見下ろした。
簾の向こうに見えるのは花街。 まだ夜の開け切らぬ空気は、白々として霞がかっている。 不夜城も深い眠りに付いているのだろう。 シンと静まり返っており、物音一つ聞こえてこない。 フリードリヒは一度きつく目を閉じると――ランプの火を吹き消した。 部屋に所狭しと並べられた舶来の品々が、僅かな外の藍色の光を受けておぼろげに浮かんでいる。 フリードリヒはポケットから懐中時計を出すと、机の上に置いて立ち上がった。 エミーリア。 その名を呼ぶ代わりに、懐中時計を隠すように手袋を上に置くと、寝室に続く襖を開けた。 朝日が昇る前に眠ってしまおう。 眠ればもう――現実に苦しめられることはなくなるのだから。
2009.9.26
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