睡眠薬
楽都ウィーン 様々な芸術が花開いた、麗しの都。 エミーリアが生まれたのは、そんなロマンティックな街だった。 空を突き刺すトライデントのようなゴシック様式の教会を中心に、曲がりくねった道が市内を彷徨うように伸びている。 両側から押しつぶさんばかりの威圧感で並ぶのは、数階建てのアパートメント。 ドイツ語、ハンガリー、チェコ語、ポーランド、イディッシュ、ルーマニア、ロマ語、イタリア語……。 その他ヨーロッパのありとあらゆる国の言葉が飛び交う、不思議の街。 意味のわからない美しい響きの異国の言葉。 珍しい民族衣装を着た人々。 それらは思春期であるエミーリアの好奇心を、いたく刺激するものだった。 (彼らは一体どこから来たのかしら?) そしてどこへ行くのだろう。 体の弱い自分は、肌寒い九月の風に窓を開けることもできず、カーテンの陰から外を眺め空想にふけるしかない。 三角形の帽子トリコーンを被り、金のブレードで縁取った上着を着る貴族の青年たち。 美しいドレスを着た貴婦人を伴い、四頭馬車に乗り込む二人を見てうっとりとため息をつく。 (きっと彼らは音楽会に行くんだわ!) 大理石や金で装飾された広間の天井を飾る美しいフレスコ画! キラキラと輝くシャンデリア! エミーリアは空想した。 きっとあの貴婦人は、万華鏡のようにスカートを揺らして踊りながら、美しい音楽に耳を傾けるのだろう! (私もいつか行ってみたい……) それはきっと夢のように美しい世界に違いない。 (だってあの女の人の足取りは、あんなにも楽しそうなんだもの!) 「私も」 エミーリアは白いレースのカーテンを握り締め、ほころばせていた顔を悲しそうに曇らせた。 自分も彼女のように美しい白金の巻き毛のウィッグを被って、ドレスを着てみたい。 そうすればどんなに可愛くなることだろう! 「こんな赤茶けた髪じゃなくって……」 エミーリアは唇をツンと尖らせると、胸まで伸びた髪をくいと引っ張った。 父や医師であるフリードリヒは、自分のこの地味な色の縮れた髪を人形のようだ、と褒めるけど。 どうしても好きになれない。 (こんな、くるくるの髪じゃなくて!) 御伽噺に出てくるお姫様のような綺麗な巻き毛になりたいのだ!
エミーリアは頬をプゥと膨らませると、ベッドにドサリと身を投げ出した。 「手だって、足だって……」 こんな棒切れみたいなガリガリじゃなかったら。 「真っ白で、きれーーぇな腕だったら……」 大好きなフリッツ (※フリードリヒの愛称) 先生に向かって両腕をいっぱいに伸ばして、ぎゅっと抱きつくことができるのに。 (ヒラヒラのレースの付いた短い袖からうんと腕を伸ばして誘惑して――そしたら先生もあたしのこと、少しは好きになってくれるかもしれないのに……) でも、叶わない夢だ。 自分の身体はあまり食べ物を受け付けない。
「……きらい」 ガリガリに痩せて、背の小さい自分が。 (もう14歳なのに!) いつまでたっても子ども扱いをされるから。 「きらい」 狼みたいな、この薄い茶色の瞳も! なにより―― (先生より11も年下の自分が一番嫌い!) エミーリアは下唇を巻き込むようにきゅっと歯を立てると、枕に顔をうずめた。 さっきまでの幸福な気分が風船のようにしぼんで、代わりにひどく悲しくなってくる。 (もうフリッツ先生に一週間も会ってない!) 気が付いて愕然とした。 一週間前は風邪を引いて熱を出したから。家まで診療に来てくれたのに。 エミーリアは物憂げに目を伏せて、ため息をついた。 (金の綺麗な髪の、優しい先生……) 髪の根元に黒いベルベットのリボンをつけて、その下の髪を三つだけミツアミにしている。 (笑うと先生の周りの空気がふわって暖かくなって、幸せな気分になるの。困ったように眉毛がハの字になって、綺麗な緑の目がくしゅって細くなるの。) フリードリヒの事を考えると、決まって心がまぁるくホコリと暖かくなって。心臓がきゅっと痛んだ。 「……会いたい」 体を壊さなくちゃ、先生には会えない。 「――会いたい」 (先生の診療所はここから離れているから……) 窓からどんなに姿を探しでも、見つけることができない。 「会いたいよ」 つぶやくと、鼻の頭が熱くなって、眉間の奥がぎゅっとした。 切なくて、きゅっと枕を握り締めても、寂しさはちっとも和らがない。 エミーリアは悲しくなって、小さく丸まった指で枕に爪を立てた。 健康になれば……このままフリードリヒに会えず、自分は寂しく老いていくしかないのだろうか? (ううん。きっとその前に死んでしまう) だって、先生が来ないから食欲だってないし、悲しくて何もする気がおこらないんだもん……。 「先生が来てくれたら」 エミーリアは震える声で言うと、熱い息を小さく吐きだした。 「どんな事だって頑張れるのに……」 先生が来てくれたら。 何もかもがうまくいくような気がするのに。 身体は言うことを聞かないけど。心は元気になるから! (父さんや母さんの望む、上品でツツマシヤカな貴婦人になれるよう……嫌いだけど色んな勉強だってするのに!) このままじゃ自分は何もできない。 ベッドから起きる気力もない。 (先生が来てくれたら、髪だって綺麗に梳かして可愛く結んで、白いレースのお気に入りのネグリジェを着るのに) フリードリヒが来ないから。それらはみんなクローゼットに閉じ込めている。 (先生を思い出すものみんな!) クローゼットに押し込んで、扉を閉める!
――バタン!
「会えない寂しさも一緒に、しまうことができたらいいのに……」 どんなに探しても、フリードリヒの声が聞こえない。 耳を澄ましても、階段を上ってくる足音は聞こえない。 だって。 「あたしが今、健康だから……」 エミーリアはくしゃりと泣きそうに顔をゆがめると、枕を腕に抱きこんだ。 熱い涙が枕にどんどんと吸い込まれていく。 (会いたい、会いたい、会えないと死んじゃうよ!) 頭の中がぐるぐるして―― 耳を澄まして必死で、窓の向こうに先生がいないか探すのに! (いない、なん、て……!) 鼻の奥がツンとして、絶望的な気分になる。 会いたいというふわふわとした期待が行き場をなくして、体中を彷徨っている。 ――会えないなら……。 「体を壊せばいいんだ」 そうすればフリードリヒが来てくれるから。 エミーリアはパジャマのポケットをごそごそと探ると、小さな小瓶を取り出した。 姉の部屋で見つけた睡眠薬。 手のひらにすっぽりと収まる、香水瓶のようなコロンとした綺麗なガラスの中で、透明な液体がぽちゃぽちゃ踊っている。 (あたしの体温に温まったクスリ) ――それとも、毒? (コレを飲んであたしが夢から覚めれなくなったら、先生来てくれる?) 御伽噺の王子様みたいに、キスして起こしてくれる? エミーリアの大きな瞳から、またぽたりと涙が一つ零れ落ちた。 フリードリヒが決して自分にキスなどをしてくれることがないのを、知っていたからだろう。 どちらにしろ―― コレを飲めば、深い眠りに落ちることができる。 この一週間、心が熱病にかかったようにふわふわして浅い眠りが続いていたから。 きっと夢を見る暇もなく、眠り続けることができるに違いない。 エミーリアは小瓶をあおった。 どれだけ飲めばいいのかわからなかったから―― 瓶の中のクスリを全部飲み干した。 「フリッツ先生……」 (もう先生のこと、考えたくない!) 「……くるしい、よ……」 (だから、もう――考えたくないの……)
エミーリアは瓶を苛立ちに任せて投げ捨てると、乱暴に布団に包まって目を閉じた。 考えたくない。 だけどきっと、眠りに落ちる寸前まで、フリードリヒのことを考え続けるのだろう。 投げ捨てられた小瓶はころころと転がり、白い猫足のチェアーにあたって止まった。
窓の外ではマロニエの木が太陽の光を浴びて、まぶしく輝いている。 往来を行き来する馬車の音を聞きながら、エミーリアは静かに意識を手放した。
瞳から零れ落ちた涙は、米神を伝って音もなく枕に吸い込まれていった。
2009.9.26
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