塗り込める

※残酷表現アリ

 

夕方になるとぐっと気温が下がってきた。

フリードリヒは重たい足を引きずりながら、寒さにブルリと体を振るわせた。

太陽はすでに建物の向こうに没し、長い影が地に落ちている。

高さのよく似た赤い屋根の連なるウィーンの町を、オレンジ色の光が包み込み、どこからか夕食の準備をしているのだろう、食欲をそそる匂いが漂ってくる。

フリードリヒはそれに少しだけ癒されると、丸めた背をいっそう縮めて深くため息を吐いた。

――疲れた……

たちの悪い流行り病が街を襲ったため、ウィーン中の医者と言う医者はてんてこ舞いになっている。

自分も例外ではない。

今日一日で何件の家を回り、何人の患者を診ただろう?

患者は皆同じ症状を訴えていた。

寒気、全身の倦怠感、高熱、リンパ節の腫れ――

その症状にぞっとする。

ペストが、まさに同じ症状だからだ。

体力のない老人や子供がまずやられた。

自分の患者にはまだいないが、全身に敗血症を起こして黒いあざだらけになって死んだものも中にはいると聞く。

今流行っているのが全てペストとは限らない。

季節性の風邪も季節の変わり目のこの時期、多くなる。

だがもし、ペストだったら――

なすすべもなく犠牲者の命は刈り取られていくだろう。

(まるで死神があざ笑っているかのような……)

そんな不気味な赤の漂う夕暮れの気配に、フリードリヒは唇をかみ締めた。

今月に入って、もう何人の人が亡くなっただろう?

自分は手をこまねいてみていることしかできないのだろうか?

(やりきれない……)

最善は尽くしたはずだった。

自分にできる最高の力でもって治療に当たったはずだった。

「だけど……救えなかった……」

もう少し自分が来るのが早ければ!

もう少し他に方法があったのではないか?

死を看取った後は、いつも後悔にさいなまれる。

 

疲れだけがどっと押し寄せ、やりきれなさと悔しさをかみ締めて家路を歩く。

今日もまた一人、初老の男性を救えなかった。

泣き叫んでいた患者の家族の顔が、頭にこびりついてはなれない。

それでも。

病が移ってはならないから、と家族は病人から引き離され、死して尚その体にすがることは許されない。

これ以上の感染を防ぐためとはいえ、あまりにも酷だ。

(だけど――)

亡くなってからも数時間は病原菌は体の中で生きている。

触れれば家族の命ですら危うくなるのだ。

だからいくら罵られようとも、会いたいと懇願されようとも――会わせてやるわけにはいかない。

フリードリヒはもう一度ため息をついた。

患者が死ねば、もう医者の用事はなくなる。後は神父の仕事だ。

家の窓と言う窓は開け放たれ、遺体は首ににんにくでできた首飾りをかけられる。

 

離れた部屋からは家族が泣き叫んでいるのが聞こえる。

死んだのは――誰だった?

幼い子供?

老人?

若く美しい少女?

ベッドの中で眠るのは、今しがた息を引き取った人であるはずなのに、フリードリヒの目の前で次々に姿を変えていく。

ああ、これは今まで自分が救えなかった人たちの姿だ。

フリードリヒはふらりと揺れる視界に、額を押さえて立ち尽くした。

泣き声、叫び声。慟哭、悲鳴が頭の中で渦巻く。

もうやめてくれ!

もう許してくれ!

救いたかった!

自分だって救いたかったのに!

 

 

のどの奥がかっと熱くなる。

 

失意のままふらふらと歩き回り――気がついたら、フリードリヒは教会の間に来ていた。

陽はまさに今沈もうとしている。

荘厳なゴシック様式の教会は、濃い藍色の夜の気配の中影を落とし、フリードリヒは死んだような目でそれを見上げた。

三角形の鋭利な屋根の影が、自分の影を突き刺している。

心はこんなにも痛いのに……

影は血も流していないなんて!

 

重たい。頭が体が生きることが……!

フリードリヒはぼんやりとした頭で、ふらふらと教会に向かって歩き始めた。

それは救いを求めていたのか――逃げたかったのか。

 

重たい扉を押し開け、どうやって中に入ったのか。

気がついたら、フリードリヒは地下に来ていた。

「ここは……」

カタコンベ――地下墓地、だ。

どうしてこんな所に迷い込んでしまったのだろう?

黒々とした口を開ける洞窟の入り口には、両端にランプが掲げられ、中でオレンジ色の火がチロチロと蛇の舌のように踊っている。

ランプを掲げるように安置されているのは、死神にも似たローブをまとった2人の修道士の骸骨!

背筋から脳天まで、鋭く冷たいものが走り抜けた。

「Memento mori」

入り口に掲げられた言葉に、目を見開き唇をわななかせる。

「死」

この向こうに広がるのは――死の世界だ!

暗い、ランプの光だけのボゥと浮かび上がる洞窟に、フリードリヒは恐れ戦き後ずさった。

まだ足を踏み入れたことはない。

しかし話には聞いていた。

ウィーンの地下には、600万とも700万とも言われる遺体が安置されている地下墓地があるのだ、と。

「これが……そうなの、か……」

洞窟の奥から吹いてくる風は冷たく、重たい。

湿気とカビの匂い、古い遺体の匂い。

そして――淀んだ香の香り……。

 

ゴクリ、喉は引きつった音を立てるのに。

フリードリヒは何かに導かれるように、ふらふらと洞窟の中へを足を踏み入れた。

瞬間――!

ぎょっとして立ちすくむ!

髑髏だ!

無数の髑髏が自分を睨んでいる!

洞窟の壁と言う壁にびっしりと夥しい頭蓋骨が積み上げられ、ぼかりと真っ黒の眼窩でフリードリヒを見ている!

まるで壁に塗りこまれているように整然と、崩れることなく!

頭蓋骨が洞窟の壁を構成しているのだ!

フリードリヒの膝が震えた。

足の下の石畳は湿気に濡れ、端のほうはコケが生えている。

フリードリヒは恐怖に目を見開いて、前方を凝視した。

どうやら洞窟は少し先で曲がっているようだ。

後ろを、と見れば自分が来た道は闇に閉ざされ、僅かに骸骨の白がボウと光っている。

進むしか、ない。

前方、所々に置かれたランプは――否、ランプを持った項垂れた骸骨が足元を照らしてくれている。

その頼りない光を元に、歩くしかないのだ!

フリードリヒは覚悟を決めた。

ぼんやりとしたオレンジ色の光に照らし出される、古びた茶褐色の、骨、骨、骨!

大たい骨は大たい骨で纏め上げられ、整然と山のように積み上げられている。

異様なのはそれだけではなかった!

奥に進むにつれ、骨はまるで悪魔の芸術作品のように様々な姿に形を変えている。

腕の骨を集めて、立体的な聖杯を模したもの。

巨大な黒鷲ならぬ、白骨の鷲を作ったもの!

フリードリヒは顔をしかめた。

骨で作られた鷲は左足に頭蓋骨を、右足に十字架を掴んでいる。

ふと上を見上げれば、シャンデリアがあった。

ぼんやりとした小さな光を無数に灯すのは――

「ぐッ!」

フリードリヒは思わず膝をついて手のひらで口元を覆った。

ひどい吐き気がこみ上げてくる。

骨だ。

ここにある全てのものは、骨で作られている!

一体誰がこんなものを作ったのだろう!?

何の目的で!?

悪魔の所業にこみ上げてくるのは、もはや恐怖だけではない。怒りだ!

その時だった。

誰かが歩いてくる……?

フリードリヒは足音を聞きつけ、カタコンベの奥をにらみつけた。

ポッ――

天井から雫が落ち、頭蓋骨に当たり跳ね返る。

 

足音が止まった。

何者かが自分の前、立ち止まる!

「……おやおや」

ふいにランプの光に照らされ、フリードリヒはまぶしさに目を細めた。

「こんな時間に人がおいでとは」

少しかすれた、ハスキーな男の声だ。

姿は闇にまぎれ、見えない。

「失礼。上を留守にしていたから。……懺悔にこられたのですか?」

柔和な声。

この場には不似合いな静けさと慈愛を含んだそれに、フリードリヒの眉根が寄る。

男はフリードリヒが床に膝を付いたままでいるのを見ると、ランプをずらして腕を伸ばしてきた。

「大丈夫ですか? ずいぶんと具合が悪そうだ」

医者を呼んだほうがいい。

そういう男に、カッと頭に血が上る!

こんな所にいる人間に!

命をもてあそぶようなまねをする人間に、そんなことを言われたくはない!

「医者は私だ!」

叫んだ瞬間、体がしゃんとして、フリードリヒは男の腕を払いのけた。

「――これは失礼」

その様子に男はクスクスと笑うと、胸元に手を置いて優雅に腰をおって見せる。

男の動作の一つ一つに腹が立つ。

怒りも警戒心もあらわに睨みつけるフリードリヒに、男は僅かに声に苦笑をにじませると、ランプをおろした。

「わたくしの名はデメル。この教会の神父をしております」

告白したいことがあるのなら、なんでもお聞きしますよ。

次いで付け加えられた言葉に、フリードリヒはぎり、と奥歯をかみ締めた。

男のささやくような声は淀んだ死の空気に溶け込み。

現実離れした感覚に、恐怖を麻痺させる。

鷲のレリーフの前に立つ男の背には、まるで骨でできた翼が生えているかのように見え、フリードリヒはこぶしを震わせると男を睨みつけた。

 

 

  

2009.9.27