伝染

 

※残酷表現アリ

 

その男は奇妙な男だった。

表情やしぐさは、神父らしい慈愛と優雅さに満ちていたが。格好がおかしい。

カタコンベの底のない闇にまぎれるような黒の髪は、両耳の横の髪だけあごのあたりまで伸ばされており、細い三つ編みにされている。

残りの髪もまた複雑に細かく編みこまれており、耳を隠すようにゆったりとゆるく後ろで束ねられている。

白い上衣を上に着た真っ黒の服、顔の右半分を隠す包帯――

男の手に持つランプだけが唯一色を放っている。

中性的な男の顔は、ランプの光を受け濃い陰影を落とし、まるで男の半分が深い闇に沈んでいるように見える。

酷い違和感がフリードリヒを襲った。

ニコリ、神父の浮かべる人の良い笑み。優しそうに細められた目の下にくっきりと浮かぶクマ。

一言で言えば異様だった。

危険だ。

怒りに燃えていた頭が、すぅと冷える。

本能が警鐘を鳴らし、フリードリヒは男を睨みつけたままそろりと身を引いた。

この男は危険だ。

ゆっくりと――彼から離れなければ。

闇に紛れば難しいことではないだろう。カタコンベの明かりは、頼りないランプの明かりだけなのだから!

一歩ずつゆっくりと、しかし確実に男から離れるフリードリヒの足の下で、じゃり、と小さな骨のかけらが鳴った。

しまった!

「おやおや……」

デメルは焦るフリードリヒをおかしそうに見ると、クスクスと笑った。

「どうしたのです? 顔色が悪い」

一歩、デメルが距離をつめる。

「顔が真っ青じゃありませんか」

「――こんな所にいれば、まともな神経の奴は青くもなる」

「まぁ、確かになれない人はそうでしょうが」

デメルはひとしきり笑うと、ポケットから聖水に入っ小瓶を出して掲げてみせた。

「薬をさしあげましょうか?」

「医者に薬、だと?」

「ええ。楽になりたいのでしょう?」

低い心地の良い声。

「わたくしがあなたを、平安に導いて差し上げましょう」

違和感が膨れ上がった!

毒のような甘美な危険をはらんだ声に、フリードリヒの腕に鳥肌が浮かぶ。

この男は、何かがおかしい!

男は続ける。

「悔い改め、懺悔をなさい。さすれば、この闇もあなたを救ってくれるでしょう」

いくらあなたが異教の鬼だとしても――!

「死は全てのものに平等に残酷で慈悲深い」

「鬼?」

今この男は鬼といったのだろうか?

ピンとこずにフリードリヒは嫌悪感も忘れて呆けた。

鬼?

どういうことだろう?

確かに自分はクリスチャンというわけではない。

祖父はジプシーだったと聞いている。

ドナウ川を渡り、ウィーンのはずれにやってきた、と。

ジプシーたちの崇めるのは、太陽などの自然。特定の神ではない。

自然の中に神を見出し、信仰していた。

その心は薄れたとはいえ、フリードリヒの中にも確かに根付いている。

特に信心深いわけではなかったが、異教徒といえば異教徒だろう。

デメルはきょとんとした顔のフリードリヒを見ると、

「おやおや」

と肩をすくめた。

「もしかしてお気づきではなかったのですか?」

「……何をだ?」

「自分がヴァンパイアだということに」

「……何?」

デメルが後一歩の距離をあけて止まった。

ランプの光を受け、頭蓋骨の埋め込まれた壁に細長い影が落ちる。

天井の骨のレリーフの影と重なり、まるでデメルの影が巨大な鎌を持っているように見えた。

この男は一体何なのだろう?

何を言っているのだろう?

意味がわからない。

(吸血鬼だと――?)

そんな馬鹿な。

そんな非現実的なものはいるわけがない!

頭ではそう否定するのに。

今いる場所のせいか――混乱して正常な思考のできない頭に、その言葉がこびりついて離れない。

(聞いてはだめだ)

この男はまともではない。

まじめに相手をするのは危険だ。

早く逃げなければ、そう思うのに。

膝が震え、足が縫い付けられたかのようにその場から動かない!

全身の毛穴という毛穴から汗がブワリと噴出し、体温が奪われる心地がする。

首の後ろがちりちりとし、鼓動が早くなる。

手足が動かない。

そのことが、ますますフリードリヒをパニックに陥れる。

フリードリヒは浅い呼吸を繰り返しながら――それでもデメルの目に魅せられたように一歩も動くことができなかった。

デメルの言葉の毒が、全身に回り脳神経の中枢を破壊する。

吸血鬼――

どんなにそれを否定しようとも――心の奥にストンとその言葉は収まっしまった。

 

自分はどうして医者を志したのだったか――

(血が……好きだったからだ……)

あの赤黒い液体が、宝石のようにきらめき、甘美な芳香で自分を魅了してやまないからだ。

幼い頃は自分の腕を薄く刃物で筋をつけては、ぷくりと膨れ流れる血を見てうっとりとしていた。

やがて歳を追うごとに興味は血だけにとどまらなくなり――生き物の死体から飛び出した目玉や骨を見ては、生物を構成する組織の神秘に心を奪われた。

 

どうして猫の瞳孔は細長く、犬の虹彩は丸いのか。

両の手のひらに一つずつ乗せては、その違いを考えていた。

 

そんな自分を気味悪がった大人を納得させるため――何より自分自身の異常さをごまかすため……

自分は医者の道を志したのだ。

 

「……」

今まで忘れていたのに。

それを、今ここであかされることになるとは。

チロリ。

みぞおちの奥で、何か暗い炎が灯った気がした。

だが認めるわけにはいかない!

「私は人間だ!」

認めれば、全てが!

自分が今まで築き上げてきたもの全てが! 足元から崩れ去ってしまう。

屹然とした口調で言うフリードリヒを見て、デメルは片眉を跳ね上げると首をちょこんと横にかしげた。

「可愛そうに。あなたはまだ自覚していないのですね」

「自覚も何もない。吸血鬼など! そんな馬鹿なものがいるわけがないだろう!」

そんなもの子供だましだ。

「流行り病にパニックになった人々の妄言だ!」

今でもどこかで上がっているであろう魔女狩りの煙を思い浮かべ、吐き捨てるように言う。

ウイルスは病だけをまき散らかすのではない。

死の恐怖は人々の心に知らず伝染し、広まっていく。

でっち上げられた原因。

狂気に追い詰められ、贄を差し出す人々。

恐怖は冷静な思考を奪い、人々を殺人鬼へと変える。

 

鬼というならば。

自分より彼らのほうがふさわしいではないか!

そう叫んだフリードリヒの手に、デメルは顔色を変えず聖水をぶちまけた。

「――ッツ!?」

熱い!

真っ赤に焼けた鉄を押し付けられたような、鋭い痛みにフリードリヒは左手を見た。

「何、だ……? これは……!」

聖水のかけられた手が、びりびりと震えている。

まるで酸をかけられたように手袋は溶け、血がジワリとにじんでいる!

それでけではない!

右手に聖水がつかぬよう注意深く手袋を引き抜いたフリードリヒは、愕然として手を凝視した。

手のひら全体に、何やら難解な模様が浮かび上がっているではないか!?

「……こ、れは……?」

口に出したことも気づかず、フリードリヒはその模様を凝視した。

まるで魔方陣のような――円の中に細かい模様が傷口に浮かび上がっている。

光る細い緑の線で構成されるそれは、傷口を切り裂かんばかりに煌々と光り、フリードリヒは動揺して左手を手袋ごと右手で抑えるとデメルを見上げた。

瞬間――

目に入ったのは、鋭利な杭!

腕ほどの長さの鈍色の十字架!

鋭利な先は線ではなく点に! 視界いっぱいに広がる!

よけられない!

十字架が勢いよく迫るのを、フリードリヒは呆然と立ち尽くして見つめていた。

まるで現実味のない、悪い夢の中の出来事のようだった。

 

 

  

2009.9.30