※残酷表現アリ

 

結局、エミーリアの飲んだ睡眠薬は一回分の量だったらしく、朝目が覚めて彼女は絶望した。

(――死ねなかった……)

部屋を見回してもフリードリヒはいない。

それはそうだろう。

家族はまさか、自分が睡眠薬などを飲んだとは思ってもいないのだから。

エミーリアはやるせないため息をついた。

薬のせいで頭の芯が重たい。動くのも億劫だ。

(結局、現実はあくまでも現実なのね……)

フリードリヒのキスで目覚めたい、と思っていた自分がひどく恥ずかしい。

エミーリアは赤い頬を膨らませると、枕に顔をうずめてばたばたと足でベッドをけった。

体の弱い自分は、いつまでも自分の好きな時間まで眠っていられる。

メイド達も起こしにはこない。

――寂しい。

一日が、何もせずに終わっていく。

虚しい……。

こんな生き方しかできないなんて!

(こんなんじゃ、生きている意味なんかない……!)

エミーリアは頬にためた空気を力なくはくと、とぼとぼとした足取りで窓際に寄った。

薄いレースのカーテン越しに入る日差しはもう高い。昼はとっくに過ぎているのだろう。

今日もいい天気だ。

大きな建物と建物に区切られた狭い空は、透き通るほどに高い。

(憎らしい)

自分はこんなにも苦しいのに!

フリードリヒに会えなくて、こんなにも辛いのに。

どうして自分以外のものは、あんなにも綺麗にキラキラと輝いているのだろう?

通りを行く4頭引きの馬車も。

日傘を差した綺麗な女の人も――

窓ガラスの向こうの世界は、どれも綺麗で……

ジワリと、悔しくて涙が浮かんだ。

いつもそうだ。

自分は望んだものを何一つ手に入れることができない。

今まで体が弱いせいで、どれだけのものを諦めてきただろう。

フリッツと出会えたことだけが喜びで。

彼と出会えたのは、体が弱かったおかげだ、とまで思うことができるようになったと言うのに。

会えなくなれば、意味がなくなる。

(こんな出来損ないの体なんか、もういらない!)

考えれば考えるほど、哀しくなる。

ぽっかりと心が虚ろになって――空っぽになった心が、ただ一人だけを求めている。

(フリッツ先生……)

エミーリアはカーテンをマントのように体に巻きつけると、目に涙をいっぱいにためて、すがるような目で、街から頭一つ分飛びぬけている教会を見つめた。

(神様……どうか、また先生に会わせて――!)

 

 

返り血

 

 

エミーリアは教会に向かう馬車に揺られていた。

夕方になると急激に気温が下がる。

毛皮の襟巻きのついたミルキーローズ色のコートに、首から提げた毛皮のマフに手を隠して。

沈痛な面持ちで、ただ馬車の音に耳を傾けている。

ああ。

一日が無意味に過ぎていく。

何の張り合いもない。

何もする気にならない。

食はますます細くなるのに、心だけが燃えていて何かをしたい衝動に駆られる。

 

手紙でも書いてみようか?

毎日自問自答しては否定する。

(ダメ。だって何の用もないのに。そんなの変だよ)

 

いっそ水風呂を浴びて風邪を引いてみようか。

そう思ったけど、バスルームに入った瞬間慌てて飛んできたメイドたちに止められた。

以前何度かやったことがあるから、彼女たちも警戒しているのだろう。

 

手紙もダメ。

フリッツの所に行くのもダメ。

――そうなると、彼に会うためにできることが、何も、なくなる。

 

エミーリアはため息をついた。

どうしたらフリードリヒに会えるのか、一生懸命考えてみるのに。体が弱いせいでそのほとんどが反対されてしまう。

メイドたちがエミーリアの動向に目を光らせている。

彼女たちは自分の奇行にも慣れている。この想いも全て、筒抜けなのだろう。

悔しくて、エミーリアは唇をかみ締めた。

家にいても居場所がなかった。

何か一つするたびに、彼女たちの目が気になった。

(こんな自分がたまらなくイヤ!)

フリードリヒのことは好きだけど……。

誰か一人にみっともなくすがるなんて!

自分が自分じゃなくなったような気がして、イヤだった。

――昔に戻れたら……

何も知らない子供の頃に戻れたら、どんなにいいだろう。

ぽたりと涙がこぼれた。

最近はなんだか泣いてばかりいるような気がする。

 

(こんなの、ヤダ)

こんな苦しみ捨ててしまいたくて、楽になりたくて……

エミーリアは家族を説得すると、教会だけという条件で外に出ることを許されたのだ。

エミーリアは黒い四頭引きの馬車の中、膝を抱えて一人小さくなった。

陽はまさに今沈もうとしているのだろう。

揺れるゴブランのカーテンの隙間から入ってくる光は、オレンジがかっている。

肌寒くなってきた空気にも気づかず。

エミーリアはぼんやりと馬車に揺られていたが、御者の声にハッと我に返ると窓の外を見た。

どうやら教会に着いたようだ。

こんな時間だからだろう。御者の手を借りて降りたそこには、誰もいない。

禍々しいほどに赤い空の下、教会は黒いシルエットで聳え立っている。

エミーリアはそこに御者を待たせると、恐る恐る教会に入った。

 

重たい扉を押し開き――

遠慮がちに、靴音を響かせて中に入る――

 

そこには重厚な世界が広がっていた。

 

天井から下がる大きなシャンデリア。――それは火が入っていれば、どんなに美しくきらめいたことだろう。――

ステンドグラスは夕日を浴び、いつもより赤みがかった影を床に落としている。

もう皆帰った後だからだろうか?

灯の入っていない教会は暗く、ステンドグラスの色だけが暗く輝く大理石の上に光を落としている。

エミーリアは、喉を鳴らしてつばを飲み込んだ。

まるで世界は自分一人を置いて、なくなってしまったかのような頼りない心地がする。

並んだたくさんの木の椅子。大きな額に入ったキリストのさいご ――

誰もいない、灯のともらない協会はいつもと違ってどこか不安になる。

「……神父様はどこ?」

小声で呟いたはずの自分の声が、伽藍とした教会内に思ったより響きエミーリアはビクリと肩を揺らした。

暗い闇に沈んだ懺悔室。パイプオルガン――

聖なる場所で見た思わぬ闇に、エミーリアはますます心細くなった。

高い所にあるシャンデリアが、今にも落ちてきて自分に突き刺さりそうな気がする!

エミーリアは体をきゅっと体を縮こませると僅かに落ちる光の下に走った。

 

見慣れたはずの教会なのに、なぜか恐ろしくて。

きょろきょろとスカートを握り締めて辺りを見回すエミーリアは、端の方にランプの明かりを見つけて慌ててそこに駆け寄った。

(明かりがついているってことは、きっとそこに神父様がいらっしゃるんだわ!)

両手を広げ、慈愛に満ちた笑みを浮かべる天使の横にカンテラが置かれている。

エミーリアは天使のいざなうままに階段を駆け下りると、明かりをたどって脇目も振らず走った。

もし彼女が辺りを見回す余裕があれば、決してそこには入らなかっただろう。

 

カタコンベなどには――

 

 

xxxxxxxxxx

 

 

声が聞こえた。

(フリッツ先生?)

フリードリヒの声だ!

それを聴いた瞬間、ぱぁと世界がはじけた。

ここがどこだ、などどうでも良くなる。

エミーリアは彼を忘れようと教会に来たことなどすっかりと忘れて、ただ只管声だけを追って走った。

だんだんと大きくなる声。

嬉しい。

思わぬところで会える期待に心が弾む。

まさかこんなところで会えるなんて!

今までの悲愴な気持ちはすっかりと消えてなくなった。

(先生! 先生!)

一体フリードリヒは何を言っているのだろう?

早く会いたくて心が急く。

あの角を曲がったら――そこにフリードリヒがいる!

喜びに満ち溢れるエミーリアは、しかし激昂するフリードリヒの声を聞いてびくりと足を止めた。

(……怒ってる?)

あんなに優しかったフリードリヒが?

いつも困ったように笑う笑顔や、優しそうな声以外聞いたことがないのに!

自分が怒られたわけでもないのに。

ショックを受けて息を呑んだエミーリアは、そこでふと周りにあるものに気づいて思わず悲鳴をあげそうになった。

骸骨だ!

無数の骨が回りに積み上げられている!?

何と言う骨の数だろう。

自分は何と言うところに迷い込んでしまったのだろう!?

気がついた瞬間膝ががくがくと振るえ、腰が砕けそうになる。

だけど――

この向こうにはフリードリヒがいる。

ただそのことだけを救いに、エミーリアは涙目になりながらも足を踏ん張って恐怖に耐えた。

(先生が出てくるまでの我慢……)

先生が来たら一緒に帰るんだから!

きゅっと目を閉じて、気を紛らわせるようにフリードリヒたちのやり取りに耳を傾ける。

フリードリヒと一緒にいるのは誰だろう?

エミーリアは首をかしげた。

優しそうな、落ち着いた声――だけど……

(なんか怖い……)

ねっとりとからみつくような悪意に満ちた声。

(先生……そいつに関わっちゃダメ!)

心の中で見えないフリードリヒの背中に向けて叫ぶ。

しかしフリードリヒはそれに気付くことなく、会話を続ける。

 

そしてエミーリアは聞いてしまった。

彼が吸血鬼だと言うことを――!

(……吸血鬼?)

そんなものが実在するのだろうか?

あまりの驚きに、思わず恐怖を忘れて眼を開けてしまう。

エミーリアはぽかんとした顔で、男の言葉を聴いていたが悲痛なフリードリヒの叫びにも似た声を聞いて、ハッと体をこわばらせた。

まさか――。

(本当、なの? 先生……?)

フリードリヒの嘆きが、怒りが! 洞窟内にこだまする!

吸血鬼など信じていなかったが。

ああ、事実なのだ。

ストンと不思議とそれが心に収まった。

(でも先生が吸血鬼でも……)

別に自分はかまいやしない。

(だってそんなこと関係ない!)

フリードリヒはフリードリヒ。

自分は自分だ。

泣いているように震える小さなフリードリヒの声に、エミーリアの心臓が鷲づかみにされたように痛んだ。

(先生、泣いてるの?)

今すぐ抱きしめて、慰めてあげたい。

先生に変なこと言うやつを殴って、先生をそこから連れ出してあげたい!

(先生かわいそう!)

フリードリヒに対する同情と、見えない敵に対する怒りがふつふつと湧き上がる。

エミーリアはこぶしを握り締めると、曲がり角から飛び出した!

驚愕に目を見開く男と目が合う――!

 

「え……?」

 

次いで目の前に広がったのは――

(赤い……レースのベール?)

否――!

それは音を立てて自分の上に降りかかってきた!

「あ……」

男が持っているのは、長い十字架!

その先端から滴り落ちているのは……

 

「あ……!」

訳がわからないまま、足が恐怖に震える。

ぴんと張り詰めたピアノ線のような緊張感の中、神父服を着た男の鋭い針のような目が自分に突き刺さる!

口を押さえながら後ずさるエミーリアは、それでも震える視界でフリードリヒを探した。

(せ、んせい……?)

フリードリヒは男の足元に、人形のように転がっている。

エミーリアは目を見開いて、体を震わせた。

コレハ、ナニ?

後頭部にカァッと熱がたまっていく。

パニックになった頭では、何も理解できない。

ただ体ががくがくと振るえ、息ができなくなる。

指先から、頭のてっぺんからスゥと血の気が引いて行くのがわかる。

 

「やれやれ。今日はお客の多い日ですね」

神父が苦笑し、ゆっくりと十字架を構える!

ヌラリ。

血が鈍色の棒を伝い、尖った先端から落ちた。

フリードリヒはピクリとも動かない。

 

彼ノ 足元ニ 広ガッテ イクノハ――

 

エミーリアは震える指で自分の頬を撫でた。

熱い。

湯を頭から掛けられたような気がしたのは――

恐る恐る目の前に指をかざす。

真っ赤な……

エミーリアはけたたましい悲鳴を上げて、フリードリヒにすがりついた!

自分でも何を叫んでいるのかわからない!

目の前に敵がいるのも忘れ、フリードリヒの体を揺さぶり泣き喚く!

デメルは頭から血を被った少女の姿を見て、鋭い目を光らせた。

 

 

  

2009.10.1