オッド・アイ
※流血注意
フリードリヒの白いシャツに、じわじわと血が広がっていく。 エミーリアは半狂乱になって、彼の傷口を押さえた。 目の前の光景が信じられない。 体が震える。 どうして彼は倒れているのだろう?
手のひらにはもう彼の鼓動は伝わらない。 しかしエミーリアは、それに気がつく余裕はなかった。 何とかしてこの血を止めなければ、彼が死んでしまう! ただその一心で、震える体を叱咤して彼を止血しようと試みる。 何度も名を呼び意識を呼び戻そうとする。 エミーリアの白いレースの手袋は、フリードリヒの血にぐっしょりと濡れ、彼女はフリードリヒに覆いかぶさるようにして、必死に名を叫び続けていた。
瞬間――
デメルの脳裏にフラッシュバックした。
濃い血の匂い…… 自分の名を呼ぶ少女の声――
あれは……誰だったのだろうか……? デメルは知らず包帯に隠していた右目に指を這わせていた。 ずきずきと目が痛む。 ……この声を聞いていたくない。 悲痛な叫び声を! 「……くッツ!」 心の底に封印した、幼い日の記憶が蘇りそうになる――! デメルは右目に爪を立てた。 コノ声ヲ 聞イテ イテハ イケナイ 心の中でもう一人の自分がそう囁く。 自分は何を思い出そうとしているのだろう? 危険ダ
デメルは顔から表情を消すと、泣き喚く少女の肩を掴んだ。 驚き顔を上げた少女の目が、恐怖に見開かれる。 「離れていなさい」 声も、目の前の光景も、自分とは関係のない遠くの出来事のように感じる。 自分は今……どんな顔をしているのだろう? エミーリアの薄いブラウンの瞳から、とめどもなく涙が零れ落ちていく。 「……ッ!」 その透明な目に写った自分を見て、デメルはクシャリと顔をしかめると左手でエミーリアの目を覆い隠した。 「――目を閉じていなさい」 動揺する心を押し殺して、勤めて優しい声を出すけれど。 きっと聡明な彼女には、自分の本性はばれているだろう。 見られたくないのは―― 愛しい者の死か……それとも殺人鬼である自分自身か。
これからする事に、躊躇いがないと言えば嘘になる。 今までどんな相手と対峙しても、後悔など感じなかったが。
鬼としての本能が目覚めれば、人襲うようになる。 次に目覚めたとき
エミーリアは叫ぶと 震え
ランプの光の届かない二人の顔半分が、闇に沈んで見える。 エミーリアの薄いブラウンの瞳と、フリードリヒの明るい緑の瞳が―― 一対になって自分を見つめる。 デメルはため息をつくと、構えていた十字架をおろした。 「――仕方ありませんね……」 殺気を感じない、静かに凪いだフリードリヒの瞳に殺意がそがれる。 「まぁ、いいでしょう……。わたくしだって、何も望んで憎まれ役にはなりたくはない」 デメルは苦笑すると床に置いていたランプを取った。 「あなた方に罰を下すのは、どうやらわたくしではなく――」 違う方々のようですから……。 デメルの不吉な予言に、エミーリアは彼をキッと睨みつけるとフリードリヒの腕を取って立ち上がらせた。 「やれやれ」 デメルが肩をすくめる。 「いらっしゃい。もう教会は閉めてしまいますよ」 彼らを逃すことに不安はあったが。 フリードリヒのあの様子ならば、まだしばらくは二人に時間はあるだろう。 (どの道あの二人に未来はない……) ならば。束の間の幸せを、見せてやってもいいのではないだろうか? 苦い気持ちで階段を上がると、警戒しながら出てきた二人を見て、デメルはカタコンベの入り口を閉ざした。 「この先異変を感じたなら、わたくしの元へいらっしゃい」 去り際にエミーリアにそっと告げる。 「神の救いが欲しければ、わたくしの元へおいでなさい」 この男の手を捨て、彼女が来ることはないだろうけれど。 そう知りながらも言った言葉は、エミーリアのきついまなざしに弾き飛ばされた。 「金輪際、アンタのところになんか来るもんですか!」 エミーリアはフリードリヒを支える腕に力をこめると、吐き捨てるように言ってツンと顔を背けた。 彼女がそう言うことはわかりきっていたけれど。 二人の未来を思ってデメルは複雑な表情で頭を振ると、教会の扉を閉めた。
冬はもうそこまで来ているのだろう。 吐く息は白く、きな臭い空気に混じって――溶けるように消えていった。
2009.10.5
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