記憶が戻る

 

※死体、幽霊出てきます。苦手な方注意。

 

夜な夜な人を喰らう池があるという。

池の辺には、菖蒲が咲き。秋ともなれば萩の花が池を縁取る。

濃い緑の水面に映るのは、目に鮮やかな新緑の青!

微風に音を立てて柳は揺れ。人目を忍んで恋人達が逢瀬を楽しむ。

隠れた風光明媚な場所であった。

かつては。

 

「ご主人ー、帰りましょうよぅ!」

が牡丹の陰に隠れながら袖を引っ張ると、牡丹は眉間にしわを寄せてため息をついた。

池に近寄れば死ぬとの噂が立ってから、人々は池に近づかなくなり。

今やこの地は枯れ草の茫々と生い茂る荒れ果てた場所と成り果てていた。

いかにも何か出そう、というより。もう出ている、おどろおどろしい池。

どんよりと濁った水面は、夜の闇に黒々と光り。

藻や水草の浮ぶドロドロとした水面には、草鞋や笠。蓑と言った物が浮かんでいて、そこで何人もの命が失われた事を無言で伝えている。

「ヒ、ヒィィッツ!」

は引きつった悲鳴を上げて、牡丹の後ろに隠れた。

いくらライバルとの差をつけるための修行と言っても、幽霊退治なんかに自分にを引っ張り出さなくてもいいではないか!

心の中で先ほどからしきりにこぼす愚痴も、恐ろしくて本人には伝えることはできない。

ただ震えながら主人にしがみ付いているだけ。

は半泣きになりながら、牡丹の背中にピトリと引っ付いていた。

がちがちと歯の根はかみ合わず、まともにしゃべる事はできないし、先ほどからしきりと膝が笑って、今にも腰が抜けそうだ。

幽霊を見たのはコレが初めてだった。

勘弁してよー! もう!

孝明天皇は

「二人で力を合わせて京の治安を守ってくれ」

と言っていたが。安部と芦屋は力をあわせる気などサラサラないらしい。

恨めしそうな顔をした若い女――いや少女と言ったほうがいいかもしれない――は、手首に腰紐を巻きつけ、牡丹をにらんでいる。

水にべっとりと濡れた髪は青白い顔に張り付き、白い襦袢は泥と藻に汚れ凄まじい色になっている。

月は雲に隠れて姿が見えない。

漂ってくるのは何かが腐ったような胸の悪くなる匂い、生臭い匂い。

柳の葉は生暖かい風に頼りなげに揺れ、背の高い雑草がかさかさと乾いた音を立てている。

池の水はねっとりと黒く光り、女の横には青白い火の玉が二つ三つ浮んでいる。

牡丹は己の手首に巻きついた、べっとりと汚れた腰紐を見て舌打ちをした。

「ご、ご主人ー」

牡丹の手首の紐は、少女の手首へと繋がっている。

「は、はいィ!」

「本来ならお前がせねばならぬ仕事だが……」

彼女はコレが初仕事だ。

「よく見ておけ」

牡丹は横目でチロリと情けない鬼を見ると、目の前の亡霊に目を移した。

「私を池に引きずり込む事はできんぞ」

居丈高な牡丹の台詞に、少女は物言いたそうに口を動かすが、声を発することはできない。

ぞっとする陰惨な濁った目で牡丹をにらむと、口元がニィと裂け。

ピン! と二人を繋ぐ腰紐が張り詰めた!

髪の間から覗くその目は血走り、水死したのだろう。顔はまるで柔らかなスポンジのように、醜く膨れ上がっている。

ギリ、牡丹の手首に紐が食い込む!

見る見るうちに手首から先の色が変わり、感覚がなくなる。

牡丹は低い声で呪文を唱える!

ふわり。

彼を包みこむように清浄な風が噴出し。円を描くように風が下から吹き上げる――!

静電気?

いや違う! 青白い小さな竜だ!

彼の身体を伝うように走り抜ける。光の竜!

黒い濡れたような髪が光に照らされ、ふわりと宙に舞う。

これは――ご主人の力が具現化したもの!?

どうしてそれが目に見えるのか分からない。だがそう感じる!

青白い竜は牡丹と少女を繋いでいた腰紐を伝うようにして走り抜けると、彼の呪文が終るのと同時に――! 鈴のような音を立て はじけ、シャワーのように少女を包み込んだ!

「あ――」

小さな声を上げたのは、少女だったかだったか。

目の前の亡霊は、生前の美しい少女の姿に戻っていた。

「あ……!」

少女が震える指で恐る恐る自らの頬に触れる。

丸顔の愛らしい若い娘――。年のころは自分と同じくらいだろうか。

それなのに、もう死んでしまったなんて……。

は痛々しい物を見るように、眉をひそめた。

「もうお行き」

彼女の脚から下は池の中に入っていて見えなかったが。

少女は牡丹の声に恐る恐る片足を上げて池の上に立つと、足首に絡まっていた藻はみるみるうちに消え、躊躇うように牡丹を見つめた。

「男の事はもう忘れろ。輪廻の流れに戻り、お前は新たな生を受けよ」

牡丹のそっけない言葉に、少女は丸い目を開いて――嬉しそうに頬を上気させてニッコリと微笑んだ。

亡霊の周りを飛んでいた火の玉は、今や丸い柔らかな光の玉になり。彼女を導くようにくるくると回っている。

思い切ったように、少女が水面を蹴る。

ほっそりとした足の指が水面から離れた瞬間、小さな波紋がいくつか広がった。

もう少女を縛り付けていたしがらみは何もない。

それはそれは嬉しそうに笑いながら、段々と消えていく少女に、は驚いたような小さな声を上げた。

「消え、た……」

あの子は一体牡丹の何だったのだろう?

彼はいやにあの少女について詳しいようだったが。

もしかして知り合い?

まだしっかりと袖を握り締めながらが問うと、牡丹は深い息を吐いてを睨んだ。

「あの娘は男とここで心中を企てた。だが男は途中で怖気づき、手首の紐を食いちぎって一人池から逃げた」

己を置いて逃げる男を見ながら、少女が感じたのは絶望。

決して離れぬよう、きつく互いの手首を結んだのに。

男を追おうにも体に力が入らず。少女は男を恨みもがき苦しみながら、ひっそりと死んだ。

最後まで目に映っていたのは、男の残した水面に漂う白い泡。

まるで水の底と天とを結ぶ柱のように。光に向かって、まっすぐに細かな泡が伸びている。

手を伸ばして、せめてそれを捕まえようとしたけれど。

泡は指が触れると次々に弾け、消えた。

 

恋人に捨てられ一人死んだ少女は、恨みが固まり怨霊となって人々を池に引きずりむようになった。

「……でも何でご主人はそれが分かったんですか?」

やっぱり知り合いの少女だったのだろうか?

遠慮がちにだんだんと尻すぼみになるの声に、

「読み取れ」

牡丹は呆れきってそう言った。

「は?」

「怨霊はそこに強い思念を残している。それを読み取れば分かる」

「どうやって?」

「――心を沈めて、池を見ろ。目ではなく、目の奥で見るような感じだ」

目の奥で見る?

集中して黒光りする、おどろおどろしい池を見る。――何が見えるって言うの?

「……見え、ません」

「池の周りの空気と同調しろ。だが飲み込まれるな」

「そんなコト言われても……」

眉をハの字にして困りきって牡丹を見上げると、牡丹は後ろからを腕に包み込んだ。

「目を閉じろ」

大きな冷たい掌で、の目を覆う。

ふわり、と刻みタバコの苦い匂いがした。

「心を静めろ」

「はい」

「落ち着いて息を吐け」

「はい」

肩に回された牡丹の腕から、目を覆う掌から! 先ほど感じた冷たい力の波動を感じる。

青白い竜、ご主人の力――。

引っ付いた体から熱と共に力が流れ込んでくる!

首の後ろがちりちりとして、風もないのに後れ毛が揺れる。

「目を開けろ」

耳元で静かな低い声が聞こえ。

は目を開いた。

「――あ!」

なんと美しい景色!

そこにあるのが、同じ池とは思えない!

水は豊かに滾々と湧き出し、水面に波紋を作っている。

小さな漣の立つ池は、底が見えるほど透き通っており、青白い月と無数の星がゆらゆらと映っていた。

池の縁を飾る菖蒲は、芳しく咲き誇り。楓は平たく青々と茂り、幾層も折り重なって池を隠している。

「これは……?」

まるで一服の絵のような――。

そのあまりの美しさにため息をこぼしながら牡丹を見上げると、

「これは池の記憶だ」

牡丹は煙管を取り出しながら、相変わらずの抑揚の無い声で言った。

「池の記憶?」

「目で見えるものが全てではない。お前は鬼だ。人と同じ物だけを見て満足をするな。それ以上のものを感じ取れ」

この世は表層だけの世界ではなく、立にも横にも無限の広がりを持っている。

そんなことを言われても……。

ついこの間まで人間だった自分にはわからない。

牡丹の満足のいくような鬼になど――

なれるわけがない。

押し黙ったを見て牡丹は彼女を解放すると、

「できるな?」

有無を言わさない口調でそう言った。

「……は、い」

渋々とが頷くのを見て、鷹揚に目を細める。

「早く力をつけろ。安部の鬼には二度と負けるな」

「……ガンバリマス」

仕方なくもごもごと口の中で気が言うと、牡丹は口から細く紫煙を吐き出した。

 

細く空に舞い昇る紫煙は。

死ぬ寸前に少女が見た、天に繋がる柱にも似て。

は縋るような瞳で、空に浮かぶ月を見つめた。

心に浮ぶのは、様々な思い。

色々な感情が複雑に絡まりあい、自分でも泣きたいのか祈りたいのか。できないと逃げ出したいのかわからない。

逃げる?

そんなこと、ご主人が許すはずもないけれど……。

池の記憶の中に佇む牡丹は。この世の物とも思えぬ美しさで。

彼女は自分を束縛する、美しい主人を見て人知れずため息をこぼした。

自分が死んで怨霊になったら。

主人は自分を天に送ってくれるだろうか?

 

そんなことを考えながら。

は頭を振って、唇をかみ締めた。

 

2006.12.16