君の名は

 

 

「今日からこの男がお前を指導する」

ある日の夕方、唐突に牡丹が言った。

彼が煙管の煙を吐きながら紹介したのは、やたらとテンションの高い若い男だ。

「どーも! どもども! 雪丸どすぅ。あんじょう、よろしゅう!」

「へ? あ……どーも」

男のノリについていけずたじたじとが言葉を返すと、右手でだるい敬礼のような物をしていた雪丸は、不満そうに唇を尖らせて顔を近づけた。

「なあんやぁ。あんさんノリ悪いなぁ」

彼岸花のような派手な赤い髪の毛。

頭の上にちょこんと乗った、修験者のような黒い小さな頭巾。

胸の辺りまで伸びた髪は、元気よくピンピンと跳ねている。

脚絆を巻いて、腰に太刀をさした雪丸は背が高くがっしりとした体つきの割には、どこか可愛らしい男だった。

好奇心一杯にくるくると動く丸い瞳。

どこか鳥類を思わせる、金色の目に縦長の黒い光彩。

目の周りを縁取る、黒い模様――刺青――?

そして、そして! 背にある、鷲のような茶色の翼!

はぽかんとして、どう反応してよいのか分からず雪丸と名乗った天狗を凝視した。

天狗を見たのなど、これが初めてだ!

まさか本当にいるなんて……。

思ってもみなかった!

あまりの驚きに声も出ず、ただただ固まるを、雪丸は腕を組んででじろじろと眺めていたが。

「えらい別嬪さんやなぁ。こりゃ大きぅなるんが楽しみや!」

気に入った気に入ったと連呼して、呵呵と笑った。

「じゃあ、後は任せた」

二人を引き合わせるだけ引き合わせて、牡丹は無責任にさっさとどこかに去ってしまう。

「え……? あ、ご主人?」

取り残されて途端に不安そうになったを見て、雪丸は彼女の頭をかき混ぜるようにがしがしと撫でると、背をかがめてニッコリと笑った。

「だぁいじょうぶじゃ! ワシに任せとき! 一人前の鬼にしちゃるけぇ」

「……はぁ」

と言われても、不安は消えない。

渋々と立てた膝を戻しその場に正座したの前に、ちょこんとしゃがむと雪丸は背の翼をはためかせて

「の!」

安心させるようにニッコリと笑った。

「はぁ……。あの、よろしくお願いします……」

「なぁんや。もっと大きい声で!」

「よろしくお願いします!」

「よしよし」

何だ、この人……?

半ば怒鳴るようにが言うと、雪丸はやっと満足した様に頷いた。

「まぁ、ほんなら今日はまず自己紹介からやな!」

「はぁ……」

「ワシの名前は雪丸! ん? これは言うたか。ぴっちぴちの新婚ほやほやでぇ、特技は飛空術。剣術、棒術じゃ」

「……新婚、なんですか」

天狗でも結婚するんだ。

思わず呟いたのが悪かった。

「おお! よう聞いてくれた!」

雪丸は待ってました、とばかりにどかりと腰を下ろして膝を叩いた。

「50年前に嫁を貰ぅたばかりでなぁ。それがまたえらい別嬪さんでの! もーぅ、毎日毎日ラブラブなんじゃあ」

「そうですか」

「なんやー、冷たいなぁ」

「そう見えますか?」

「おお。見える見える」

なら違う話題にしてくれ!

は額に青筋を浮かべながらそう思った。

これは何の罰ゲームでしょう。

どうして初対面の天狗のノロケ話など聞かなければならないのだろうか。

げんなりとして微妙に顔をそらしたが、雪丸は空気が読めないのか、嬉々として最愛の嫁さんとの馴れ初めから現在に至るまでを事細かに語ってくれる。

はっきり言ってどうでもいい。

物凄く疲れる。

ご主人の交友関係って、ホント謎……。

あの牡丹が雪丸と知り合いというのが意外と言うか何と言うか……。

ため息を隠さず適当に相槌を打ちながら、はボゥとそんなことを考えていた。

一生懸命、身振り手振りを交えて話をしている雪丸には悪いと思ったが。はっきり言って、興味がなかった。

恋だの愛だのなんて……。

長い間遊郭に身を置いていたには、あまり触れられたくない話題だった。

 

ややあって、静かになったな、と雪丸を見てみたら。

彼は拗ねたように口を尖らせていじけていた。

「聞いてる? ねぇ、人の話聞いてる?」

「あー、はいはい。聞いてる聞いてる」

「ほんまにぃ?」

「はいはい。本当、本当」

「……ならいいけどよぅ」

まだ不満そうに雪丸はぶちぶちと言うと、やっと気がついたように部屋の中を見回した。

「あれ。もうすっかり暗くなってる」

「あれから数刻経ちましたからね」

「へ? もうそんなに?」

心底驚いたように目を丸めて、雪丸は前かがみになっていた身体を起こしてを見た。

「そろそろ火入れないと……」

月の灯りだけでは暗すぎて、部屋の中がよく見えない。

くたびれたようにが言うと、

「ほんならワシにまかせぃ」

雪丸はにっこりと言って、行灯に向かって人差し指を立ててヒョイと動かした。

「てやっ」

「わ!」

ポン! 小さな音を立てて、いきなり行灯に火がともる。

は驚いて腰を浮かしかけた。

「てや、てや」

ひょいひょいと雪丸は指を動かして次々に明かりを入れると、

「びっくりした?」

悪戯が成功した子どものように嬉しそうに笑って、を見た。

「う、うん」

「へへへ」

本当に驚いた。

指をちょっと動かすだけで火がつくなんて!

目の前の人懐っこい男を少しだけ見直して、が素直に頷くと。

雪丸はすっかりと機嫌を直して、また呵呵と笑った。

「凄いね。天狗ってみんなああいうことできるの?」

今まで抱いていた天狗のイメージが、雪丸とあってからがらりと変わる。

あまりの驚きにが言うと

「んー? まぁ、能力の違いはあるけどぉ……大なり小なり、みんな何かしらの力は持っとるな!」

雪丸は自慢するように胸を張って答えた。

「そうなんだ……」

「おう!」

「それと、さっきから気になって仕方がないんだけど」

「おう! なんじゃい?」

やっとまともにが話題をふってくれて、雪丸はきたきた、というように身を乗り出す。

「京都の人じゃないんですか? 言葉使い、変」

その言葉にガクリと肩を落として、下から恨みがましい目を向けてきた。

「なぁんや。せっかくまともに話しかけてくれたと思ぅたのにぃ……そんなことかい!」

「いや、だって気になって、気になって」

「……ワシらはな。人と違ぅて、ながぁーい年月を生きとるからね。ほなけん、いろぉんな所に行くし、いろぉんなところで暮らすから」

なんかいろんな国の方言混じっちゃって!

雪丸はまた表情をコロリと変えると、呵呵と笑った。

なんていうか……。

本当に牡丹の交友関係が謎だ。

この二人が会話している所を見て見たい!

きっと一方的に雪丸がしゃべっているだけなんだろうけれど。

想像してがふっと笑うと、雪丸は嬉しそうにパァッと顔を輝かせた。

「やぁっと笑ぅてくれた!」

「え?」

「別嬪さんは、やっぱり澄ましとるより笑ぅた方がええ」

「そう、ですか?」

「うん。うん」

照れた様にがはにかむと

「あ! そうや!」

雪丸は何かに気付いたように目を丸くして、それからニィと笑った。

「聞くん忘れとったけど」

「はい」

「ええと……。キミの名は?」

「……はい?」

出会って何刻たっただろう。

そういえばまだ名乗ってなかったっけ?

はため息をつくと額を押さえて名前を告げた。

 ちゃんやな! ちゃんって呼んでもええ?」

「どーぞ……」

ちゃん。ちゃん」

に了承を貰って嬉しそうにぱたぱたと羽根を動かすと、雪丸は何度かの名を繰り返した。

 

この人と話していると、どっと疲れが押し寄せてくる。

こんなんでやっていけるのだろうか?

は米神を押さえながら、やたらと明るい天狗を見て肩を落とした。

なぜ牡丹がさっさと出て行ったのか、なんかわかったような気がした。

 

この人に個人レッスン受けるなんて!

何だか、ビフォーとアフターで性格が変わりそうで恐かった。

 

 

2006.12.17