古希を迎えて             2018年10月

人間、この世に生を受けてから、事故や病気、天災など、数々の試練に出会うことになる。
これが、全ての、生きるものの宿命である。
運よく、うまくこの試練を乗り越えたものが、長寿者になる。

私の、記憶に残っている試練が数回ある。
その一つは、小学校の3〜4年生ぐらいだったころである。
当時は、冬の寒さが今に比べ、格段に寒かった。
雪はたびたび積もり、雪ダルマや小さなカマクラを作って遊んだこともあった。
つららをかじったり、ガラスコップに砂糖水と割り箸を入れ、一晩外に置いてアイスキャンデーを作ったこともある。
そんな冬のある日、遊び友達と家から少し離れた山際の池に遊びに行った。
そんなに大きな池ではないが、前面に氷が張り、石を投げても割れないぐらいの氷の厚さがあった。
そうこうしているうち、上を歩いてみようということになり、みんなで氷の上に載った。
3人ぐらいであったと思うが、私たちの重さに何とか耐えて、氷は、割れなかった。
あの時、もし氷が割れてたら、人家から離れていたし、寒さで助からなかっただろうと思う。
運よく乗り越えた試練の一つである。

これも、同じころの出来事である。
家のすぐ近くに2級河川がある。
当時は、ダムが無かったので、水は豊富できれいであり、夏になると毎日ぐらい川で遊んでいた。
川に架かっている橋の上から飛び込んだりもしていた。
その橋の下流に鉄橋がある。
夏の暑い日だったように思うが、川の堤防を鉄橋に向かって歩いていた。
何を思って歩いていたのか、未だに思い出せない。
考え事をしながら歩いていたのでないかと思うが、おじいさんの注意する声が聞こえ、はっとした。
「ぼくやー、危ないぞー、汽車が来よるぞ」という声であった。
はっとして、前を見ると、警報機が鳴り、列車がすぐ近くまで来ていた。
おじいさんの声が聞こえるまでは、警報機や列車の音には、全く気づかなかった。
当時のことを思い出すと、何かに導かれて列車の方に向かっていたようにも思える。
おじいさんが、いなかったら、どうなっていたのか分からない、ミステリアスな試練である。

この出来事も同じ頃だったように思う。
私の小さい頃は、農家では、牛を飼っていた。
農耕に使うと言うより、肉牛として大きくし、売り、生活費の足しにしていた。
我が家でも、牛を飼っていた。
8畳ぐらいの牛舎で、子牛から育てていた。
藁や草をやるのが楽しみで、学校から帰ると餌やりをよくしていた。
牛舎の入り口は、丸太格子で仕切られていた。
丸太格子は、20cmぐらいの隙間があり、子供はその隙間から出入りが出来た。
ある日、隙間から、牛舎の中に入り、牛にちょっかいをしていた。
その日は、牛の機嫌が悪かったのか、私をめがけて突っかかってきた。
まっすぐに突っかかってきたので、ちょうど角と角の間に体がはまり、事なきを得た。
あの時、ちょっとずれてたら、角が体に刺さっていたと思う。
普段おとなしい牛だったので、こんなことは、全く考えてなかった。
その時、母には言ってなかったが、言ってたら、こっぴどく叱られたと思う。
遭遇した出来事での試練である。


次は、高校時代である。
話したくないが、もう時効なので書き残したい。
当時は、20歳以下でもお酒を飲んだり煙草を吸っても、そうとがめられなかった。
と言っても、学校では、厳しく指導を行っていたが、家庭では、そこまでではなかった。
表立っては出来なかったが、陰でお酒を飲んだり煙草を吸っても、気がつかないふりをしてくれていた。
悪ガキ連中が時々集まって、小遣いでお酒やたばこを買い、持ち寄り酒盛りをしていた。
お酒は、サントリーレッドが定番であった。
コーラーなどで割って飲んでいた。
煙草は、ピースかハイライトであった。
私は、お酒は強い方でない。
飲むとすぐ真っ赤になるし、酔ってしまう。
親父がそうだったので、遺伝的にそれを受け継いでいるように思う。
と言っても、弟は、酒が強いのでそうとも言えないところはある。
何はともあれ、お酒を分解する酵素が少ない、お酒に弱い体質であった。
その日、5人ぐらいが友だち宅に集まり酒盛りをした。
何の名目で集まったかは、思い出せない。
調子よく飲んでいたが、いい気分になり、ウイスキーをストレートでがぶ飲みし出した。
煙草も、遊び半分に、10本ぐらいくわえて吸っていた。
そうこうしてたら、飲みつぶれてしまった。
横たわり、飲み食いしたものを吐いて、虫の息であった。
軽い急性アルコール中毒であったように思う。
友人宅でどれだけ寝たのか覚えていないが、救急車で運ばれずに、無事覚醒した。
もうちょっと飲んでいたら、新聞に載ってたかもしれない。
自分の不注意による試練である。


次の出来事は、就職してからである。
就職してから、4年目ぐらいの頃だったように思う。
親父に車を買ってもらい、JRの定期がありながら、よく車で高松市まで通勤していた。
何といっても、車に乗るのが、楽しい年ごろであった。
そのような時、松山市の大学に行っていた弟から、石鎚山の方の渓流でアマゴが釣れるとの情報が入った。
職場で仲良しの同僚と行ってみるかということになった。
私の車で、私が運転して出かけた。
当時は、高速道路なんかは無く、国道が唯一の道であった。
高松を過ぎ、香川県境に近い観音寺市辺りを通っていた時である。
前に遅い車がおり、アクセルを目いっぱい踏み込んで追い越し、左車線に戻った時である。
道路に穴ぼこがあり、その穴ぼこで、車がはね、対向車線に飛び込んで行った。
100キロぐらいのスピードが出てたと思うが、どうにもならず、そのまま着地を待った。
幸いにも、対向車が無かったので、事なきを得た。
四国で一番番号が若い国道であっても、当時は、管理が十分でなかったことが、うかがえる。
冷や汗が出たその後は、安全運転に心がけ、無事に弟のところに着いた。
2匹だったかアマゴも釣れ、帰りも無理をしないで、無事家まで帰った。
今思い出しても、背中がぞーっとする思い出であった。

さて、次の出来事である。
長年勤めた職場を無事定年退職し、第一線を退き、嘱託で仕事を継続していた頃の話である。
だいぶん自由時間が増えたので、稲作に力を入れようとしていた。
例年に比べ田植えした後の稲の生育状態をよく見に行っていた。
稲がだいぶん大きくなっていた頃のことである。
この日も朝早く、稲の状況を見に行っていた。
田んぼの水がどうなのか、コンクリートの畦畔の上を歩いていた時のことである。
平均台の上を歩いているようなものであるから、バランスを崩し田んぼの中に足を踏み外した。
いつもなら、田んぼに足が入ってそれでおしまいなのであるが、この日は違っていた。
田んぼに落ちた足が、田んぼの面で滑った。
アッと思ったら、体が前に倒れていた。
目の前にコンクリートの畦畔が見え、目から火花が見えるぐらい顔を打ち付けた。
若い頃なら、足が踏ん張れたかとっさに顔を避けたかできたであろう。
悲しいかな、もうそのような機転はきかなくなってきた。
しばらく痛みでじっとしていたが、顔に手をやると、血が出ている。
帰ると女房が、びっくり、すぐに手当てをしてくれた。
いやというほど顔を打ちつけたが、打ち所が悪かったら、どうなっていたか分からない。
痛い思いをした、出来事である。

次も、同じような出来事である。
古希に近づいたゴールデンウイークの始まりの時である。
我が家には、犬を譲りますという新聞情報でもらってきた犬がいる。
5歳になる雌のコーギーである。
買うとなれば、25万円ぐらいはする。
飼ってみて譲ってくれた訳が分かった。
とにかくよく吠えるのである。
知らない人が来て吠えるのは当たり前であるが、家の前の車の出入りやバキュームカー、郵便やさん等とにかく神経質に吠える。
前の飼い主は、こちらと比べ都会的な場所であったので、おそらく、それが原因で手放したのだろうと思う。
コーギーは、イギリス生まれの牧羊犬である。
そのような遺伝子が組み込まれていることから、とにかく、よく走る。
もらってきたときから、よくかっけっこで競争をしていた。
この日も、犬と競争をしていたが、いつもと違ったのは、孫の応援があった。
じいちゃん早いという孫の声援で走りに拍車がかかった。
反転して数歩走った時、足が滑った。
アッと思ったが、その時はどうすることも出来ず、まともに顔をコンクリート舗装に打ちつけた。
孫や女房が見ているところでの転倒である。
しばらくは起き上がれず、コンクリート舗装の上で横たわっていた。
もちろん顔面は、皮膚が数か所破れ、血だらけである。
思わず、私の口から出た言葉が、”ダイ・ハードと同じやな”である。
我ながらいいたとえが浮かんだなと思ったが、痛みの負け惜しみみたいなものである。
この時も病院には行かず、女房の治療で済ました。
あくる日が、ちょうど田植えだったが、顔面の痛みをこらえて田植えをした。
この時も、打ち所が悪かったらどうなっていたかという思いであった。
自分は、まだまだ若いと思っていたが、このようなことが続き、自重しなければと思った次第である。
老化を考えないと命取りになるという事例である。


次の出来事は、後1か月で古希という最近の出来事である。
今年の夏は、半端な暑さでなかった。
連日、34℃という猛暑であったが、そのような時、シルバー仲間と草刈り業務に励んだ。
草刈りをする人が減ったこともあり、例年より多くの仕事をこなした。
9月に入り、本来の仕事である剪定業務がスタートした時の事である。
同じお宅の剪定を引き続いてやってた時、突然、胸のあたり全体に異様な痛みが走った。
生汗がどんどん出て、そのうち、寒気がして震え出した。
いつもと違う症状に、何事が起こったのか戸惑った。
ちょっと休んだら治まるかと思い、一緒に作業していた仲間にそう言い、車に座り休んだ。
しかし、一向に痛みは治まらない。
これはおかしいと思い、家から近い場所であったので、女房に電話し、来てもらった。
近くのかかりつけの医院に飛び込んだ。
急患ということで、すぐに診察室に入り、心電図を取られた。
それを見た先生が、これはいかん、救急車を呼んでということになった。
先生が、電話をしているのを聞いて、痛みの原因が、心筋梗塞だと分かった。
それを聞いたら、いつ心臓が止まるのかなという不安で生きた心地がしなかった。
救急車で近くの県立病院に行き、カテーテル治療で障害を取り除き、痛みが無くなった。
これまで、大きな病気はしたことが無く、自分は、健康だと自信を持っていたが、それが、もろくも崩れ去った。
ここで、なぜそのような病気になったのかという原因を探ってみた。
心筋梗塞にかかりやすい原因は、次のようなものがある。(先生から聞いた話)
@煙草をよく吸う人
A遺伝
Bコレステロールが高い、高脂血症などの血液障害
C生真面目な人
D血液が粘っている

このようなことが原因になるようである。
@、Aは、該当しないように思うが、B〜Dは、まさにその通りであり、これが原因であったように思う。
とりあえず、事なきを得たが、入院中に、他の病気の疑いも出てきて、もうそのような年になったのかと、複雑な思いである。

生まれてから、これまで、このように何度も大きな試練を乗り越えてきた。
これからどのような試練が待ち受けているか分からないが、死という最後の時まで、試練は続くであろう。
最後まで、何事も起こらなければいいのだが・・・・・・そう願いたい!