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2003.12.8


それからすぐの日曜日の事であった。朝早くからスーツ姿で出て行く佐久間の姿を、修治が見ていた。
「お母ん、えらい、朝早うから休みやゆうのに、スーツ姿で出て行きよるで、あんちゃん。」
「そら、もうお年頃の人ですさかい、女の人とデートでもしはんのと違いますか?」
「ぷ・・」
修治は笑った。
「そりゃあ、無いで、お母ん。あのゴリラ顔のあんちゃんに彼女が居るやなんて、工藤先輩からも聞いてへんわ」
「ま・・。でも、修ちゃん。佐久間はんは、会社では働き者で、てきぱきと仕事をこなしはるし、よお気のつく優しい人よ。あんな男はん、ざらには居てへんわ」
母親が余り佐久間を褒めるので、修治は面白く無い。
「まあ・・あんなゴリラでも、世の中には物好きが居てるかも知れへんな」
そう言って、修治も、ごそごそと仕度を始めた。
「修ちゃんも、こんな早うからどこ行くの?」
「今日はな、新川社長と一緒に放鳩訓練に行くんや。淡路島まで行って来るわ。昼飯要らへんよってな」
「そう・・社長さんにもよろし、言うとってな」
「うん」
嬉しそうな顔で修治が出かけて行った。社長に可愛がって貰ってるようだ。美弥子も喜んだ。
初老だと言うのに軽快なハンドル捌きの新川社長は、普段とは全く違う穏やかな顔だった。仕事では、一切の妥協をしない、「正味の鬼」と形容される新川社長も、鳩の事と普段の顔は、全く違う。修治はこんな社長が好きであった。この日は、鳩の訓練にわくわくしていた。
「楽しみか?金村」
「はい!」
隣で、にこにこしている金村の様子に、新川社長も楽しそうに聞いた。
「そういや、佐久間はんから鳩貰うたんやてな、金村」
「あ、はい!」
「レースやるんか?」
「俺、社長のように競翔やって見たい思うてます」
「おう!そりゃあ、ええ。そんな事やったら、わしも協力するで。」
「色々教えて下さい」
「よっしゃ、よっしゃ。金村、淡路までの道中、この本やるよって、読んどき」
そう言って、新川社長が2冊の本を金村に渡した。相当、読み込んだ本と見えて、あちこち汚れていた。『手記、競翔・・川上真二書』と、『競翔鳩について・・香月一男書』の2冊だった。
「その本はな、わしの所の血統である、川上系の旧主流鳩を、泣きながら手離してくれた、わしの友人で、川上真二とゆうて、今は協会の理事をしておられるが、偉い競翔家や。もう60歳を超えてるが、日本最高の血統、白川系の所有者や。もう一冊は、その弟子で、天才競翔家であり、天才動物学者でもある、香月一男と言う人の本で、競翔鳩の事について詳しく、分かりやすく書いてある。香月博士と言う人も香月系の所有者で、日本はおろか、世界中に知られた、今南米に渡って居るらしいけど、3000キロとか、4000キロレースの超長距離系の第一人者と言われる、凄い人や。」
「へえ・・・」
修治は高速道路の道中、明石からの大磯へのフェリーボートの中、放鳩地である、岩屋までの道中、その本を熱心に読んだ。
「さあ、着いたで」
新川に言われて、初めて修治がその時顔をあげた。その目は潤んでいた。
「ど、どうしたんや、金村」
新川社長が驚き、尋ねた。
「俺・・感動しました。こんなに人前で泣いた事、お父んと姉ちゃんの葬式の時以来ですわ。レース鳩ちゅうのは、こんなに奥が深うて、ほんで、この川上さんゆう人に感動したんですわ」
「そうか・・そうか!金村。お前はええ競翔家になれるで。さあ、放鳩や、それが済んだら、わしと川上はんの事、話したろ」
新川鳩舎の、総数126羽は、真っ青な空の下、2回大きく旋回した後、まっすぐ鳩舎方向に飛び帰って行った。その方向判断力、海上をものともせずに、一直線に飛ぶ様は、関西3羽烏と言われる最強鳩舎の名に相応しい飛翔であった。修治は、じっとその鳩群を観察していた。
広い公園の芝生の上で、新川社長は川上氏の事について修治に話してくれた。
「・・・そうですか。偉い人と社長は知り合いだったんですね。佐久間のあんちゃんからも、社長の鳩は関西でも3つの指に入ると聞いてます。その人が自分の鳩を全部出してまで、白川系を継いだ気持ちに俺・・感動しました。」
「川上○号と名づけるのは、今度は、わしが川上さんの気持に答える為や。わしは、自分の命と引き換えにしても、この血統は守り抜こうと思うとる。だから一羽たりともわしの鳩舎からは出さんのや」
「よお、分かりました。社長も偉いです。俺、感動を叉新たにしましたわ」
新川社長は昼過ぎまで、いきさつを話しながら、帰りの大磯のフェリーリーボートの所まで修治と戻って来た。修治は、貰った本を更に読みふけっていた。読めば読むほど、修治の心は、競翔鳩の世界に引き込まれて行った。
「あ・・あれえ・・?」
フェリーの出航の待ち時間にトイレに立った修治が、新川社長に指差した。少し遠いが、港の波止場に立っているのは佐久間のようだった。
「お・・?あれ・・ほんまや。腕まで組みはって・・綺麗なお嬢さんや、隅に置けんなあ、佐久間はんも」
「ほんまや・・お母んもゆうてたけど・・世の中、物好きな女性も居てんのや・・・」
一人事のように修治は呟いた。
「え・・何やて・・?」
新川社長が聞く。
「あ・・いえいえ・・ははは」
修治は笑った。