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2003.12.13


「名前を、あいつが米次にして変えないのは、この世でたった一人必死で育ててくれた身内である、じいさんへの思いを持ってるからや。あいつは、きっと墓場まで持って行くやろう、この名前を。丁度、小学3年生になった時やった。

その時仕事で、東京に行っていた羽崎社長が、偶然に佐久間に逢うたんや。たまたま学校帰りの佐久間は、同級生達に名前の事をからかわれ、いじめに合うとった。細うて、がりがりの体をしとってな、孤児院の子、よねじーって恰好のいじめの対象になっとったらしいのや。突き飛ばされて、倒れた佐久間を見かねて『こら、止めんかい』と羽崎社長はんは、佐久間を抱き起こしたんや。軽い体や・・おまけに体中には、無数の痣だらけ・・人情に篤い羽崎社長は、堪え切れんようになって、ぼろぼろと不憫やと涙を零したんや。その時、「おじさん、泣いたら駄目だよ。」自分がそれ程の目に会ってんのに、羽崎社長の涙を拭いてくれたそうや。
羽崎社長は、それから、すぐ手続きを取って、自分の所に佐久間を引き取ったんや。子供が居らへんかった事もあるやろけど、その佐久間のそんな境遇にありながらも、澄んだ目を見て、自分の子と同様に育てる決心をしたそうや。それから、佐久間は大学まで出して貰うた。佐久間は羽崎社長を心から尊敬してる。自分の親父のようにも思うてる。そやけど、佐久間にとっては、あくまで羽崎社長は、自分の命の恩人なんや。その人の身を守る為に、空手を習い、ほんで、法律の勉強をして、会社の為に必死で働いとるのや。その佐久間がやで・・絶対この縁談を成功させなあかんと思い込んで、受ける筈やった見合い話を蹴ってまで、美弥子さんの元へ行ったのは、あいつ自身の中では、羽崎を裏切る行為にも等しい事やねん、せやけど、修治、あいつはなあ、今まで、自分のわがままを封印して生きて来た男や。それは、あいつにとっての幸せやったのかも知れんけど、心から生きて来た人生やあらへん。今、気がついたんや。ほんまに好きな人が誰かちゅう事が。それが、たまたま、お前の母ちゃんで、その母ちゃんも、佐久間の心を感じとる。お前にとっては、寝耳に水の話やろけど、美弥子さんも、生身の人間なんや。まだまだ人生はこれから長いねや。そやから、佐久間はお前の父ちゃんになろうとして、結婚を申し込んだんやあらへんし、お前にとっては、認めるちゅうのは辛い事やろけど、母ちゃんの事を今、一番大事に思うてくれるのは、佐久間や。修治、頼むわ、この通りや」
工藤はその場に土下座した。友人の為にここまでやれるのか・・そして、この友人をここまでさせる佐久間の事を思った。決して、良い出会いでは無かったかも知れないが、修二にとっては良いあんちゃんとして、これまで、付き合って来ていたのだから・・。
「先輩・・先輩に、そないな真似までさせる訳にはいきませんわ。止めて下さい・・」
修治は工藤の手を取った。修治は泣いた。工藤の友達を思うその気持ちに泣いたのだ。
「修治、済まん。佐久間の事認めたってくれるか?わしは、お前の兄貴にはなれるで。これまでも、これからもや」
こんな、工藤と修治の会話がなされている頃、佐久間と美弥子は・・
玄関前で、土下座をした佐久間に美弥子は、
「どうか・・どうか頭を上げてください、佐久間はん、貴方は、そんな安い頭やありまへん」
「いえ、上げません。俺は死ぬほど美弥子さんが好きです。一緒になって下さい」
ぽろぽろ涙を零しながら、美弥子は土間に裸足で降りて来て、こう言った。
「佐久間はん、裏表の無い、私も貴方が好きよ。でも、こんな7つも上で、大きなコブ付きで・・貴方は将来のある人や。羽崎を継いで行かはる人や。私ではあかん」
「社長には、明日辞表を出します。俺はね、小学校3年生の時に、羽崎社長に孤児院から引き取って貰って、大学まで出して貰いました。本当に大恩ある人です。実の親父以上に思ってますし、経営者としても尊敬してます。けど、自分は決して羽崎を継げる人間なんかじゃないんです。俺がもし、そんな事になれば、羽崎の親戚一同がこぞって反対して、会社は大変な事になるでしょう。ただ、社長が現役で居る間はこの命に代えても、守りたいと思っています。美弥子さん、俺には、父親も母親も居ません。たった一人の身内である祖父も3つの時に死にました。天涯孤独の身です。今更失うものなど何もありません。けど、美弥子さんを失う位なら、死を選びます」
美弥子さんは、佐久間の体に覆い被さり激しく泣いた。
「死んだら・・死んだらあかん!そないな事ゆうたらあかん!うち、うち、もうたくさんや、叉うちを不幸にしはるんか・・うう・・ううううう」
「美弥子さん」
佐久間はきつく美弥子を抱きしめた。
そして・・夜は明けた。修治は戻って来なかった。佐久間の胸に顔を埋めて美弥子が横で寝ていた。