野ばら 3  2002/5/18

 月が出なければ、まったくの闇夜だ。 インクを流したような闇がぼくを押しつぶしそうだ。
 
 あのクージとか言う男が口走ったヨタ話が、少しでも怖かったわけじゃないが、古い百姓家の壁のしみが怖い…。

 遠くでふくろうが気味悪く鳴いている。 しかもどこかで、ブタが叫ぶ声がする。 なんで夜中にブタが鳴いてるんだ。田舎ってわからない…。

 都会育ちのぼくには、こういう草深い田舎はあわないのだ。
 時計が2時を指したのを見たころ、やっとうとうとしはじめた。




 ぼくが住んでいた家は、築200年の古いアパートだった。
 窓を開ければ、隣の部屋に住む家族と目が合うことがある。 それが隣家のかわいい一人娘だったりすると、一日ラッキーな気分でいられるってもんだ。 娘はまだ17歳で、ミミーナっていってた。 たっぷりした栗色の髪をお下げにして、毎日いろんなリボンで飾る、おしゃれさんだ。
 ミミーナは、ベランダに飾った真っ赤なゼラニウムに、ゆっくりと水を与える。
 目が会うと、女の子はにっこりする。 ぼくはあわてて、手に持ったパンくずを鳥に与える…すると、女の子はこういうんだ。

「おはよう。 小鳥さんのえさはいいけど、あんたはちゃんと食べたの? とりがらみたいにやせちゃってるじゃない」
「もちろん。 3日前のパンと、コーヒーだけどね。」
「まあ、かわいそう。 ちょっと待ってて、ちょうどゆで卵があるの。だめよ逃げちゃあ」
 あわてて引っ込んだ娘は、カゴに温かい卵と、柔らかいパンを乗せてくれて、ぼくに「全部食べてね」なんて念を押すんだ。
 「ありがとう」と受け取ると、「お礼なんて。でもまた今度、お勉強教えてね。 あなたに本読んでもらうと、とってもよく頭に入るの」なんてかわいいことをいってくれるんだ。
 ああ、いい子だったなあ。 ぼくのかさかさした日常の、一服の清涼剤だった。
 ぼくにはめちゃくちゃ若すぎると思っていたけど、案外ミミーナのほうはぼくのことを好きだったのかな。まだ17歳で子供だと彼女に言ったら、「もう17歳で、結婚もできるのよ」なんて言ってぼくをどきりとさせたもんだ。

 兵隊に取られるときに、彼女は涙をためて、「二回も兵隊さんなんてかわいそう。ちゃんと食べてね。」なんて言ってくれたんだ。後ろから彼女のおかあちゃんも、「あんたがいなくなるなんて寂しいねえ。 ミミーナもなついてたのに」と言ってくれたっけ。
 でもぼくがいなくなったら、かわいいミミーナのことだ、同世代の男の子がほっとかないだろう。
 
 朝の光の中でまどろみながら、はるかに遠い、小さなかわいいミミーナのことを思う。

 …ミミーナが優しく起こしてくれたりしたら、ぼくは…どんなにか。

 そんなことを思っていたら、なんと…こんな台所でミミーナが立ち仕事をしている気配がする。 香ばしいコーヒーの匂いがしてくる。 ベーコンを焼く匂いもする。 白い、フリルのついたエプロンをつけている…。
 これは、夢だ。 でも覚めるには惜しい夢じゃないか。 もう少しだけこの夢をむさぼらせてくれ…。

「おはよう、起きて、ダーリン。」
 耳元で、ミミーナが優しくささやいた。
「ん、もちょっと寝かせてミミーナ。もう一分だけ…」
「ミミ? なんだあ? 起きろ、アウチ。 わざわざおれが起こしに来てやったんだぞ」

 ぼくがぎょっとして目を開けると、緑の服が見えた。 腐った古池のような、暗い緑色の軍服だ。
 男と目が合って、ぼくは、1分くらい固まっていた。
 このムサい男はだれだっけ。 緑の目に見覚えがあるような気がする。 しかし思い出すのがいやだから、ぼくは再び目をつぶって、見なかったことにしようとした。

 すると、ごつい指が、ぼくの目をこじ開けた。

「昨夜は幽霊は来なかったみたいだな…しかしハダカで寝るのか、お前は…」
 そういって、無精ひげの男はぼくのチクビを、つん、とつついた。
「お、立った?」
「ぎゃあああ!」
 おれはとびすさり、痴漢にあった娘のように叫びたてた。

「なんだ、なんだ、何の用だ!! あっちいけ、敵の兵隊!」
「なんだよアウチ、せっかく心配して来てやったのに、アウチ。 しかし実に笑える名前だな、アウチ」
 今度こそ、ぼくは飛び起きた。 生まれた日を呪ったことはないが、このひどい名前についてだけは、唯一親を恨んでいるのだ。
「連呼すなっ!! なんでおれの名前をアウチと知ってる!! てかなんで貴様がここにいるっ!」
 クージは苦笑してみせた。余裕ある笑い方がまた気に障った。

「いっぺんにいっぱい質問するな。 名前は、今お前の認識票を読んだんだ」
「ふ、ふ、ふ、不法入国だ、へ、へ、返答しだいではきみを拘束するっ」
「そういうきみのほうが、すでに拘束されている…ほら。ほお〜ら。」
 そういって、クージとやらはぼくの両手をつかんで、ぼくの太もものうえにひざを乗せてきた。

「こういうのを、拘束されたって言うんだよ。違うか?」
「や、やめてくれ。 何なんだ、何がどうした、おれに何の用だっ。」
 やつはぼくに顔を寄せて、首筋に息を吐きかけ、ぼくをたじろがせた。
「やっぱ一人でやってもつまんないんだ。そうだろ、アウチ」
「!!」
「一緒に…やらないか。おれと。一人でするより、そのほうが楽しいぞ?」
 ひいいいい! とぼくは心の中で悲鳴をあげていた。今そこにある危機だった。この一大事に、ぼくは悲鳴すら上げられないのだ。

 クージはにやりと笑ってぼくを放した。
「だから、そろそろ11時だろ、いいかげん起きて、国境見張れよ。 お前の仕事だぞ。 おれだけに見張りさせるのか? お前もあの太っちょと同じ、税金泥棒のグータラか?」
「ああ…」
 なんてことだ。 もう11時…来た早々、寝坊か?
「とりあえず生きてることはわかったから、おれは退散するが。 では、後でな、アウチ。」
「……」
 心配して来てくれたらしいことがわかって、ぼくは少し恥ずかしくなった。 こんな年若い、しかも隣の国の兵隊に起こされるとは…。
 クージは出て行きながら、振り向いてこう言った。
「ちゃんと飯食って、その立派な朝立ちを始末したら、すぐ来いよ。待ってるぞ」
「…!」
 ぼくが枕を投げつけようとするより早くドアは閉まり、外からクージの高笑いが聞こえてきた。
 誰が無口だって?
 あの痛風やみのデブは何を見てたんだ?

 しかし冷静になって見回すと、テーブルの上に一人分の朝食が湯気を立てていたのだった…。

 ぼくの受難は、続く。

野ばら4

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