「総司」 確かにそう聞こえた! 誰かが自分を呼んでいる!? いつも世話をしてくれる老婆なら、自分のことを「沖田様」と呼ぶ。 久しぶりに呼ばれた下の名に、総司の心が震えた。 「総司ー! おいでー! 帰るよー!」 明るく活発な少女の声だ。 帰る。 彼女はそう言った。 帰る……? 自分は帰れるのだろうか? 「ああ……」 帰れる。 嬉しかった。 やっぱり、みんなは自分を忘れてなどいなかった! 帰れるのだ! 総司の心が歓喜に震えた。嬉しくて泣きそうになるなど、初めてだ。 心の中がほっこりと暖かくなり、期待に張り裂けそうになった。 ああ、早く彼女の元へ行かなければ。 彼女が誰かなど、どうでもよかった。 ただ……。 平和に満ちたあの声の元へ行けばよいのだ、そう思った。 彼女の元へ行けば、皆で笑い合えたあの頃へ帰れるような……そんな気がした。 「行かなきゃ……」 総司は膝の上で丸くなる仔猫を腕に抱き上げると、急いで声のほうへと歩いていった。
水車の音が――だんだんと遠くなっていく。 裏庭に続く道は、こんなに長かっただろうか? 膝までもある菜の花が揺れている。 総司は菜の花を掻き分けて歩いた。 小鳥の声が頭の中でこだまする―― ああ…… 桜の香りだ。 深呼吸して胸いっぱいに柔らかな香りを吸い込んだ総司は、 「総司ー!」 己を呼ぶ声に気づいて、ぱぁっと子供のように顔をほころばせた。
崩れ落ちるパズル
桜の花びらが風に舞い上げられる。 それが世界が変わった瞬間だった、などと総司は気づくよしもなかった。 総司はキョトンとする少女の前で、困惑して立ち尽くしていた。 どうやら少女は自分ではなく、彼女の愛犬の名を呼んでいたらしい。 それを知った瞬間、期待は音を立てて張り裂け、足元が崩れたような気がした。 (ああ……やはり……) 自分の名を呼んでくれるものなど、もういないのだ―― それを突きつけられたような気がして、総司の心が氷に閉ざされた。 内心がっくりと酷く落ち込みながらも、目の前二いる少女に気取られたくなくて、総司は慌てて笑みを浮かべて取り繕う。 しかし、うまく笑えていなかったらしい。少女に痛ましそうな目を向けられ、総司は俯いて自嘲の笑みを浮かべた。 「それにしても――ここはいったいどこですか?」 そんな目を向けられることが耐え切れず、話題を変える。 てっきりすぐに答えてくれると思った少女は、気まずそうに「あー」とか「うー」とうなると、総司は不審に思って改めて辺りを見回した。 槌の地肌が見えないほどに一面に敷き詰められた、淡いピンクの花びら。 土手の上の見事な桜並木―― 多摩川ではない。 こんな場所、近くにあっただろうか? さっと総司の顔に緊張が走る。 その時だった――! 「な、何ですか!? あれはッ!?」 轟音と共に、見たこともない巨大な鳥が空を突っ切っていく! 総司は反射的に腰の刀に手を添えて、を背にかばおうと振り返った。 「……ッ!」 空にはあんな怪鳥が飛んでいるのに! 少女は気にするそぶりも見せず、なにやら考え込んでいる。 (何だ……? ここは……) 彼女にとってあの怪鳥は注意するに値しないものなのだろうか? 或いは――彼女自身がよっぽど腕に自身があるんだろうか? (まさか……) 見るからに普通の少女だ。 男が着るような洋装に身を包んでいるものの、彼女が戦えるようには見えない。 そう思うものの、一度不審に思えば全てが怪しく思えてきて、総司は刀に手をかけたままの様子をじっと観察した。 一方は、飛行機を見て驚愕する総司を見て、彼女のほうが驚いていた。 いや、驚いたがすぐに納得したと言った方がいいだろう。 目の前の幽霊が本物の沖田総司ならば、飛行機など見たこともないだろう。 本物、だろうか……? ちらり、と総司を盗み見ようとして、彼女をじっと見ていた総司と目が合ってビクリと肩を揺らす。 先ほどまでにこやかに笑っていた総司の顔からは、笑みが消えていた。 「……ッ!」 彼女が何物か見定めようとするかのような、鋭い視線にの体が震える。 怖い! 鋭く突き刺さるような殺気に体がすくむ。 総司はそんなの反応をじっと見ていたが、ふっと殺気を消すと固い声でもう一度聞いた。 「ここは、どこですか?」 一言一言区切るような言い方に、の顔がこわばる。 言ってもいいのだろうか? 彼が過去の人間だと、そう告げてもいいのだろうか……? 迷いはあるものの、嘘を言えばバッサリと切られそうな雰囲気に、は音を立ててつばを飲み込んだ。 (言わなきゃ……殺される!?) そう思った瞬間、全ての迷いが吹き飛んだ。 は震える声を絞り出すと、 「未、来、です……」 何とかそう言って、ぺたりと地面に腰を下ろした。 「未来、ですか……?」 繰り返して総司が辺りを見回す。 確かに、見慣れないものがいくつかある。 桜並木の下を歩く人々は皆洋装をまとい、日本髪を結っているものは一人もいない。 何に使うのかわからない、まっすぐの高い石で作ったような柱がいく本も並び、上のほうに紐をつけて間隔をかけて並ぶ柱と柱をつないでいる。 総司は目を細めてそれらを眺めると、に視線を戻した。 「……どれくらい未来かわかりますか?」 彼女の父は自分の名を犬につけた。 ということは、彼女自身も自分について父から何か聞かされているかもしれない。 少しだけ殺気を抑えて彼女に聞くと、彼女は恐怖からか総司を見ずに何度もこくこくと頷いた。 「正確なことは、わからな……かりませんけど……たぶん」 130年くらい未来だと…… そう続けられたの言葉に、総司はぽかんとして彼女の顔を凝視した。 (まさか……) そんなに未来だとは…… ぎゅっと目をつぶり震える少女に、嘘をつくような余裕はないだろう。 「……はぁ……」 沖田はため息をつくと刀から手を離した。 130年も未来? そんなところにどうやって着たというのだろう? そこまで考えて、やっと気が付く。 (あれ……?) 浮いてる? 地面に足をつけた感覚がない、と思えば自分はぷかぷかと浮いていた。 「……」 総司はしばらく信じられないものを見るような目で自分の足を凝視していたが、ハッとしたような顔をしてポンと手を打った。 「何だ……。夢、か」 自分は夢を見ているに違いない! そう思えば、この不思議な出来事も説明が付く。 総司はやっと肩から力を抜くと、涙を浮かべておびえるに申し訳なさそうな表情を向けた。
2009.10.9
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