合気道八幡浜一当流道場のメールマガジン第2部
タイトル ○Aikido-Yawatahama 「一当流」「ふだんの記」(マガジンID:0000179313)
2006/07/17 第3号 在家禅の先駆者/西山禾山---「般若の法門」
2007/01/17 第5号 在家禅の先駆者/西山禾山---「般若の法門」その2
2015/01/17 第20号 在家禅の先駆者/西山禾山---「般若の法門」その3
2016/07/17 第23号 在家禅の先駆者/西山禾山---「般若の法門」その4
「郷土の歴史・文化を知る事がより郷土を愛し、郷土を興す道だろう。」「郷学とは、郷土に学ぶということで、郷土の歴史・伝統・先人の偉業に学び、血の通う心にしみるものとなればと念じるものであります。」身近な私の尊敬するリーダーの言葉です。紹介します。
西山禾山老師を紹介します その1
西山禾山老師(1837〜1917)
愛媛県八幡浜市穴井出身 江西山大法寺18代和尚 臨済宗師家
○法系:白隠禅師に発し、西山禾山老師は釈尊79代の法嗣であられる。
○代表的な教え:「南無甚深般若波羅蜜多」を信行する
西山禾山老子は「南無甚深般若波羅蜜多」の一句を創始しています。“般若の法門”を高唱され、在家禅の修行方法を紹介しています。在家禅普及の先駆者であります。
『般若の法門』は“甚深般若”で貫かれています。
@佛法の究極を「南無甚深般若波羅蜜多」の一句に絞り、この一句において三昧発得すること(般若三昧)こそ仏道の要諦である。
A『信証不二』なりを説いた。発心は行始にして「信位安心」なり。見性成佛は行終にして「証位安心」なり。「信位安心」が確立したら何処までも証拠だてて行くと「証位安心」となる。『信証不二』なりを説いた。「南無甚深般若波羅蜜多」を信行する事が大切である。在家にして禅を日常生活に活かす道を説く。
B「甚深般若」を以って仏教の統一を説く。「釈迦牟尼世尊は“甚深般若”を大悟する。横説竪説する
も“甚深般若”の一法を敷演するのみ。また、代々法を継承するもこの“甚深般若”なり」と“甚深般若”を以って仏教の統一を説く。
道統は、禾山玄鼓---無着戒光---無相定光---無作光龍---無門龍善---山本龍廣と引き継がれ釈迦牟尼会般若道場に継承されています。http://www.zenmi.net/index.html 合気道八幡浜一当流道場○Aikido-Yawatahama 小清水孝
1837/12/24穴井浦に父須賀吟助、母トクの四男として生まれた。本名増治。13歳の時、大宝寺に入りけい谷和尚の弟子となって得度、禅鉄と名付けられ師の姓を継ぎ、西山禾山と改めた。玄鼓と称し、不顧庵と号した。
明治時代に居士禅(在家禅)の興隆に尽力した有名な西山禾山(臨済宗師家)のその一生は、名利を求めず、禅の道を民衆に伝える事で終わった。「焦和尚」「焦面大鬼王」の異名をとった傑僧として知られています。その門下に 獅子林の六子 蘭渓 琢道 祥山 などの逸材を出し、また居士には、河野広中 田子一民 大石正巳 今泉雄作 平櫛田中 高村光太郎 三遊亭円朝 市川九女八 飯村稷山 大野擔道 小西平州他あり
有名な禅友: 山岡鉄舟
「禾山和尚碑」大法寺
西山禾山老師年譜(1837〜1917)
西山禾山老師を紹介します その2
平櫛田中が下宿していた、谷中の長安寺の近くにある麟祥院という寺で、禅僧、西山禾山和尚の提唱がありました。誰にでも分かりやすく禅の話をしたので、寺には多くの人々があふれていました。倬太郎はある日、禾山和尚に尋ねました。「禅とは一体どんなものなのでしょうか」すると和尚は「禅の心とは、日常生活そのもの。自然そのもの、あるがままということじゃ。毎朝起きて歯をみがき、顔を洗い、食事をいただくこと。『おはようございます』『こんにちは』などのあいさつや言葉づかい、そうじの仕方など、その時々にそのことを心を整えて行う。何も特別なことをしなくてもよい。毎日の自分の仕事を一生懸命にすることなのじゃ」と言いました。
法話を聞き終わって寺を出たとき、倬太郎は、長い間さがし求めていた心の中の苦しみが晴れ、自分が追い求めていたものが見えかけてきたように思いました。http://www.pref.okayama.jp/ikasa/ensoku/page/e20.html
大宝寺「禾山笑」木彫 彫刻界の第1人者芸術院会員「平櫛田中」の作品
西山禾山老師を紹介します その3
八幡浜市穴井福高寺境内に西山禾山和尚生誕の碑が在ります。1837年生 13歳の時得度、18歳の時に大分県佐伯養賢寺に滞在し、儒者竹内蓬州について3年間漢学を修める。八幡浜に帰って上甲振洋に師事、21歳で宇和島金剛山大隆寺晦巌の修業道場に入門し禅僧としての本格的修業に文字通り寝食を忘れて徹すること10余年を過ごす。久留米梅林寺羅山 岐阜県伊深正眼寺雪潭 京都相国寺独園 京都妙心寺越渓老師に師事「禅鉄や、もうお前は一人前じゃ。お前を教える者は、もう今の日本にはいない。一日も早う大法寺へ帰って、みんなを安心させるがよい。」越渓の許しを得て修業の旅に出てから十九年ぶりで大法寺に帰る(1873年)。碧巌録の講義では第一人者といわれ、臨済宗の近代まれにみる傑僧となる。「在家安心鈔」「檀徒日課念誦」「金鞭指街」「般若三昧安心要門」などを著し、ともすれば難解な禅を平易に民衆に説いた。
「禾山一笑萬法空」平櫛田中揮毫の石碑と西山禾山和尚生誕の碑
西山禾山老師を紹介します その4
京都妙心寺で越渓禅師のもとで大悟徹底する。1874年印可証明を授けられ名実共に禅僧西山禅師が誕生する。同年37歳にして大法寺18代和尚となる。1881年大法寺が焼け大やけどをする。 焼け和尚「西山禾山」の名は、全国に広まり、その学徳と人格を慕いて各地より修業者達が集い、道場は日増に発展充実して多数の高僧を輩出する。山岡鉄舟再建にと書や絵を贈る。1888大法寺再建。1894年退休軒を建てて住み、弟子の教育に努める。退休軒に獅子林という名前をつけて、全国から集まって来た弟子を教育する。その中でも「獅子林の六子」といわれた愛知県妙興寺寛慶 京都銀閣寺節譚 岐阜県雲龍寺祖久 京都安寺晁堂 大阪了徳院秀戒 栃木県雲照寺戒光和尚の六人は特に熱心に修業する。「七十、八十男の花、四十、五十は鼻たれこぞう。」と言った事は有名である。この間に東京道生会の招待で湯島隣祥院で、または谷中金生庵で禅の提唱をしている。1917年81歳で遷化されるまで東奔西走し衆生済度の生涯を貫ぬかれた。名のある寺院から幾度か招ぜられたが固辞してこれを受けず、禅家らしいその一生を終わっている。
慕われた禾山 葬儀には全国から五十数名の和尚と三千数百人の町の人達や弟子達が参列したと「愛媛新報」は伝えています。
八幡浜市穴井福高寺境内
西山禾山老師を紹介します その5
禾山は、また教禅一致の巨匠として世にその名を知られ学問だけでなく道根も並みたいていのものではなかった。
「学識禅定共に兼備された禾山禅師の如きは、近世稀有なる大徳と云わねばならぬ。また、関東では東京白山下の南隠、関西では伊予八幡浜の禾山と喧伝され、或時は秋田の仏教界から、或時は東京の禅界から懇請黙し難く、提唱に参禅に講演に寸暇も無い禅師であった。禅師は童子の如く純真であり、下僕の如く謙虚なところがあり、日常酒煙草を喫せず、粗衣粗食枯淡清貧に甘んじ、一生黒衣を以て通された。専ら妙心開山関山国師の行履を欽慕され、物来れば悉く他に施与され、室中寂然として一物の貯えも無かったという。」(山田無文記す 西山禾山 田鍋幸信編大西書店刊より)
「法堂二笑(はっとうにしょう)」明治43年
背の高い方の像は、禾山和尚を低い方は南隠和尚をモデルにしています。
木彫 彫刻界の第1人者芸術院会員「平櫛田中」の作品
西山禾山老師を紹介します その6
禾山老師は、明治の中年頃から、焼けど坊主の怪異の顔色を掲げて、中央に乗り出した、怪しく眉の釣り上がった、顴骨の秀でた、ウンと口元の引き締まった、両耳の耳朶のない(焼失)それであくまで頑健な体躯、洪鐘の如き音吐、学問でこい、道力でこい、弁舌でこい、気力でこい、体力でこい、蠻骨でこい、と云う風に、縦横無尽に一流の禅機を振い道俗を鉗鎚した、道場で提唱の際、「天地笑う」の句に至り偉大の身体を反らし、「天笑い地笑い亦我も笑う」と呵呵大笑した風貌はまさに偉容に感じ入った。
「人生の奥義はこの活社会でなければ分からぬ」また、白隠禅師が蘇東坡の投機の偈を評して「渓聲則是広長舌。山色豈非清浄心」の則是とか豈非は無用のものだ、「渓聲広長舌。山色清浄心」で沢山だと云ったに対して禾山に言わしむれば「渓聲山色」この四字で充分だと云ったのは有名な話だ。(愛媛新報 大正6年4月25日より)
◆ 西山禾山老師の禅---『般若の法門』その1
老師は谷中の全生庵の道生会でも講座をもたれたが、この講座は滴水、峨山、海晏などという明治における臨済禅の巨匠のあとを踏襲したものであった。人生、生前に大事未了だと、冥土で草鞋銭を請求されるというような文句が何かにあった時のこと、「私どもは死んで地獄へ行く。そこで閻魔がお前は娑婆で何宗だと聞く。日蓮宗だと日蓮宗でございます。では仏前で何と唱えた。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。通れと言う。門徒宗ならば即座に門徒宗でございます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とやる。よろしいで、地獄の門を通って極楽行きじゃ。真言宗ならば南無遍照金剛で通る。そこで禅宗のものがくると、お前は何宗じゃ。はい、私は禅宗でございます。その証拠は何じゃ。無と言うじゃろ。何じゃ、無か、それじゃ通すことまかりならぬ、ということになる。では何と答えるか。南無甚深般若波羅蜜多というのじゃ。ワシは檀家の者に、朝夕仏前に合掌して南無甚深般若波羅蜜多、南無甚深般若波羅蜜多と唱える様に教化しているんじゃよ」と申されておられた。---仏教は般若でいくべきではないだろうか。---
ただ私が禾山老師の提唱を聴いて今日まで強く頭に焼きついていることは、禅は人間のすべての葛藤を描き、それを自己究明によって真理を説く教えである。その人生観を植えつけていただいたことは、今日でも私の日常生活に生かされている。(平櫛田中談 西山禾山 田鍋幸信編大西書店刊より)
郷里八幡浜市に西山禾山老師(1837〜1917)あり。幸いな事に西山禾山老師の禅に接する機会に恵まれました。私も毎日「南無甚深般若波羅蜜多」を称名しています。ご紹介します。
西山禾山老師(1837〜1917)
愛媛県八幡浜市穴井出身 江西山大法寺18代和尚 臨在宗師家
○法系:白隠禅師に発し、西山禾山老師は釈尊79代の法嗣であられる。
○代表的な教え:「南無甚深般若波羅蜜多」を信行する。
西山禾山老師は「南無甚深般若波羅蜜多」の一句を創始しています。『般若の法門』を高唱され、在家禅の修行方法を紹介しています。在家禅普及の先駆者であります。
『般若の法門』は“甚深般若”で貫かれています。佛法の究極を「南無甚深般若波羅蜜多」の一句に絞り、この一句において三昧発得すること(般若三昧)こそ仏道の要諦である。と『般若の法門』を高唱されています。
○般若三昧
至心帰命 常住三宝
一切障滅 速成正覚 (三返)
南無甚深般若波羅蜜多 (七返
二十一返
或は無数返)
西山禾山老師は、宗教論や『金鞭指街』『臨済宗檀徒安心章』(1890/05/25出版)で“甚深般若”を分かり易く説いています。「試に問ふ、若し死後空無ならば、本朝往古の神乃至菅公其他下つて加藤或は和霊等のごとき皆死せし人なり。其空無なる者を祭祀するは誠に徒事と云ふべし。又足下の厳父にせよ、死後空無ならば墓参も無用の暇費へと云うべし。聞く処によれば、足下特に厳父の墓参せられたりと、之何の為なるや」(宗教論より)「釈迦牟尼世尊は“甚深般若”を大悟する。横説竪説するも“甚深般若”の一法を敷演するのみ。また、代々法を継承するもこの“甚深般若”なり」「“甚深般若”は即ち是れ生佛一如の本体、吾人本有の真性なり。之に迷ふ者は永劫に沈淪し之を悟る者は当処に解脱す。」(安心法語より)
私は、この力強い教えに“甚深般若”を直感しました。時を越えて西山禾山老師の“甚深般若”に相見する思いです。「師があって道となる」「芸道は、良き師匠を持つ事が大切である」との古語があります。道人は、「良き師、良き友、修業時代がある」ことで大成しています。西山禾山老師は、「右に毎巌、左に越渓」と良く話されていたと聞きます。偉大な二人の師を持つ西山禾山老師の禅は、筋金入りの道力、法力であったと想察します。
参考図書:
西山禾山 田鍋幸信編大西書店刊
西山禾山 坂本石創著
仏教史余滴 笹尾哲雄著
鉄砲虫 にった浩著
禅門逸話選中 禅文化研究所編著
六祖壇経 中川孝著たちばな出版
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合気道は、“万有愛護の精神”で貫かれています。西山禾山老師の禅は、“甚深般若”で貫かれています。開祖大先生語録には、「同根の意義を究める」「宇宙根源の気を自得する」「真如愛護の実をあげる」等の禅味ある語録があります。「天地同根」「万物一体」「見性悟道」---これは“禅”の世界観です。共に真理の道であり、合い通づるものがあります。私は、幸運にも『般若の法門』から入る事が出来ました。
佐柳孝一師範は、「年を取ると分かる事もある---」と諭して下さいました。身を以って体験する年となって来ました。佐柳孝一師範は、「見性悟道の日々」を歩まれていたと思います。また、「万有愛護の精神」を鍛錬し、信行する道」を歩まれていたと思います。私の“ふだんの行修”も「見性悟道の日々」とする事が出来るようになりました。うれしく思います。「見性悟道の日々」は楽しく、気持ちの良いものです。“自性の座”から離れざる日々を送ることを誓いたい。2006/07/17
合気道八幡浜一当流道場 ○Aikido-Yawatahama 小清水孝
◆ 西山禾山老師の禅---「般若の法門」その2
郷里八幡浜市に西山禾山老師(1837〜1917)あり。釈尊79代の法嗣であり、臨済宗師家であります。栃木県雲照寺戒光老師をはじめとする「獅子林の六子」を育て、著名な河野広中、平櫛田中ほか多くの在家に禅(般若の法門)を普及されました。在家禅のパイオニアであり、明治時代に関東では東京白山下の南隠、関西では伊予八幡浜の禾山と喧伝された高僧であります。
西山禾山老師は、『金鞭指街』『臨済宗檀徒安心章』の中で、仏法究極の真髄を「南無甚深般若波羅蜜多」の一句にしぼり、この一句において三昧発得すること(般若三昧)こそ仏道の要諦であるとして、「般若の法門」を高唱されています。「般若の法門」は、禾山より戒光を経て法孫の定光に至り、より端的に挙揚せられ、般若を法幢とする教禅一致の新教団「釈迦牟尼会」の創立となる。道統は、禾山玄鼓---無着戒光---無相定光---無作光龍---常井龍善---山本龍廣と引き継がれ現在も釈迦牟尼会般若道場に
継承されています。 http://www.zenmi.net/index.html
西山禾山老師は、越渓と毎巌両禅師を教僧として非常に敬仰し、「右に毎巌、左に越渓」と提唱の中に口癖のように口を衝いて出て来た。一人は宇和島大隆寺毎巌老師(1798〜1872)であり、一人は京都妙心寺越渓老師(1809〜1884)であります。越渓和尚から送られた碧巌録を大法寺の大火(1881年)で消失したのを余程残念がられた。(火中から持ち出そうとして大火傷を負う)越渓和尚は此の由を聞いて西山禾山和尚の為に親しく筆を執り三年間かかって碧巌集十卷稿本(白隠禅師らの提唱の書きこみを含む)の全部を書いて贈られた。稀に見る美談であります。その年の1884年師越渓老師寂。その稿本はいまも伝えられて釈迦牟尼会に護持されています。
私は、幸いな事に西山禾山老師の禅に接する機会に恵まれました。毎日「南無甚深般若波羅蜜多」を称名しています。ご紹介します。
参考図書:
西山禾山 田鍋幸信編大西書店刊 西山禾山 坂本石創著
在家禅の巨匠 苧坂光龍 釈迦牟尼会 六祖壇経 たちばな出版
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西山禾山老師著書
明治23年5月20日刻成 同月25日出版 金鞭指街・臨済宗檀徒安心章
明治5年 三可論・破庵主胎厥などもあるが現在見る事が出来ない。
◆ 西山禾山老師の禅---「般若の法門」その3
私は、昨年の2月から東中浦で、行政書士 こしみず事務所 ---「相続と後見などの相談室」を開業しています。趣味は合気道(六段)です。合気道の求道の中で西山禾山老師、山岡鉄舟、中江藤樹等を深く研究しました。私は「西山禾山老師の禅」と題してホームページで紹介させて頂いています。真穴地区で5年間勤務したことがきっかけです。八幡浜市では西山禾山和尚は有名ですが禾山和尚は、どんなに立派な方だったんだろう。---
明確に教えてくれるもの、 明快に表現されたものが見当たりませんでした。残念に思い自分の言葉で紹介することにしました。まず市立図書館で「西山禾山」(坂本石創著)を手に入れました。図書館で寄贈本をコピーしてもらいました。次に「西山禾山」田鍋幸信編大西書刊 六祖壇経
中川孝著などを参考に西山禾山老師像にせまりました。デジタルの時代ですからインターネットで禾山老師の周辺の方々を研究する中で知り得た事も沢山ありました。私の求道の過程の中でこれらの史実と禾山老師の著作物を研究して以下の紹介文を掲載させて頂いています。
西山禾山老師(1837〜1917)
愛媛県八幡浜市穴井出身 江西山大法寺18代和尚 臨済宗師家
○法系:白隠禅師に発し、西山禾山老師は釈尊79代の法嗣であられる。
○代表的な教え:「南無甚深般若波羅蜜多」を信行する。
西山禾山老師は「南無甚深般若波羅蜜多」の一句を創始しています。『般若の法門』を高唱され、在家禅の修行方法を紹介しています。在家禅普及の先駆者であります。
『般若の法門』は“甚深般若”で貫かれています。佛法の究極を「南無甚深般若波羅蜜多」の一句に絞り、この一句において三昧発得すること(般若三昧)こそ仏道の要諦である。と『般若の法門』を高唱されています。
○般若三昧
至心帰命 常住三宝
一切障滅 速成正覚 (三返)
南無甚深般若波羅蜜多 (七返
二十一返 或は無数返)
詳しくはHPをご訪問下さい。今回の寄稿を機に西山禾山老師の偉大さをもう少し分かりやすく表現してみます。
(1)禾山老師は、江戸明治大正の激動の時代を生き、良き二人の師(宇和島金剛山大隆寺の晦巌老師と京都妙心寺の越渓老師)に出会い燃えるような修行時代を経て臨済宗での最高峰にある老師として日本中に鳴り響いていた禅師である。釈尊79代の法嗣であられ臨済宗師家である。郷里八幡浜市の江西山大法寺を普及の地とした。
(2)禾山老師は「南無甚深般若波羅蜜多」の一句を創始する。「金鞭指街」「般若三昧安心要門」他を出版しています。代表的な教えを「南無甚深般若波羅蜜多」を信行する事とし、“甚深般若”で貫かれた『般若の法門』を高唱され、在家禅の修行方法を紹介しています。在家禅普及の先駆者であります。
(3)禾山老師は各界の多くの名士に深く影響を与え、その門下は日本中で活躍しています。(河野広中 福島県出身の代議士。農商務大臣などを歴任。田子一民・大
石正巳・今泉雄作・平塚雷鳥他の政治家・経済人)(平櫛田中 日本近代を代表する彫刻家 東京藝大名誉教授。高村光太郎・三遊亭円朝・野田青石他の日本を代表する芸術家)(お四国山の麓の愛染堂から5年間参禅されて認証を得られた栃木県雲照寺無着戒光ほか獅子林の六子)(一刀正伝無刀流の山岡鉄舟は禾山老師と1つ違い)
(4)道統は、禾山玄鼓---無着戒光---無相定光---無作光龍---無門龍善---山本龍廣と引き継がれ釈迦牟尼会般若道場に継承されています。
(5)日常は粗衣粗食枯淡清貧に甘んじ、妙心開山関山国師の行履(禅僧の日常一切の起居動作のこと)の如し。
郷里の偉人西山禾山老師の教えに接し、自分の人生観を深める事ができましたことを幸運に思っています。ご紹介させて頂きました。
◆ 西山禾山老師の禅---「般若の法門」その4 大法寺だより再掲載「般若の法門」(在家禅)を伝承する
新年明けましておめでとうございます。私は還暦を迎えます。赤子に帰り清々しい気持ちで初春を迎え、実りある年月を重ねていく所存です。皆様におかれましても健やかにでお過ごし下さいませ。さて前回、大法寺だより第11号で郷里の偉人西山禾山老師の素晴らしさを紹介させて頂きました。今回は、顕彰を加えさせます。
(1)禾山老師は、良き二人の師に出会い燃えるような修行時代を経て、釈尊79代の法嗣である。
師匠があることは本物の証だと思う。幸運な事に私にも生涯の師があります。師を持てた、持つ事はうれしい事です。経験上からお話ししますと師を持つ事で底力が出る。また頑張らねばと心が振るい立ちます。一刀正伝無刀流の山岡鉄舟にも剣の師、禅の師があります。土性骨の入った偉人や継承者は立派な師を持っておられるように思います。
釈尊79代の法嗣である---釈尊が当地八幡浜市に住んで居られたということです。だから遺徳が残っている。現に私は地元であるからこそ西山禾山老師の教えに触れる事が出来た。そして魂を大きく開く事が出来きました。
(2)代表的な教えを「南無甚深般若波羅蜜多」を信行する事とし、在家禅の修行方法を紹介しています。在家禅普及の先駆者です。
西山禾山老師は「南無甚深般若波羅蜜多」の一句を創始する。---こんな大胆な事が出来るのは、西山禾山老師のみと思います。
六祖慧能は「見性の法門」を伝える。見性悟道あるのみ。悟りに達する方法を示す。代々法を継ぐ者は、自らの境地を独自の言葉で伝える事を旨としたとある。西山禾山老師は「般若の法門」を伝える。悟りに達した者の生き方、在家の生き方を示しています。
(3) 禾山老師は各界の多くの名士に深く影響を与え、その門下は日本中で活躍しています。
禾山老師から深く影響を受けた政界、経済界、芸術の世界、武道の世界の名士たちは、“甚深般若”で貫かれた「般若の法門」(在家禅)により立派な業績を残されています。 一刀正伝無刀流の山岡鉄舟は禾山老師と一つ違い---「悟前滴水、悟後禾山」と評しています。大法寺再建の為に使って欲しいと贈られた山岡鉄舟の書が八幡浜市の富裕な家に沢山残されています。
(4) 道統は、禾山玄鼓から無着戒光と引き継がれ釈迦牟尼会般若道場に継承されています。
「吾が道 東す」と獅子林の六子の一人 無着戒光に「獅子林」の扁額と釈尊78代の法嗣である越渓老師の注釈書きのある「碧巌録」が伝わっています。道統が伝わり護持される事は、教えが普遍的なものであること、大事なものであることを証しています。
(5) 日常は粗衣粗食枯淡清貧に甘んじ、妙心開山関山国師の行履(禅僧の日常一切の起居動作のこと)の如し。
行僧のままの姿で通された。また親孝行であられた。臨済禅の中興の祖と思います。臨済宗妙心寺から「宗門の棟梁たり茲に遷化に方り本山再住職を追贈し以て其の遺績を旌表す」と伝えられています。
ご紹介させて頂きました。昨年は西山禾山顕彰会の重鎮で高野宗一郎氏とのお別れがありました。ご冥福を祈ります。西山禾山顕彰により誇れる郷土を確認し伝承に努めます。
「般若三昧」
西山禾山老師が『金鞭指街』を出されたのは、五十四歳のときであるが、その中の「般若三昧」は、生涯終始一貫した教えであります。般若三昧は禾山老師の遺訓の中でも最も大切な要素であるが、まことに簡単であります。
臨済宗檀徒安心章
○般若三昧
至心帰命 常住三宝
一切障滅 速成正覚 (三返)
南無甚深般若波羅蜜多 (七返 二十一返 或は無数返)
菩提心を起こして三宝を礼拝し、これから一生懸命にやるという決心をする。
まず信仰を獲得しなければならない。本当の信仰が確立したならば、それだけでも安心が出来る。これを「信位安心」といいます。この般若三昧を信ずれば、結局自分が自分の本当の姿に還るわけである。
南無甚深般若波羅蜜多を信じたなら「信位安心」が得られ、さらにそれを憶念し、どこまでも証拠立ててゆくと、具体的に証拠だてられて「証位安心」となる。信証不二である。専門家でなくても如来の大智大悲にたずさわることが出来るという在家仏法を、禾山老師は盛んに挙揚された。
釈迦牟尼会第二代師家 苧坂光龍老師 『禅味』九十号より
http://www.zenmi.net/
「南無甚深般若波羅蜜多」
西山禾山老師は『金鞭指街』の中で、仏法究極の真髄を「南無甚深般若波羅蜜多」の一句にしぼり、この一句において三昧発得すること(般若三昧)こそ仏道の要諦であるとして、般若の法門を高唱されています。その典拠として大般若経第二分東北方品に、仏滅後後五百歳の時に「般若若波羅蜜多甚深の経典東北方において大いに仏事を作さん」とあるを示し、まさしく後五百歳に当る今日現在、東北方の国土たる我が日本において、般若の法門の大いに興隆すべきを思い、みずからその発端を開かんとした。はたせるかな般若の法門は、禾山より戒光を経て法孫の定光に至り、より端的に挙揚せられ、般若を法幢とする教禅一致の新教団「釈迦牟尼会」の創立となる。この般若を中心とする全仏教の求心的統一の構想は、禾山の法孫によって引き継がれ実践実現せられる。
「人間本来無一物」
平塚雷鳥が若い時、悩みを抱いて全生庵の禾山和尚を尋ねたところ、和尚は「裸になれ」と言われる。雷鳥は仕方なく腰巻き一枚になったところ、和尚はさらに「それもとれ」と言う。ここに到ってさすがの雷鳥も、腰巻きをとることが出来なかった。という実話が伝えられています。
「人間本来無一物」とは“自分が自分の本当の姿に還る”“同根の意義を究める”“宇宙根源の気を自得する”ことなのかなと思う。「人間本来無一物」となり働くには...「裸になれ」という事なのだろうか。「人間本来無一物」を自得する手法は...「裸になれ」という事なのだろうか。...ご指導願いたい。西山禾山老師の導きを願います。
合気道八幡浜一当流道場 ○Aikido-Yawatahama 小清水孝
「人生の奥義は此の活社会でなければ分からぬ」
西山禾山老師の提唱の記録が残っていない。「禾山一笑萬法空」と説いた禾山老師の提唱はどのようなものだったのだろうか。断片記事を拾う。
「音吐鐘の如く、言辯泉の如し」
和尚の提唱は頗る辛辣なるもので其獅子吼するとき聴講の某雲水は吃驚して気を失った事さへあったと聞く。
禾山老師の学人を説得するや、決して室内に於いて古則公案をさばくのみを能事とするものではなかった。時に機に應じ、死蛇を弄して活龍となす底の毒手を縦横無尽に揮はれた。
「人生の奥義は此の活社会でなければ分からぬ」
和尚は、町長でも子供でも名前の呼び捨てだった。
大悟徹底した信念ある言葉には底力と法力があったであろうと推測します。師が居て法が伝わると思います。
参考図書:
西山禾山 田鍋幸信編大西書店刊
西山禾山 坂本石創著
仏教史余滴 笹尾哲雄著
鉄砲虫 にった浩著
禅門逸話選中 禅文化研究所編著
情 味
情味のある人は魅力的です。
情味のある人は慕われます。
情味はどのような心、生活信条から生まれるのだろうか。
西山禾山老師はそれは、情味の厚い方であったと聞きます。
至心帰命 常住三宝
一切障滅 速成正覚
南無甚深般若波羅蜜多 の般若三昧に修する心からこぼれんばかりの情愛が滲み出ていたのだろうと思います。 合気道八幡浜一当流道場 ○Aikido-Yawatahama 小清水孝 拝
生活の中の情味
「私はいつも思う。世の中の人の多くは、なぜもっと生活の中の情味というものを味わって生きようとしないのかと。」「苦しみを忍ぶとか、あるいは辛さを忍ぶというような、忍苦忍耐よりは、自己の命に---ここが聞きどこなんだよ---できるだけ喜びを多く味わわせて人生を生きる、そこに本当の生きがいがある。というのが私の人生観なんだ。」(中村天風語録)情味とは甚深般若から滲み出るものだと思います。情味を味わって生きたいものですね。
合気道八幡浜一当流道場 ○Aikido-Yawatahama 小清水孝 拝
「真 如」
「この霊物、天地世界滅するとも會して滅せず。形骸朽ちるとも會して朽ちず。更に一歩進めて見よ、天地万物悉く此中に現出する者なり。言を換えて云えば此一物是れを真性とも真如とも法性とも名付く、即ち天地万物、人類鬼畜の本体也。」「真如の常住不変にして肉体の壊滅に随て空無に帰するものに非ざることは粗ば御会得は出来申すべし。」西山禾山老師の宗教論より
各宗教の大主意
聖道門:自己の本有の真如を悟るが為に無量の法門を究むる也。
浄土門:大要は阿弥陀如来の本願を頼み、西方浄土に往生し初めて本具の真如を悟り得て無碍自在を得、普く天下を利済するを主意目的とす。
「本具の真如に順ひ、善心を以て善事を作す。之を善因と云ふ。」「三世とは初中後なり。この三世因果の道理を深く信ずる時は、人の知る知らぬとに拘らず、悪事は為すべからざるを知って自ら道徳を治める様になる、之れを各宗教の大主意と為す。」「我眼中に生死共になき也。」西山禾山老師の宗教論より
「本原の真理」
「試に問ふ、若し死後空無ならば、本朝往古の神乃至菅公其他下つて加藤或は和霊等のごとき皆死せし人なり。其空無なる者を祭祀するは誠に徒事と云ふべし。又足下の厳父にせよ、死後空無ならば墓参も無用の暇費へと云うべし。聞く処によれば、足下特に厳父の墓参せられたりと、之何の為なるや」「現今流行の化学、理学、哲学等のごときも未だ本原の真理に達せざれば、悉く門外の客といはざるを得ず。足下宜しく自ら信ずべし。即今、往住坐臥、用い得て自在無碍なる者、之れ真如の作用にして而も形跡なし。形跡なしと雖も、孤明歴々、円滑自在なる、之れ即ち足下本来の面目、固有の主人公なる。」「真如の常住不変にして肉体の壊滅に随て空無に帰するものに非ざることは粗ぼ御会得は出来申すべし。」「げんに於いて深く因果の道理を信ずべし。」西山禾山老師の宗教論より
佛性の本体、則ち人々具有の面目
佛徒の修業は如何なる事を修習するぞと云ふに、大要を挙げて云はば三学なり、曰く戒、曰く定、曰く慧、此の三学は他物にあらず、自ら利し他を利するの学なり、暇使ひ世間の学事にもせよ、身を慎み己を修めるは即ち佛戒を持つなり。心を治め徳を明にするは則ち佛の定を修するなり。理化学、哲学乃至法律学等、種々知識を磨研するは佛慧を明にするなし、之を以て見れば、佛学則ち世間の学也、然るに只世間の学は、真如を外にして修する故に、或いは断見、或いは常見に堕ち、天地万物の本原たる真理を得ること能はず。是れ故に佛生に縛せられ、外物に転ぜられ、自由を得ず。若し、之の佛性の本体、則ち人々具有の面目を徹見せば、世間の学、則ち佛学となるなり。果たして然らば、外物転じ佛生を解脱し、初めて不覊独立の大丈夫と稱す、又天上天下唯我独尊と言ふ。西山禾山老師の宗教論より
佛祖の志願
又来書中に、人間に生まれし上は、成るべく善事美学を多く作し、云々、この御志、最も殊勝自ら佛祖の志願に符合する所あり、佛教に四攝と言う事あり、一布施 二愛語 三利行 四同事也。之れ則ち人の為にするの法也。西山禾山老師の宗教論より
「甚深般若」
諸佛子安心の要、他に就て求むべからず。只能く信順の心を決し、般若三昧を修習するに在り。此三昧を修する者、是を学般若の菩薩と名付く。般若三昧とは甚深般若を専念するを云ふ。「甚深般若は即ち是れ生佛一如の本体、吾人本有の真如なり。之に迷ふ者は永劫に沈淪し之を悟る者は当処に解脱す。」
「安心法話」西山禾山著より
「本具の真如」を悟る
郷土の偉人『西山禾山老師』の人なりと思想を探求しています。
「試に問ふ、若し死後空無ならば、本朝往古の神乃至菅公其他下つて加藤或は和霊等のごとき皆死せし人なり。其空無なる者を祭祀するは誠に徒事と云ふべし。又足下の厳父にせよ、死後空無ならば墓参も無用の暇費へと云うべし。聞く処によれば、足下特に厳父の墓参せられたりと、之何の為なるや」---
「この問いに深く考えさせられました。体験したもの、直感するものがあります。」
「本具の真如」を悟る---『本原の真理』---『甚深般若』---「生佛一如の本体」---「我眼中には死生共になきなり」---「説得力が有ります。分かり易く、真に有り難い教えです。」---ご紹介します。
合気道八幡浜一当流道場 ○Aikido-Yawatahama 小清水孝
皆是甚深般若の一法を敷演するのみ
世尊復法界を観見し玉ふに、吾巳に解脱を證するとも、群生尚苦海に沒在す。誠に悲愍すべし。是に於て本誓願に乗じ、横説竪説、普く人天を利済し玉ふ事四十九年なり。其法門、積て海蔵に充つ。然も海蔵に充つとも雖、皆是甚深般若の一法を敷演するのみ。末後、親しく摩訶迦葉尊者に傳へ、展轉して初祖菩提達磨大師に至り、乃至臨在大師及歴代の祖々、一器の水を一器に傳るが如くに授受し来るも亦此甚深般若なり。
「安心法話」西山禾山著より
臨済宗での最高峰にある老師
八幡浜市の愛宕山の麓に大法寺があります。私達の稽古場市立武道館は大法寺の前を突き当たり道を右にとり愛宕山の中腹にあります。西山禾山老師は、江戸明治大正の激動の時代を生きました。『臨済宗での最高峰にある老師として日本中に鳴り響いていた禅師です』四国では知らん人のなき大徳であった事を知りました。
江西山大法寺
『我が道、東す。』
西山禾山老師は白隠より六代目の妙心寺越渓の法を嗣いだ傑僧です。禾山老師の道風は愛知県妙興寺寛慶紹a 京都銀閣寺大鳳節譚
大阪了徳院大真秀戒 栃木県雲照寺無着戒光 琢道玄珠老師らに伝わっています。明治39年戒光大事参得し請暇して帰錫する時、禅堂に掲げて置いた「獅子林」並びに「華蔵閣」と書いた二つの額を与えています。『我が道、東す。』と申された。禾山玄鼓--無着戒光--無相定光--無作光龍---常井龍善---山本龍廣と嫡伝し、釈迦牟尼会般若道場に伝えられています。http://www.zenmi.net/
無着 戒光 ムジャク カイコウ 1871-1928 臨済宗 律宗 那須の雲照寺
別号・他:
獅子林と号す。福島県の人。20歳、東京目白僧園の雲照律師に参ず。明治27年、高野山蓮華定院の隆応について得度。同35年、伊予の大法寺に赴いて、禾山玄皷の室に入る。明治39年、禾山の印可を得て、再び雲照寺に戻り、密宗の蘊奥を究める。大正2年、道友会を創設、東北各地に布教。大正9年、隆応の仁和寺に移るにともない、那須の雲照寺に住す。持戒精純。行履慎密。教理に精通して宗説自在、各地の行化に寧日なし。昭和3年示寂。
百個の世僧は得易く、一個の道人は得難し。
「御高徒戒光師事、奇特なる縁にて---参禅相進み末頼母敷く、不肖に在りても相喜び居候処---百個の世僧は得易く、一個の道人は得難し。参禅辨道は一気呵成を要す---一日も早く此人を玉成せんことを熱望す。」と隆應老師に返事し、戒光禅師の帰錫をお願いしている。禾山の後進を思い斯道を思うの熱情に感激し、戒光禅師の帰錫を許す。秀戒禅師らと八幡浜の愛染堂から参禅すること五年、彼は遂に大事を参得し了る。禾山から認証を授かる。
(西山禾山 坂本石創著より)
約100年前この愛染堂から
通勤の道に愛染堂があります。大法寺まで歩いて約15分、新川沿いのお四国山の麓です。約100年前、戒光老師が秀戒老師らと寝食を共にされ、このお堂から西山禾山老師に参禅修業(1902〜1906年)されています。
西山禾山老師は『金鞭指街』の中で、仏法究極の真髄を「南無甚深般若波羅蜜多」の一句にしぼり、この一句において三昧発得すること(般若三昧)こそ仏道の要諦であるとして、般若の法門を高唱されています。般若の法門は、禾山より戒光を経て法孫の定光に至り、より端的に挙揚せられ、般若を法幢とする教禅一致の新教団「釈迦牟尼会」の創立となる。http://www.zenmi.net/ 合気道八幡浜一当流道場 ○Aikido-Yawatahama 小清水孝
宇和島晦巌老師と西山禾山老師
18歳の時、儒者の竹内蓬州について漢学を修めた。のち、一世の碩学と称せられた宇和島の晦巌について経典、禅籍を学び、晦巌に「老僧の学海すでに汝がために傾倒せらる。また涓滴を遺すなし」と言われたほどであった。大器力量の修業僧禾山の為に師晦巌は特に一座を設けて古来難解とされている重要経典の「維摩経」などを講述されたほどである。「我は是れ豪邁、汝は是れ高邁」と頌したが、これは禾山の心境がすでに円熟した高い次元にあるとの証明の言葉である。師晦巌は禾山を広く学ばせるために当時の天下の善知識、禅界の大宗師家を歴訪するよう命じた。筑後、梅林の羅山禅師を初めとし、美濃の雪潭禅師。京都の相国寺越渓禅師、京都の乾徳院に独園禅師等に参じた。
晦巌 道廓 マイガン ドウカク 臨済宗 宇和島金剛山大隆寺 生没年 1798-1872
伊予の人。江戸後期の僧。道廓は諱、別号に万休、卍休、清遠と号す。仙 義梵に就いて教学を修め、博多聖福寺の仙香A鎌倉円覚寺の誠拙周樗に参ず。ついで清蔭音竺、淡海昌敬の鉗鎚を受け、ついに淡海昌敬の印可を受ける。伊予宇和島の大隆寺に住す。明治5年示寂。世寿75。博覧強記、識見卓絶、「晦巌の知らざるは文字に非らず」と言われた。淡海の印証を得る。藤本鉄石・伊達春山等と交流があった。著に『訓海宝海』『百雑砕』がある。明治5年(1872)寂、75才。
白井雨山作僧晦巌像
京都妙心寺の越渓老師と西山禾山老師
禾山は、当時、相国寺にいた越渓守謙の道風を慕い、越渓が京都妙心寺の天授院に僧堂を開単すると越渓に従って昼夜、身魂を惜しまず修業した。西山禾山老師は京都妙心寺の越渓和尚の高足で、しかも弟子とはいえ、その偉大なる風格と超越非凡の学才とは越渓和尚の深く驚嘆推賞する所でまるで自分の弟の様に優遇尊重して居られたものである。越渓和尚は特別に西山禾山禅師の入室をいつでも許された。近くのとある家に立ち寄り一間を借り受けて入室を許された。また、立ち寄る家もない郊外で出会われた時は路傍の松の根元に腰を下ろされ、入室をゆるされた事もあった。
越渓和尚から送られた碧巌録を大法寺の大火(1881年)で消失したのを余程残念がられた。(火中から持ち出そうとして大火傷を負う)越渓和尚は此の由を聞いて西山禾山和尚の為に親しく筆を執り三年間かかって碧巌集十卷稿本(白隠禅師らの提唱の書きこみを含む)の全部を書いて贈られた。稀に見る美談である。1884年師越渓老師寂。その稿本はいまも伝えられて釈迦牟尼会に護持されている。法系は白隠禅師(1685〜1768年)に発し、西山禾山老師は釈尊79代の法嗣であられる。
越渓 守謙 エッケイ シュケン 生没年: 1810-1884
臨済宗 妙心寺537世 妙心寺僧堂開単 宮津智恩寺 相国寺僧堂 楊岐寺
別号・他:
本光軒と号す。若狭高浜の人。小浜常高寺大囿周文について出家。岡山曹源寺儀山の室に入り、ついにその印可を受く。39歳、文殊智恩寺の請に応じ、僧堂を開き四来の雲水を鉗鎚。さらに悟後の修行のため相国寺僧堂に留錫、大拙承演に参じ、大拙の病後代って相国僧堂の師家に就任。50歳、後事を独園に委ね、妙心寺の請に応じ、山内天授院に僧堂を創建。74歳、朝来郡楊枝寺に江湖道場を開き宗風を宣揚。明治17年示寂。世寿75。
幕末・明治の臨済宗の僧。若狭生。越渓は字。10才のとき出家し、小浜常高寺大囿に師事、のち曹源寺儀山善来の法を嗣ぐ。明治維新の際、志士と交わり名を知られた。のち妙心寺で宗風を挙揚する。
河野広中先生と西山禾山老師
嘉永2年(1849年)三春藩郷士の家に生まれ、明治、大正時代に政治家として活躍しました。戊辰戦争に際しては、三春藩降伏のために行動しました。明治7年、国会開設を求めた自由民権運動が起こると、その運動に参加し指導者としての立場に立って活躍しました。明治14年に、福島県会議員に当選し、32歳の若さで議長になりました。明治23年の第1回総選挙で衆議院議員に当選し、それ以来大正7年の第14回総選挙まで連続して当選しました。その間に、明治36年衆議院議長、大正4年から5年にかけては第二次大隈内閣の農商務大臣を努めました。
http://www.town.miharu.fukushima.jp/rekishi/rekimin/kinenkan/hironaka.htm
福島県出身の代議士。衆議院議員、農商務大臣などを歴任。郷里では福島西郷と云われて尊崇された英雄漢である。河野磐州と号し、西山禾山老師から『無得居士』の號を授けられた。広中氏の師を思う念は切なることは非常なもので、如何に政界多忙な時でも、月に一度の音問を怠らなかった。「当今の禅家中老漢のように、三拍子揃った者は他にない、第一学問があの通りであり、道力は言語同断、又弁舌に到りては真に天地打破の勢いで譬うべきものがない」云々。
平櫛田中先生と西山禾山老師
西山禾山老師の提唱は31年から3年続いて聴いたが、最後は全生庵で維摩経全部を二カ月にわたって提唱された。連日厳しい修業であったが、老師の提唱はまったく生きていた。禾山の提唱というと、そのころ上野にあった天台宗大学の生徒が大勢押しかけ、目白僧園からの僧など参禅者はいつも禅堂を埋めつくした。禾山老師は左の拳を開くと、ワッハハハハァーと大口を開いて笑い、「ここから入れ」と言う。私はよく老師に「クソぶくろを下げて来たか」と言われた。越渓と晦巌両禅師を教僧として非常に敬仰し、「右に晦巌、左に越渓」と提唱の中に口癖のように口を衝いて出て来た。古則公案などの中では坊主達の葛藤を述べているが、その葛藤の時など、千年前の名僧知識がそこのうろうろしていると思えた。そんな提唱は禾山老師ひとりだった。禾山老師の「喝!」は何とも形容の言葉のないものであった。大きいというか、鋭いというか、澄みきっているというか、臨済大師を地下から呼び起こして来たら、ああいう喝であろうかと思われ胴ぶるいするようなものであった。(平櫛田中談)
平櫛田中先生と西山禾山老師vol.2
私は製作して行く上で、西山禾山老師と、岡倉天心先生にはもっとも影響を受けた。西山禾山老師の厳しい教えを受け、また提唱によって私の人生航路に大きな目が開けたのであった。極めて世俗的なことを述べられるだけれども、その平凡な言葉の中にも深い示唆が含まれていた。禾山老師は「七十、八十男の花、四十、五十は鼻たれ小僧」と戒められた。私はそれに二十を足して「九十、百こそ男の花よ、六十、七十は鼻たれ小僧」と書いたことがある。
老師はすべて現成公案であった。私はそれが仏さまの境涯であると思う。何もかも忘れて彫刻と一枚になれば、それが仏さまの境地である。私はそれを禾山老師から会得したと思っている。『一生至心である。』禾山老師はそう言うのだ。
岡倉天心先生と西山禾山老師
平櫛田中は一生を決定づけたと思われる禅師西山禾山を知り、禅の提唱を受ける。「活人箭」「法堂二笑」「尋牛」「灰袋子」「グティの竪指」の作品は、西山禾山老師の提唱から出ている。
私が岡倉先生に叱られたのは二度です。その話いのほかは、なにも岡倉先生については知りません。「諸君は売れるようなものをお造りになるから売れない。売れないものをお造りなさい。必ず売れます」とおっしゃった。岡倉天心より受けた知遇は四、五年の歳月に過ぎないが芸術上の師としての天心は平櫛田中のながいその一生をとうして、いつも心のなかに深く刻みこまれている。「一日として師恩を忘れない」という言葉に尽きるようである。(鉄砲虫 にった浩著より)岡倉天心と西山禾山の二人は平櫛田中の恩師である。
三遊亭円朝名人と西山禾山老師
無舌居士の枕詞(枕口上なり)
三遊亭円朝といえば、並ぶものなき名人と謳われた希代の落語家である。この円朝が山岡鉄舟の前で一席しゃべった。ところが鉄舟は気にくわない。「おまえは舌でしゃべるからいけない。舌をなくさなければ落語にはならない」と鉄舟に言われ、以降熱心に参禅、西山禾山に学んだ。西山禾山老師は講談の枕詞を授ける。「ある日大和尚(西山禾山)が急に禅室へ召されますので、とりあえず参りますと、大和尚が威たけだしく『円朝』と呼ばれますので『ハイ』と答えますと、『わかったか』とおおせられますゆえ、『わかりませぬ』と申し上げますと、大和尚は例の目をむきだして『汝、返事をしながら、わからぬか』と一喝され、また『円朝』と呼ばれるので、『ハイ』と答えますままに、豁然省吾いたしました。そこで私は初めて円朝が『ハイ、ハイ』ではなく『ハイ、ハイ』が円朝である、と合点しました。それよりこのかたの小生は舌無しにお話をしますので、おのおの方も耳無しにお聞き取りを願います」との落語名人円朝(無舌居士)が誕生した。http://gohero.hp.infoseek.co.jp/encho/encho.html
山岡鉄舟先生と西山禾山老師
西山禾山老師の禅の達観を「慕われた禾山」に見るように思います。山岡鉄舟先生はまことに日本武道史の柱と思われる大人物です。西山禾山老師と山岡鉄舟先生は交流があり、温かい友情が有ったと推察します。大法寺再建にと沢山の書を送られています。二人の人物なりを知り、修業の糧とさせて頂きたいと思います。山岡鉄舟は剣、禅、書の三道を極めた。禅を武州芝村長徳寺願王和尚、伊豆澤地村龍澤寺星定和尚、京都相国寺獨園和尚、同嵯峨天龍寺滴水和尚、相州鎌倉円覚寺洪川和尚に参じる。
滴水和尚から印可を得る。http://tesshu.kcnote.com/
心に沁みる風景があります
八幡浜市の中心から車で約25分の辺境の地、真穴の里を職場の地として5年間勤務しました。マルマみかんの銘柄で有名なみかん作を専業として生活する小さな村です。郷土八幡浜市の偉人、西山禾山和尚生誕の地でもあります。
この里には『集落の人たちを思いやる』あったかい文化がありす。寄り添って暖かく生活しています。里の人々の「人情味」を大いに感じました。「人情味」とは「他の生命を思いやる心」から滲み出るものなのだなあと感じました。人情味ある生活は心地良いものですね。心が暖まります。良き経験をしたと感謝します。「180度の視界に広がる静かな海、沖の大島の島影を映す。中空に端座する上弦の月、海面に月光を照らす。瞬く満天の星、神気我を包む。」心に沁みる風景があります。---真穴讃。 合気道八幡浜一当流道場 ○Aikido-Yawatahama 小清水孝
あったかい文化
親子合気道教室を開校している、マルマみかんで有名な真穴の里を紹介します。真網代(まあじろ)と穴井(あない)という2つの集落の頭文字を取って真穴と呼んでいます。農家は240戸です。その内170戸の農家は、みかんで生活しています。一日はみかんの話ではじまります。前は宇和海 後ろはみかん山です。真穴の里の両隣の集落は、ずいぶんと離れています。ここには『集落の人たちを思いやる』あったかい文化があります。郷土を大切にしています。心がほぐれて私の「人を思いやる気持ち」が芽生えてきました。ありがたいことです。真穴の四季
合気道八幡浜一当流道場 ○Aikido-Yawatahama 小清水孝
火の願文
火の願文 古人曰 稽古照今 久我襄
竜神のすむという地大島が まだ開かれていなかった天正の昔から穴井の郷の 漁の守りとして灯し続けられてきた 常夜燈
波の上はるか 夕日の山王小島の 神の宮居に連なる わたつみの道の豊の明り
じじとばばが そのまた父と母が 行く日来る日を福高寺の晩鐘とともに
日ごとの暮しの 初めと終りの 変わることない堅い船路の証として伝え伝えてきた 生命のある灯 時の灯台
おお この里の 産土の子たちの平安を 朱鷺色の火もて とこしえに守れ
市杵島姫よ 大綿津見の神命よ
親子合気道教室開校に寄せて 「思いやる」ことについて
「人間は、生まれながらに他の生命を思いやるようにはできていない。そうなるためは訓練が必要である。そして武道はそのためにこそある。」と、私の師匠で人生の大恩人佐柳孝一師範(1999/07/17入神)は教えて下さいました。
大人になっても『他を思い遣る』ことは、なかなかで出来ないものですね。ここから「愛情」「友情」「和」が生まれてくるんでしょうね。また、「合気道とは、その技の一つ一つを通して、相手の心を思い、宇宙の摂理を思い、自分を宇宙の摂理から外れぬように森羅万象の内に、位置づけることを強いるものである。」とも伝えて頂いています。しかし、「相手の心をも思う技」には遠い自分です。まだまだ修行です。
親子合気道教室は2年目を迎えました。松良昭子公民館長さんや高田主事さんや三多弘幸駐在の大きな援けもあります。「楽しい教室」で子供達の成長を応援したいと願います。 合気道八幡浜一当流道場 ○Aikido-Yawatahama 小清水孝