〇 誠の宝槍/高橋泥舟(謙三郎/精一)(1835〜1903年)
高橋泥舟(たかはし でいしゅう)こそ〇 誠の宝槍であり、日本精神であると尊敬する。「至誠の人」/「至誠一貫」の生涯で、高遇なる幕臣と評される。
〇 誠の宝槍/高橋泥舟(謙三郎/精一)(1835〜1903年)Vol.1 「江戸城無血開城」を成し遂げた江戸幕府側一番の功績者は、誠の宝槍/高橋泥舟(謙三郎/精一)である。
合気道精神を攻究する道標として、郷里八幡浜の偉人 在家禅の先駆者/西山禾山を研究しました。禾山禅師と尊敬する山岡鉄舟との交流を知り、大変興味を持ちました。西山禾山 田鍋幸信編の書籍の「書誌」の中に---「定本山岡鉄舟」牛山栄治 新人物往来社「剣聖の誕生」放下延篇「悟前適水、悟後禾山」の語を引用。「追悼集」にもあり。---の一節を発見する。西山禾山禅師の立派さに益々感激しました。
江西山大法寺の正面に「大法禅寺」と山岡鉄舟が揮毫した扁額があります。見事な書です。「この様な魂の味わいある、意思の籠った書を書きたいものだ」と感動しました。引き続き無刀流/山岡鉄舟を研究する中、幕末の三舟の一人で義兄の高橋泥舟(謙三郎/精一)の武人としての生き方に感銘を受けました。
「江戸城無血開城」を成し遂げた江戸幕府側一番の功績者は、〇 誠の宝槍/高橋泥舟(謙三郎/精一)である。まるでこの一大難局に当たる為に「槍の修行にあった人」であると知りました。いつの時代も敗軍は事実を曲げられて記録されます。知名度も低く間違った人物評を残念に思い、〇 誠の宝槍/高橋泥舟(謙三郎/精一)と題し顕彰を決意しました。HPを立ち上げ連載の予定です。ご期待下さい。
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〇 誠の宝槍/高橋泥舟(謙三郎/精一)(1835〜1903年)Vol.5 悟後の修行36年。「一以貫之」--- 清貧に生きて、なお道を貫く。高橋泥舟(謙三郎/精一)こそ〇 誠の宝槍であり、日本精神であると尊敬する。「至誠の人」/「至誠一貫」の生涯で、高遇なる幕臣と評される。
1835年3月15日(天保6年2月17日) 旗本・山岡正業の二男として江戸小石川に生まれる。諱は政晃。通称は謙三郎・伊勢・精一。号を忍斎といい、泥舟は明治4年(1871)年以降の号である。
1851年 母の兄弟で勘定組頭 高橋鏈之助包承の養子となる。義祖父高橋義左衛門包實、養父包承、兄静山の指導により刃心流(ジンシンリュウ)の槍、穴澤流の長刀を修行する。精妙を謳われ海内無双、神業に達したとの評を得るまでになる。
1855年 兄静山が27歳で早世。
1857年 槍術の師であり兄でもあった故静山と夢で試合し、泥舟の成長ぶりを喜び別れるという境地にまで達する。高橋謙三郎23歳 この夢中の試合において、豁然として妙諦を悟了する。
1860年 武門の誉れ高き山岡家に残る英子の婿養子に迎えた門人の小野鉄太郎が後の山岡鉄舟で、泥舟の義弟にあたる。
1863年 一橋慶喜(徳川慶喜)に差添で上京。3月閣老小笠原壹岐守に国事を論じる。閣老、浪士取扱兼師範役を命ず。朝散大夫従五位下伊勢守に叙せられる。4月反逆を企つるの讒言に遭い、幕府兵に囲まれ一同討死の覚悟を為すに、嫌疑晴れるも無期限の幽閉を命ぜられる。11月15日江戸城炎上、幽閉の身を犯して主君を護衛する。沢左近らの配慮により12月幽閉許され元職に復帰する。
1864年 小石川伝通院内の浄土宗処静院の住職である師匠なる琳瑞和尚(現在の山形県西村山郡河北町に出生)に相まみえる。以来琳瑞和尚とは足しげく往来し、法話を槍術鍛練に生かす。
1866年 新設の遊撃隊頭取、槍術教授頭取を兼任。
1867年 「和尚、私は今、そうしていられるあなたのお顔を拝見して、しみじみと思うのだが、あなたの進まれると、私の槍とはだいぶ道が違っているようです。」---「今日から、われらの師匠は、あなたかな」「そんな事はないが、道の違う事だけは、あなたの今一歩というさとしと、死んだ兄を目の当たりにしておかげで確と自悟しました。和尚どの、あなた方仏家の道は、障子一重に小野小町や衣通姫が艶色したたる嬌声を発しているのを聴きながら、われらはかれらがために煩悩を起してはならぬ。戒律に違うててはならぬ。それでは仏になれぬとご修行なさるのが、道としていられるように感じました。しかし、私が苦しみ抜いて漸くして自悟たした槍法はこれと大いにその趣を異にする。私は小野小町や衣通姫の雪の肌も遠慮なく抱き寝もすれ、肌着も中着も上着も付け揃えて仕立てをしてやって、それをいっそ立派に仕上げてやるのが道であると覚え知った。それもこれも、和尚どのの言葉から決着自悟した。有難い事です。」---
「これは恐れ入った」「参りました。先日の御道場の先生と、今の先生は別人でいられる」「和尚どののたまものです」「和尚どの、高橋はひとりよがりを、しかも卑俗の語を以て申したが、これで胸中がまことにさっぱりした。この後はどうぞ、道場へもお越し下って、何かとご教示を賜りたい。」「それはこちらから申す事、先生、ほんとにあなたは今日からわれらが師匠ですよ」
1868年 正月遊撃隊頭となり即日同隊軍事委任の命を受く。幕府が鳥羽・伏見の戦い敗戦後、帰東した徳川慶喜にいち早く恭順を説く。2月江戸城から上野寛永寺に退去する慶喜を遊撃・精鋭二隊を率いて護衛。3月大目付上席遊撃精鋭両隊総括兼奥勤。慶喜から絶大なる信頼を得る泥舟高橋伊勢守は、護衛の為離れられない自分に代わり山岡鉄舟を官軍側に派遣して徳川家の救懈を交渉させようと献策。慶喜から直接の命を受け、鉄舟山岡鉄太郎見事に大役を果たす。4月11日江戸城開城、慶喜を護衛して水戸に供奉する。12月静岡移住。
〇 高橋泥舟(謙三郎/精一)の働きがあったから山岡鉄舟の働き所があった。そして勝海舟の働き所も生まれた。高橋泥舟(謙三郎/精一)の功があったからこそ「江戸無血開城」は成し遂げられた。その意味で一番の手柄は山岡鉄舟。一番の功は高橋泥舟(謙三郎/精一)である。この二舟の働きの上に勝海舟の仕事が為された。この事を正しく顕彰したい。
〇 徳川慶喜侯ひいては徳川15代の治世の尊さは、高橋泥舟(謙三郎/精一)によって誇らしく守られた。そして日本は救われたと私は思う。この功に感謝し、正しい歴史を伝えたい。高橋泥舟(謙三郎/精一)を顕彰する。
1869年 田中奉行として地方八万石、士族1200戸を預り組となす。静岡藩となり大属席となる。
1903年 明治36年2月13日、牛込矢来町の自宅で没す。享年69歳。墓は東京都台東区谷中六の大雄寺にある。戒名は「執中庵殿精一貫道大居士」
〇 悟後の修行36年。「一以貫之」--- 清貧に生きて、なお道を貫く。高橋泥舟(謙三郎/精一)こそ〇 誠の宝槍であり、日本精神であると尊敬する。「至誠の人」/「至誠一貫」の生涯で、高遇なる幕臣と評される。
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〇 誠の宝槍/高橋泥舟(謙三郎/精一)(1835〜1903年)とその道人達 Vol.1
・貧乏小役人の二男、高橋謙三郎(泥舟)は養祖父に槍を学び、二十二歳で幕府講武所の槍術教授方出役に抜擢された。皮肉にも実家山岡家に不幸が続き、鉄太郎、のちの鉄舟が婿養子で入った。鉄太郎の知友、清川八郎が画策してつくった幕府の浪士組が内部抗争を起こし、京都から江戸へ連れ戻す大役が謙三郎に与えられた。だが、近藤勇、芹沢鴨たちが新選組として京にとどまり、清川八郎は刺客に斬殺された。謙三郎は責任を問われ蟄居したが、再び召され将軍慶喜の身辺警護の大任を果たす。--- 澤左近将監(勘七郎幸良)は、謙三郎の精忠論を説き一方ならぬ奔走あり。幽閉を免ぜられ二ノ丸留守居席、槍術師範となる。
・徳川家の対官軍関係で活躍した勝海舟とは対照的に、幕府の内政で大きな役割を果たした。「江戸城無血開城」を成し遂げた江戸幕府側一番の功績者は、誠の宝槍/高橋泥舟(謙三郎/精一)である。しかし維新後はいかなる推挙をも拒み、市井に埋もれて清貧の生涯を送った。「至誠の人」「至誠一貫」の生涯で、高遇なる幕臣と評される。
・熱心な門人に酒井金五郎、井戸金平あり。鈴木恒太郎/豊次郎兄弟、依田雄太郎---泥舟高橋伊勢守の前途を開く為の懸命な働きあり。
・大久保忠寛一翁(右近将監)は勝海舟の出世の方途を開き、江戸無血開城にも貢献する。
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〇 誠の宝槍/高橋泥舟(謙三郎/精一)(1835〜1903年)の評伝
・「至誠の人」/「至誠一貫」の生涯で、高遇なる幕臣と評される。
・「幕末士道の華」と称え、明治政府に出仕しなかった事を「その心境はまことに光風霽月のごとくすがすがしい」としている。(津久井龍雄)
・槍の達人泥舟高橋伊勢守は境地を進め、その境地を楽しんだと思う。(小清水祥孝)
〇 誠の宝槍/高橋泥舟(謙三郎/精一)(1835〜1903年)年譜
・筆をとれば雲がたなびき、龍が飛ぶ如し(阿部正人評)
・自分は泥舟の書を見るたびに筆力が「奇絶」だと思っていたが、今、この伝記を読んでその生涯を知った。(中村櫻渓評)「高橋泥舟事略」より
・泥舟の楷書は「温雅端正」「醇厚典麗」「覇気も怒張もなく、誠に君子人の風格」対して草書は「まるで梅の古木か龍の筋脈の如し」(書家 佐倉達山評)
・墨39号 特集幕末の志士 泥舟を「当代第一級の能書家としても名高い」「三舟の中で泥舟の書が、品位・技術ともにすぐれていると思われる」と評価している。(書家 増田孝評)
・墨69号 特集幕末の三舟 泥舟の細楷は「天下一品」、晩年の行書には「風塵を絶した君子然たるたたずまいに、冒しがたい威力を感じる」といずれも称賛している。
・一幅の枯れ山水画の様。風の音や滝の轟音や歌声が聴こえる。特に楷書が素晴らしい。仮名も見事。槍の達人ならではのもの。墨の入り、伸びが堪らない。(小清水孝評)
参考図書
日本精神の研究 安岡正篤著
泥舟 河越閑古著
逃げ水 子母沢寛著
泥舟遺稿 安部正人編
幕末三舟伝 頭山満
武士道 山岡鉄舟口述 勝部真長編
高遇なる幕臣 高橋泥舟 岩下哲典編著
「江戸無血開城」 岩下哲典編著
歴史研究第688号 明治15年のコレラ流行と高橋泥舟 岩下哲典著
山岡鉄舟・高橋泥舟 もとの姿はかわらざりけり 岩下哲典著
泥舟先生詩歌 小林二郎編著
徳川の三舟 佐倉達山
現代禅の法話集 妙心寺派布教師会編
あなたに禅を 臨済宗妙心寺派布教々化研究会編
三舟及び南洲の書 寺山葛常
墨39号 特集幕末の志士
墨69号 特集幕末の三舟
西郷隆盛と幕末三舟の書展 江戸無血開城百五十年
泥舟先生墨香 筆禅会発行
泥舟書簡等 小清水祥孝蔵
勝海舟の罠 水野晴夫著
生き方の美学 中野幸次著
剣の四君子 04 高橋泥舟 吉川英治著
草思堂雑稿 吉川英治著
独立自尊 福澤諭吉と明治維新 北岡伸一
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〇 誠の宝槍/高橋泥舟(謙三郎/精一)(1835〜1903年)Vol.2 泥舟高橋伊勢は「刃心流槍術」「穴澤流長刀」11代目継承者である。
泥舟高橋伊勢守は「刃心流槍術」「穴澤流長刀」11代目継承者である。「刃心流槍術」のそもそもは菅原道真にさかのぼる。この道真から伝来の「兵法三段之法」を得て、広く諸国を修行して「菅原本流」という剣術を教えたのが、佐々木家に仕えた小菅楽隠入道という人物であった。この楽隠翁について刀槍を学んでその微妙を得たのが、江州の人岡田土佐守永定で、この人を以て「刃心流」の開祖とする。「直槍の法を以て業用すべし」と直槍を以て名を顕した。岡田土佐守はまた、穴澤主殿助に従って長刀の極意を得た。「穴澤流長刀」は、「刃心流槍術」とともにあって、並立して伝えられた。
岡田土佐守は、その芳名をきいた太閤秀吉に召されて、城内で開かれた諸流槍法の御前試合に列して悉くに勝った。この時秀吉から槍術の大意を尋ねられて、「平生忍という字の心にて、討ちおろす刃の下に居る心得にて候」と答えた。「人常に刃の下に座する心を忘れざるは是れ油断なきの理なり。汝今よりこの心を以て、忍の一字を分かって流名となすべし」と褒詞をうけて、「本流」を改めて「刃心流」と号した。
泥舟の母文子の父である義祖父高橋義左衛門包實は、泥舟の養祖父に当る。高橋家の槍道場に隣接して実家の山岡家があり、山岡家を継いだ義弟山岡鉄舟とは家族の様に接していたと思われる。柳生但馬守平宗厳(剣の柳生大祖石舟斎)が孫の柳生兵庫助平利厳(尾張柳生始祖如雲斎)に新陰流兵法正統第三世を相伝し、導き支えたように---「刃心流槍術」「穴澤流長刀」を宗家8代目高橋義左衛門包實は、長寿で89歳まで生き、9代養父高橋鏈之助包承、孫である10代山岡静山と11代高橋伊勢守に厳しく槍の稽古をつけ道統を継承し、泥舟高橋伊勢守を導き支えたのである。
泥舟高橋伊勢守には義祖父高橋義左衛門包實、兄山岡静山、琳瑞和尚の大恩ある師がいる。また書は小島成斎に学ぶ。
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〇 誠の宝槍/高橋泥舟(謙三郎/精一)(1835〜1903年)Vol.3 宗家8代目高橋義左衛門包實伝「至極の勝」---常に人に勝たんと欲する心を整え、徳の我身に足らざる所を補い、その徳を積んで徳を以て勝べし。
「逃げ水」---の題名について転変動乱の幕末を表現したものなのかなと思う。かかる中、槍一筋に生きた名人 高橋 泥舟(謙三郎/精一)の生涯を円熟至妙の筆致で描写した巨編です。母校明治大学の先輩である子母澤寛の著作です。その絶妙な描写を紹介したい。「刃心流槍術」「穴澤流長刀」宗家8代目高橋義左衛門包實は、孫である10代山岡静山と11代高橋伊勢守に厳しく槍の稽古をつけ道統を継承し、高橋伊勢守(泥舟)を導き支えた。また、泥舟の義弟鉄舟山岡鉄太郎にもしかりである。文武両道を説く。その1
「両親のおむつまじさも然ることながら、いいか、よっく聞け、一旦冥途へ旅立った魂が、再び戻って来られたのは、どうしてだ。これは言う迄もねぇ、お前らが両親を思う孝行の誠の心の強さの為なのだ。これを忘れるな、人間の誠心というものは、これ程に強いものなのだぞ、死んだ人を生き返らせるほどに強いのだぞ」(高橋義左衛門包實)
「武芸の道も同じだ、いや、人間の本当の生き方も、要はただ誠の一字につきるのだ」「ふむ、謙三郎にはまだわからんかも知れねぇな。が、謙、覚えて居れよ、そして成人して、きっと思い出すのだ」(高橋義左衛門包實)
「いやいや考えなしに滅法な事をして終った。御隠居は業を積むより心を蓄えよ。徳を積めといつも言っている。常に人に勝たんと欲する心を整え、徳の我身に足らざる所を補い、その徳を積んで徳を以て勝べし。これを「至極の勝」と云う---謙、まだまだ俺達は子供だなあ」(静山山岡紀一郎)
「おれはな、御隠居にも紀一郎どのにも言われたのだ。お前は随分稽古をするが槍よりはまず剣をやれ、槍はやっても免許から奥へは進めんとな。はっはっ、その通りだ、その言葉をおれがこの頃井上先生に血反吐を出す程にひっぱたかれてな、やっと解りかけて来ているんだ。凡そ武芸は技でねぇ、だから稽古だけではどうすることも出来ねぇものがあるんだ。おれは今になってはじめて剣を遣うが面白くなってきた。」(小野鉄太郎)
「同好の士、大いに歓迎するところですが、若いといって妙な奴ではないでしょうか、おのれのある事だけを知って他人を知らない、思慮分別のない忌やな人間が入ってくると、とかく道場が無秩序になりますから」(鉄舟実弟酒井金五郎)---「馬鹿奴、みんな屁見たような小僧っ子だよ。たとえどんな奴であろうと、そんな事なんか、謙三郎殿の槍先を見ただけで消えて終う、精神即ち清浄無垢になるのだ、それがあの人の槍だ。こんな事を云ったって未熟のお前にはわかるめぇが、純真な人間の信念というものは、神にも仏にも通じている事をまざまざと見せてくれるのが、あの人の槍なんだ」(小野鉄太郎)
隠居は顔を見るとすぐ手を打って「有難い叶えてくれるかえ」「不肖ながら、身命をとして故静山先生が知己にお酬い申したい」「男児世に出で武芸の名門をつぐ、この上の本懐がござりましょうか。御隠居も謙三郎どのも、家禄の事を気にされたようですが、この鉄太郎が、本当にそんな男に見えますか。---心外です」「謙三郎殿は、今夜からもうわたしが兄貴だ。思い切りの稽古がしてもらえますね」(鉄舟山岡鉄太郎)
「これ、豊さん、もう何もいうな。わかったらこの先きはただ何もかも一生懸命やることだ。お互いに弱年だ、人生五十年の間に一度や二度は迷うこともやり損うこともある。くよくよする事はねぇよ。ねぇ」(鉄舟山岡鉄太郎)
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〇 誠の宝槍/高橋泥舟(謙三郎/精一)(1835〜1903年)Vol.4 泥舟高橋伊勢守33歳「大悟徹底」 。 悟った後の「仕上げの行」に進む。
「刃心流槍術」「穴澤流長刀」を宗家8代目高橋義左衛門包實は、孫である10代山岡静山と11代高橋伊勢守に厳しく槍の稽古をつけ道統を継承し、高橋伊勢守(泥舟)を導き支えた。また、泥舟の義弟鉄舟山岡鉄太郎にもしかりである。文武両道を説く。その2
紀一郎はいう。「それはお前がなにも知らないから、そう思うのも無理はない。理外に理あり、それ死後に必ず生あり、また生後に死あり、生々死々輪転して毫もきわまり無く、善因に善果あり、悪因に悪果あり、これに少しも違う事は無いのだ。これは恐れなくてはいけない。おれはな謙、天上界にあってすでに五つの通力を得ている。又意生身を得て、行こうと思う時は、心のままに何処でも行けるのだよ。だからお前を思う時はいつでも忽焉として現れ得るのだ。もし狐狸なら、お前の槍の前に一たまりもないであろう、さあ一比較致そう」---翌日の夜に至れば復た昨夜の如く紀一郎出で来りて曰く、今夜こそは互いに秘力を尽して十分な比較をなさんと、これを諾し、共に槍をとりて一礼して較技す。(静山山岡紀一郎)
謙三郎は、踵一つを引き下って、自分の構えを「無」にした。隠居は、「参った」と声をかけた。「夢の中に悟ったな。それこそ正夢、お前、一瞬にして「無敵の極意」を得たわ」---(高橋義左衛門包實)
「和尚、私は今、そうしていられるあなたのお顔を拝見して、しみじみと思うのだが、あなたの進まれると、私の槍とはだいぶ道が違っているようです。」---(忍斎高橋謙三郎)
「今日から、われらの師匠は、あなたかな」「そんな事はないが、道の違う事だけは、あなたの今一歩というさとしと、死んだ兄を目の当たりにしておかげで確と自悟しました。和尚どの、あなた方仏家の道は、障子一重に小野小町や衣通姫が艶色したたる嬌声を発しているのを聴きながら、われらはかれらがために煩悩を起してはならぬ。戒律に違うててはならぬ。それでは仏になれぬとご修行なさるのが、道としていられるように感じました。しかし、私が苦しみ抜いて漸くして自悟たした槍法はこれと大いにその趣を異にする。私は小野小町や衣通姫の雪の肌も遠慮なく抱き寝もすれ、肌着も中着も上着も付け揃えて仕立てをしてやって、それをいっそ立派に仕上げてやるのが道であると覚え知った。それもこれも、和尚どのの言葉から決着自悟した。有難い事です。」---(忍斎高橋謙三郎)
「これは恐れ入った」「参りました。先日の御道場の先生と、今の先生は別人でいられる」「和尚どののたまものです」「和尚どの、高橋はひとりよがりを、しかも卑俗の語を以て申したが、これで胸中がまことにさっぱりした。この後はどうぞ、道場へもお越し下って、何かとご教示を賜りたい。」「それはこちらから申す事、先生、ほんとにあなたは今日からわれらが師匠ですよ」---(小石川伝通院内の浄土宗処静院の住職である師匠なる琳瑞和尚)
「鉄さん、あれはおのしが負けだよ」「おのしは持った刀が邪魔をしているよ」「えっ」「門前の瓦よ」---(高橋義左衛門包實)「一刀流兵法伝書解」にいう。門前の瓦と伝える譬えあり。---そして一刀流剣理の神髄たる「当流すたることを要す、すたるというは一刀に起こり一刀にすたることなり」という、そのすたる即ち、心中に刀をすてるの心機如何。---山岡が隠居の言葉についての苦悩は、実にそれから20年の長きにわたった。竹刀に災いされた山岡が遂に心中の竹刀を捨てて無刀流を開眼するに至ったのは、明治13年3月3日の払暁である。山岡の修行は井戸金平とのこの一比較以来ひどく激しくなったようだ。みんな寝静まっている夜の夜中に庭づたいにやって来て高橋の雨戸を叩く。時には謙三郎へ、時には隠居へ、剣理を糾して暁に及ぶことさえ度々ある。
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〇誠の宝槍/高橋泥舟(謙三郎/精一)Vol.6 誠の宝槍/高橋泥舟(謙三郎/精一)の精一の通称と戒名「執中庵殿精一貫道大居士」の由来は、堯・舜・禹相伝「16字の心法」(訓戒)であろうと推察します。
堯・舜・禹相伝「16字の心法」(訓戒)「人心惟危 道心惟微 惟精惟一 允執厥中」(人心これ危うく、道心これ微なり、これ精これ一、允(まこと)にその中を執れ)を紹介します。紀元前2000年頃の夏朝の時代に、中国で伝説の聖帝が天下を統治していた頃のお話です。何故伝説かと言うと、史書はあるものの、遺跡が発掘されていないからです。
堯(ぎょう)帝は、人として生まれた以上、どうしても避けられない超現実的な問題が有る事を機敏に察知し、舜(しゅん)に天下を譲る時、次の一句4文字を訓戒として伝えました。「允執厥中」--- 允(まこと)に厥(そ)の中(ちゅう)を執れ(とれ)--- 宇宙の真理である道心を主とし、誠の道を貫く。
そして舜が禹(う)に天下を譲る時、三句12文字を追加して計四句「16文字の心法」を相伝されました。この堯・舜・禹相伝「16字の心法」は、中庸・陽明学の根本精神として現代に伝えられています。
〇誠の宝槍/高橋泥舟(謙三郎/精一)の戒名は「執中庵殿精一貫道大居士」です。精一の通称と戒名の由来は、この堯・舜・禹相伝「16字の心法」(訓戒)「人心惟危 道心惟微 惟精惟一 允執厥中」であろうと推察します。「一以貫之」--- 清貧に生きて、なお道を貫く。
大悟徹底33歳---江戸無血開城---明治維新の激動の時代にあって、徳川家にそして徳川慶喜候に忠義を貫き、「至誠の人」/「至誠一貫」の生涯で高遇なる幕臣と評される。(自ら主君に恭順をすすめて、主君を隠遁の身とならしめた以上は、自分だけ顕要の地位を占めるわけにはゆかぬ。)--- 悟後の修行(聖胎長養)36年。下野して素心を通す。〇誠の宝槍/高橋泥舟(謙三郎/精一)こそ日本精神であると尊敬する。2023年は、〇誠の宝槍/高橋泥舟(謙三郎/精一)(1835〜1903年)没後120年となる。合掌 感謝。
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〇誠の宝槍/高橋泥舟(謙三郎/精一)Vol.7「欲深き人の心と降る雪は、積もるにつれて道を失う」--- 高橋泥舟の遺された有名な格言(道歌)である。
「欲深き人の心と降る雪は、積もるにつれて道を失う」高橋泥舟先生の遺された有名な格言(道歌)である。一度「道」を失うと元の「道」に戻る事は、なかなか難しいものである。
「道に住する事」「道を行ずる事」こそ何よりもうれしく、満たされた、喜びに満ちたものである。最上の幸せである。誠に生きてこそ人生の面白味があり、醍醐味がある。「誠の道」こそ喜びの声。
人生で大切なものは、誠の一字である。(魂の修行)「一を以って万に当たる道」「誠の道を行ずる事」に尽きると言える。誠の宝槍/高橋泥舟 大悟徹底33歳仕上げの行に進む。悟後の修行36年。--- 清貧に生きて、なお道を貫く。
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勝海舟は、家名を立てることが目標であった。誠の宝槍/高橋泥舟は、立派な「魂の修行」こそ目標であった。勝海舟は、高橋泥舟の功績まで自分のものとし、歪んだ歴史を残す。福沢諭吉まで騙している。高橋泥舟を「槍一本で出世した---」との語りは、勝のカモフラージュ(自己弁護)の何物でもない。「誠の修行」により覚者となった泥舟の魂の高さに舌を巻いていたに違いない。晩年のお二人の姿は対照的である。
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〇誠の宝槍/高橋泥舟(謙三郎/精一)Vol.8「西山禾山・高橋泥舟・山岡鉄舟3人の師匠と試練について」
2023/3/1の西山禾山顕彰会の総会にて「西山禾山・高橋泥舟・山岡鉄舟3人の師匠と試練について」と題して講演をさせて頂きました。
一 高橋泥舟の師匠は、義祖父宗家8代目高橋義左衛門包實・兄山岡静山・小石川伝通院内の浄土宗処静院の住職である琳瑞和尚である。
貧乏小役人の二男、高橋謙三郎(泥舟)は養祖父に槍を学び、二十二歳で幕府講武所の槍術教授方出役に抜擢された。皮肉にも実家山岡家に不幸が続き、鉄太郎、のちの鉄舟が婿養子で入った。鉄太郎の知友、清川八郎が画策してつくった幕府の浪士組が内部抗争を起こし、京都から江戸へ連れ戻す大役が謙三郎に与えられた。だが、近藤勇、芹沢鴨たちが新選組として京にとどまり、清川八郎は刺客に斬殺された。謙三郎は責任を問われ蟄居したが、再び召され将軍慶喜の身辺警護の大任を果たす。--- 澤左近将監(勘七郎幸良)は、謙三郎の精忠論を説き一方ならぬ奔走あり。幽閉を免ぜられ二ノ丸留守居席、槍術師範となる。
徳川家の対官軍関係で活躍した勝海舟とは対照的に、幕府の内政で大きな役割を果たした。「江戸城無血開城」を成し遂げた江戸幕府側一番の功績者は、誠の宝槍/高橋泥舟(謙三郎/精一)である。しかし維新後はいかなる推挙をも拒み、市井に埋もれて清貧の生涯を送った。「至誠の人」「至誠一貫」の生涯で、高遇なる幕臣と評される。
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二 山岡鉄舟の師匠は、義祖父宗家8代目高橋義左衛門包實・山岡静山・高橋泥舟・「中西派一刀流」浅利又七郎義明また、臨済禅にては「悟前適水、悟後禾山」
16歳で生母磯女病没、17歳で朝右衛門高福脳溢血にて没。弟五人を連れ飛騨を引上げ江戸に帰着。幼い乳呑児を連れて辛酸の生活を送っています。20歳静山の妹英子と結婚す。結婚後も第一子が餓死する貧乏生活も舐めています。
人は不遇にある時こそ大切な時間である様に思います。父母の教えを守り、山岡鉄舟は15歳の時に『修身二十則』を自ら作り実行しています。人は我欲と環境に大きく左右され易く、過ちや罪を犯してしまいます。この戒めは、真直ぐ「剣の道」を修行する上で大いに有効であったと思います。
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三 西山禾山禅師の師匠は、「右に毎巌、左に越渓」と提唱の中に口癖のように口を衝いて出て来た。一人は宇和島大隆寺毎巌老師(1798〜1872)であり、一人は京都妙心寺越渓老師(1809〜1884)であります。
越渓和尚から送られた碧巌録を大法寺の大火(1881年)で消失したのを余程残念がられた。(火中から持ち出そうとして大火傷を負う)越渓和尚は此の由を聞いて西山禾山和尚の為に親しく筆を執り三年間かけて碧巌集十卷稿本(白隠禅師らの提唱の書きこみを含む)の全部を書いて贈られた。稀に見る美談であります。その年の1884年師越渓老師寂。その稿本はいまも伝えられて釈迦牟尼会に護持されています。
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2023/03/01
西山禾山顕彰会 講演レジュメ 小清水祥孝
・臨済宗 ・妙心寺 ・応燈関一流 大応(南浦紹明)国師/大燈(宗峰妙超)国師/妙心開山無想(関山慧玄)国師
・愚堂/至道無難/正受老人/白隠 ・晦巖/越渓/禾山
・不立文字 ・教外別伝 ・直指人心(直に人の心を指して) ・見性成仏(性を見て仏と成す) ・見性悟道
・大事了畢(だいじりょうひつ) ・悟後の修行(聖胎長養)
・白隠の達磨---袈裟の形 心
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参考図書
〇平常禅 発行日 昭和2年2月15日 発行者 大本山妙心寺布教師会
pP161 晦巖一流の宗風 晦巖の遺風を承けて、本光門下の傑物として雷名近世に轟きし西山禾山和尚、又書にも堪能なり、---「お礼なら隣で貰へ」
〇明治の禅匠 発行日 昭和56年9月15日 発行 禅文化研究所
P161 禾山玄皷(げんく)---禾山玄皷禅師衲覩(ノート)秋月龍民
P169 故鈴木大拙先生が晩年とくに禾山に親しみの情を示されたのも、一に師宗演と禾山の法縁による。
P175 法を嗣ぐものに蘭渓観(大法寺後董)、琢道珠、卓禅慶(大徳寺管長)、大鳳潭(銀閣寺住職)、洞家の祥山、密門の秀戒(槙尾山主)、戒光(雲照寺住職)および磐州居士河野広中の八子がある。
〇宗門安心章提唱 発行日 昭和63年11月11日 著述者 倉内松堂 編集者 宗門安心章編集委員会 発行所 妙心寺派花園会本部
P1.4行目 四国の大法寺の禾山和尚が「檀徒安心章」というものを作って---
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〇誠の宝槍/高橋泥舟(謙三郎/精一)Vol.9 朝昼夕にそれぞれ千回の猛稽古
泥舟自身こう記した。「---故に予も亦公(慶喜)と進退を共にして、隠退の身となり、只管天命を楽しみて、更に 世に出るの意なし、曾て歌あり、狸にはあらぬ我身もつちの舟 こぎいださぬがかちかちの山 と。是、予、忍斎の号を改めて、泥舟と号する所以なり。」
泥舟は、質素に生活しつつも家族の病気に悩まされている様子が窺えます。一方「私は、老人になればなるほど健康になっています。」と明治15年の泥舟の様子を知ることが出来ます。(岩下哲典著「史料紹介 村山家文書の高橋泥舟関係書簡について(上・下)」より)
ある事典に、彼は明治36年、69歳で没するまで、朝昼夕にそれぞれ千回の猛稽古を怠らなかったとある。どういう典拠によったのか知らないが、それだけ意志の強い人だったのであろう。不退転のそういう強い意志を持った人でなかければ、とてもそんな生き方はできない。そしてそういう強い意志は、並外れてみずからを高く持する誇りある者にしてはじめて持続されうるものであろう。(生き方の美学 中野孝次著から)
福澤諭吉(1835.1/10〜1901.2/3 啓蒙思想家・教育家。慶応義塾の創設者)は、米つきと居合が得意だった。諭吉は居合「立身新流」の達人であり、晩年に至るまでこの居合を修練し続けた。居合稽古の手記によると一日に千本以上も形を行っています。また、米つきも毎日一臼つくのを日課としています。諭吉は日課としている散歩、米つきと居合を通じて心身を壮健に保ち、教育者としての旺盛な気力を養っていたのではないでしょうか。(「独立自尊」福澤諭吉と明治維新 北岡伸一著から)
両氏は武人です。福澤諭吉の日常生活は、流石に立派です。一方、高橋泥舟の日常生活における一家の経済と素心の貫徹は、ひとかたならぬ苦労があったものと推察します。想像するに胸が熱くなる日本精神です。不動心ある清々した泥舟の姿と境地を拝す。その境地と魂は高く、燦然と日本史に語り継がれる。--- 合掌
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○ 合気道八幡浜道場のメールマガジン 第3部のバックナンバーです。
2020/07/17 Vol.1 江戸城無血開城」を成し遂げた江戸幕府側一番の功績者は、誠の宝槍/高橋泥舟(謙三郎/精一)である。
2021/01/17 Vol.2 泥舟高橋伊勢守は「刃心流槍術」「穴澤流長刀」の11代目継承者である。
2021/01/17 〇 誠の宝槍/高橋泥舟(謙三郎/精一)の書(小清水孝蔵)
2021/07/17 Vol.3 宗家8代目高橋義左衛門包實伝「至極の勝」--- 常に人に勝たんと欲する心を整え、徳の我身に足らざる所を補い、その徳を積んで徳を以て勝べし。
2022/01/17 Vol.4 泥舟高橋伊勢守33歳「大悟徹底」悟った後の「仕上げの行」に進む。
2022/07/17 Vol.5 悟後の修行36年。「一以貫之」--- 清貧に生きて、なお道を貫く。高橋泥舟(謙三郎/精一)こそ〇誠の宝槍であり、日本精神であると尊敬する。「至誠の人」/「至誠一貫」の生涯で、高遇なる幕臣と評される。
2023/01/17 Vol.6 高橋泥舟先生の戒名は「執中庵殿精一貫道大居士」です。精一の通称と戒名の由来は、堯・舜・禹相伝「16字の心法」(訓戒)であろうと推察します。
2023/07/17 Vol.7「欲深き人の心と降る雪は、積もるにつれて道を失う」--- 高橋泥舟の遺された有名な格言(道歌)である。
2024/01/17 Vol.8「西山禾山・高橋泥舟・山岡鉄舟3人の師匠と試練について」
2024/07/17 Vol.9 朝昼夕にそれぞれ千回の猛稽古